#16. 抑えきれなくなった不安
「ここ最近の遥香、少し様子が変じゃない? なんかあった?」
吐く息はまだ白いのに、風の中に春の匂いが混じり始めた2月下旬。
本社営業部で“地獄の月”と呼ばれる3月を目前に控え、この日私は洸くんと少し遠出をして、都内から車で2時間程のところにあるアウトレットモールに来ていた。
お昼前に到着し、ショップを見て回る前にまずは腹ごなしをしていたところ、洸くんから冒頭の台詞を投げかけられた次第だ。
「特に何もないですけど……あ、たぶん仕事の忙しさのせいかもしれません! 初めての年度末に戦々恐々としてますから。実際、年明けから徐々に慌ただしさが増してきてますし。来月が怖いです……」
「確かに3月は修羅場になるからね。でも遥香なら大丈夫。心配しなくても問題なく乗り越えられると思うよ。もし困ったことがあれば、いつでも俺を頼って」
「はい、ありがとうございます……!」
「クリスマスに話した約束覚えてる? 年度末を終えたら旅行に行ってのんびりしよう。その予定を楽しみに俺も頑張るよ」
様子のおかしさについては上手く誤魔化せた。
だけど、旅行の約束が話題に上がってまた胸が軋む。
その約束は果たされるのだろうか、とつい思ってしまった。
「旅行の行き先はまた今度詰めるとして、とりあえず今日はアウトレットを見て回ろう。そろそろ行こうか?」
ランチを終えてお店を出ると、私達はガラス張りのショップが立ち並ぶ通りを並んで歩く。
気になったお店を気ままに見て回り、ゆっくりと買い物を楽しんだ。
そしてある雑貨屋に入った時、こんな一幕があった。
「遥香、このお皿はどう思う?」
「洸くんの家に今ある食器とのバランスを考えるなら、こっちの方が良くないですか?」
「確かに。いっそこの機会に全部買い替えてもいいかも。今あるのだいぶ古いしね。その場合、遥香はここにある中でどの食器が好み?」
「そうですね、このくすみカラーのお皿が好きです。シンプルだけどオシャレですし、どんな料理とも合いそうだなって思います」
洸くんは食器の買い替えを考えているらしく、真剣な顔で色々見比べていた。
意見を求められたので、私もお皿を覗き込んで、思ったままに答えた。
すると……
「いいね、それにしよう。その食器セットを2人分購入決定で」
「えっ、2人分、ですか?」
「俺の家に来た時、遥香も使うでしょ? あと、他に何か欲しいものある? 遥香が足りないと感じる物は買い足してくれていいから」
さも当たり前のように言われて、私は思わず言葉を失う。
これではまるでこれから同棲を始める仲良しカップルのようだ。
……なんで? 水原先輩とやり直すのなら、他の女性と選んだ食器なんて家に置かない方がいいのに……。
喉まで出かかった疑問を、私はぐっと呑み込み、笑顔の裏にそっと隠した。
「お待たせ。次行こうか」
私が言葉に詰まっている間に、お会計を済ませていた洸くんの手元には、今2人分の食器が入ったショップ袋が握られている。
冷静に考えて、洸くんの言動は恋人との別れを考えている人のそれではない。
……ということは、水原先輩とやり直すかもっていう想像は私の勘違い? もしかしてSNSも別に匂わせとかじゃなく、全然洸くんとは関係なかったのかな?
そんな希望的観測が芽生えてくる。
でもその直後、ふわりと気持ちを浮き立たせた私を嘲笑うかのような出来事が起こった。
高級ブランドショップが建ち並ぶエリアに来た時のことだ。
隣を歩いていた洸くんがふいに一瞬立ち止まった。
不思議に思ってその視線の先を追うと、そこにはファッション雑誌から抜け出したような美女が、風に揺れる長い髪を靡かせてショップの前に佇んでいた——“あの人”だった。
その姿を見た瞬間、胸の奥がひやりと凍りついた。
「……洸くん?」
恐る恐る名前を呼ぶと、洸くんはわずかに肩を揺らし、ハッとしたように目を瞬かせた。
けれど次の瞬間、何事もなかったように微笑む。
「ごめん、偶然知り合いを見つけて、ちょっと驚いてたんだ」
「……そうなんだ」
洸くんは水原先輩のことを、“知り合い”と言った。
だけど私は知っている。
その“知り合い”が“元カノ”だということを。
でも知らないふりをした。
私と洸くんが立ち止まって会話をしている間に、水原先輩も洸くんの姿に気づいたようだ。
にこりと笑ってこちらへ近づいてくる。
「洸平! こんなところで会うなんて偶然ね!」
「……ああ」
目を細めて笑う水原先輩からは、自分の美しさを分かっている人だけが持つ余裕が漂っていた。
周囲の空気までふっと華やぐ。
「先日に続いてまた会えて嬉しいわ。ねぇ、あの後電話したのに洸平ったら全然出てくれないじゃない。仕事忙しいの? 洸平って昔から妥協しないタイプだものね。久しぶりに色々話したいから飲みに行きたいのに」
「この前も言った通り、そういうつもりはないから。悪いけど、電話もらっても出ないよ」
「洸平どうしちゃったの? 昔はあんなに優しかったのに。……あ、そうだ! ねぇ、真哉と由希子が結婚することになったって聞いた? 今年の夏に挙式するらしいわよ」
「その話なら真哉から連絡来た。もう知ってる」
「じゃあ輝明が海外赴任になったって話は? 今ロンドンにいるらしいの! 今度みんなで遊びに行きたいよね〜って由希子とも話してて」
「それも聞いた。赴任前に輝明とも会ったし」
目の前では、2人の間でだけ通じる話が、軽やかに交わされていく。
私の知らない“あの頃”の空気が、目の前でふわりと蘇っているみたいだった。
洸くんの隣にいるのに、まるで自分だけ別の世界に立っているような気がした。
「……というか、もういい? そろそろ行きたいんだけど」
ここまで淡々と受け答えをしていた洸くんだったが、話が長くなりそうだと感じたのか、私を気にするように視線を向け、会話を切り上げた。
その一言をきっかけに、ここで初めて水原先輩の視線が私に向く。
「彼女?」
値踏みするような目が、私の全身をゆっくりと這った。
審判を受ける断罪人にでもなったかのように、私は息を止める。
「分かったわ。……じゃあ、洸平、またね」
洸くんが口を開くより早く、水原先輩はふふっと艶やかに笑い、その場を去っていった。
その微笑みには、ただの挨拶以上の何かが潜んでいる気がした。
「……ごめん、邪魔が入って。遥香の知らない人の話ばかりで退屈だったでしょ。学生時代の同級生だから共通の知人が多くて」
「そうなんですね。……綺麗な人、でしたね」
「まぁ、モデルとかやってたみたいだから。それより行こうか?」
「……はい」
その後、私達は何事もなかったようにショッピングを再開した。
けれど、私の脳裏では高校時代の記憶——洸くんと水原先輩が笑い合う姿が次から次へと浮かんできて、胸のざわざわが止まらない。
極め付けに、私は見てしまった。
それは洸くんの家に一緒に戻り、アウトレットで購入した食器を使って夕食をとった後のこと。
洸くんがシャワーを浴びに行った隙に、覗いた水原先輩のSNS。
そこには……
——『また同じ場所で、同じ空を見上げた。タイミングって不思議。必要な人には、ちゃんとまた出会える。#偶然じゃない気がする #アウトレット』
ノスタルジックな色彩をした空の写真とともに、意味深な文章が綴られていた。
……勘違いじゃなかった。やっぱり洸くんのことだ。
今日のやりとりから推察すると、今のところ洸くんには水原先輩とやり直す意思はないように思う。
でも明らかに水原先輩の方には未練が窺えた。
……水原先輩が本気で洸くんに接近したら? そんなの分かりきってる。あんなに綺麗で、思い出もいっぱいある気心知れた女性に迫られたら、誰でも心が揺れちゃうよ。
不安がぶわっと胸を覆い、心の中が真っ暗に染まった。
その夜、私は洸くんと抱き合いながら、慣れ親しみつつある体温になんだか泣きそうになった——。
◇◇◇
それから程なくして“地獄の月”に突入した。
残業・休日出勤も珍しくない日々に、オフィスの空気もピリピリしている。
噂通りの修羅場に、私も遅れを取るまいとただただ無心で手を動かし、積み上がる書類と格闘した。
余計な事を考える暇がない忙しさは、今の私にとっては正直ありがたい。
本社営業部のエースである洸くんは私以上に忙しく、日中ほぼオフィスを不在にしていて、社内でもなかなか姿を見かけない。
あまりの多忙さから、週末も会う時間を取れずにいる状態が続いていた。
「いや〜、今年の年度末は例年に輪をかけて忙しい! なんかもう笑えてくるわ。はははは」
「あ、久我さん! ちょうど良かった! 外回りから帰って早々ですけど、これチェックしてください!」
「ちょっとは休憩させてよぉ! しかも今、一応定時後だよ? 高梨さんって鬼!? 南雲さんもそう思うよね……!?」
「ふふっ、不在がちな営業担当を捕まえたい高梨さんの気持ちは分かるから、私はなんとも言えないかな。でも疲れてる久我くんの気持ちも分かるよ。だから私、飲み物でも買ってくるね」
「えっ、いいの!? 助かる〜!」
ずっと座りっぱなしだったこともあり、少し気分転換をしたかった私は、買い出しを申し出て席を立つ。
リフレッシュルールで飲み物とちょっとしたお菓子を購入し、すぐさま引き返して廊下を歩き始めた。
「南雲さん」
その道中、ふいに背後から名前を呼ばれて振り返ると、結城くんが立っていた。
「結城くんも残業? 情シスも今忙しいの?」
「営業部ほどではない。けど、まぁそれなりに。……それより、ちょっとこっち来て」
「えっ? どこ行くの?」
「いいから。こっち」
会話を始めた途端、なぜかマジマジと私の顔を覗き込んできた結城くんが、突然そう言ってズンズン歩き出す。
訳が分からないけど、きっとなにか結城くんなりの理由があるのだろう。
これまで何度か助けてもらった経験があり、同期として結城くんに信頼を寄せていた私は、黙ってその背を追いかけた。
結城くんが足を止めたのは、それからすぐのこと。
避難階段の踊り場だった。
定時を過ぎた時刻のため、辺りに人気はなく、シンと静まり返っている。
「ここに、何かあるの?」
「……顔色が悪い」
「えっ?」
「様子もおかしい。なんか悩んでる?」
この場に来た理由を問いかけたところ、返ってきた予想外すぎる返事に私は目を丸くした。
以前にも同様のことがあった。
ぶっきらぼうな口調だけど、内面を見透かしたような鋭い言葉にまたドキッとさせられる。
心当たりがありすぎて、思わず笑みが崩れそうになった。
「……そう、かな? たぶん仕事が忙しすぎるせいかも。ほら、今繁忙期だから」
「本当に?」
結城くんは眼鏡越しに、誤魔化しは通じないと私を見据えた。
心の奥底まで見通しそうなその瞳に、つい怯みそうになる。
「……広瀬主任のことで、悩んでんじゃないの?」
「!」
「付き合ってるんでしょ」
「な、なんで……!?」
続いてひょいと投下された爆弾発言。
抑揚のない声で告げられたその内容に、私は大きく目を見開いた。
……なんで結城くんが知ってるの!? 洸くんが言うはずないし、私だって社内の人には誰にも話してないのに……!
「誰かに聞いた、とかじゃないから。見てたら普通に気づいた」
私の疑問を引き取るように、結城くんが言葉を続ける。
とりあえず秘密が漏れているわけではないことに一安心だけど、それにしても結城くんの観察眼には舌を巻く。
「いつからかは知らない。ただ年明け頃から、南雲さんの様子が変だなと。……特にここ最近は酷い」
「………」
次々に現状を言い当てられ、ついに笑えなくなった私は、自然と顔を俯けた。
抱えていたペットボトルを、無意識にギュッと握る。
するとその時。
「……さすがに、もう、見てられない」
その一言とともに、腕を掴まれた。
抵抗する間もなく、次の瞬間には胸の中に引き寄せられていた。
「俺にしとけば」
「えっ……?」
「俺なら、悩ませたりしない」
驚いて見上げた結城くんの横顔は、いつもの無表情のまま。
けれど、その奥に潜む熱だけは、はっきりと伝わってきた。
思わぬ展開に頭が真っ白になる。
「ゆ、結城くん……!?」
「……初めて研修で会った時から、いいなって思ってた。空気感が似てて、話してると楽だし。で、南雲さんが本社に異動してきて、接点が増えて……本気になった」
……うそ……ぜ、全然気づかなかった!
確かに人気バンドの話をキッカケに距離は縮まったけど、それはあくまで同期としてだと思っていた。
異性として好意を寄せてくれていたなんて、青天の霹靂である。
「でも、目で追ってるうちに、気づいた。南雲さんの視線の先は……いつも広瀬主任だって。だから言うつもりなかった。——今この瞬間までは」
少し間を置くと、結城くんは私を抱きしめる腕に力を込め、再びゆっくり口を開く。
「……そんな辛そうな顔するなら、広瀬主任なんて辞めて、俺にしなよ」
真剣な眼差しで射抜かれ、心臓が大きく飛び跳ねた。
まさかの出来事に気が動転して、思考はぐちゃぐちゃ。何も考えられない。
「あ、え、その……み、みんなの分の飲み物を買いに来た途中だったから、早く戻らなきゃ……! ま、待たせちゃうから!」
どうしたらいいか分からなくなった私は、混乱する頭で、なんとかそれだけ言葉にした。
そして、結城くんの腕の中から抜け出し、逃げるように走り出した。
混乱と動揺で心臓がバクバクと鳴っている。
「おっ! オレを癒してくれる飲み物の到着だ! 南雲さん、遅かったけどなんかあった?」
「えっ? ううん、特には! ごめん、待たせちゃって」
「遥香さーん! この申請書、今日中に総務に提出しなきゃなんですけど、ちょっと見てもらえませんかぁ?」
「あ、うん。分かった!」
オフィスに駆け込むと、久我くん&高梨さんコンビのいつもの賑やかさに迎えられた。
その光景に、ようやく日常へ戻ってきた気がして、私はこっそり安堵の息を吐く。
ふと隣の席を見やると、先程まではなかったお菓子の箱が置かれていた。
「あ、それ主任からの差し入れですよ! 遥香さんもぜひどうぞ!」
何気ないその一言に、心臓がひときわ強く跳ねた。
今このタイミングで洸くんの名前を聞くなんて。思わず胸の奥がざわめく。
「広瀬主任、マジ忙しそうだわ。一瞬だけオフィス戻ってきたかと思うと、また井澤課長と連れ立って出て行ったし。なんかいつになく焦ってたけど、オレの気のせい?」
「主任が焦る? まっさかぁー! きっと久我さんの見間違えですよ。どんなに忙しくてもいつも余裕の笑顔じゃないですか!」
2人の会話を聞き流しながら、スマホに新着メッセージが届いていることに気づいた。
なぜか今すぐ見なきゃいけない気がして、画面を開く。
——『話したいことがある。何時になってもいいから今夜会える?』
不穏な気配を漂わせる洸くんのメッセージに、私は息を呑んだ。




