忘却の奈落へ沈む国
新世界の中央に位置する軍事強国ヴォルガド。そこはかつて、ザルツが宮廷魔導師として君臨し、死霊術の極致を追い求めた呪われた地であった。ザルツが結城 終によって引導を渡された後も、その国は反省するどころか、遺された研究成果を基に、さらなる狂気へと突き進んでいた。ヴォルガドの王は、死を「資源」と呼び、墓地を「鉱山」と称した。彼らにとって、死者の魂を無理やり引きずり出し、鋼鉄の鎧に詰め込んで自律兵器とする霊魂工学こそが、世界を統べるための鍵であった。
終がヴォルガドの国境に足を踏み入れたとき、まず鼻を突いたのは、不自然なまでに無機質な「魂の壊疽」の臭いだった。街道沿いの村々には人影がなく、あるのはただ、生気のない瞳で巡回を続ける不死兵の群れ。彼らはかつてこの地で愛し、愛されたはずの住人たちであり、今は自らの肉体を弄んだ国のために、永遠に終わらぬ労働を強要されていた。
「……おやおや。一〇二年と数百年生きてきましたが、これほどまでに品性の欠片もない『積読』を見るのは、初めてかもしれません。読み終えた物語を無理やり開き、ページを破って継ぎ接ぎする。……それは、作者への、そして読者への最大の侮辱ですよ」
終の声は、冬の夜風よりも冷たく、重かった。彼の瞳には二十歳の瑞々しさなどは微塵もなく、深淵のような静かな怒りが宿っている。彼にとって死とは、人生という物語の最後の一行であり、何人たりとも汚してはならない神聖な幕引きである。それを掘り返し、戦いの道具として使い潰すヴォルガドの在り方は、葬儀屋としての彼の存在理由そのものに対する冒涜であった。
案内役の小鳥は、もはや囀ることもなく、終の肩で漆黒の火花を散らしていた。終は鞄から、かつての現世で一度も使うことのなかった、最も格式高く、そして最も峻烈な裁きを司る供養道具を取り出した。一〇二年の知恵は、彼に「許すべきではない終わり」が存在することを教えていた。終は銀の杖を強く握りしめ、かつてザルツが嗤った王都の城門へと、静かな、しかし確かな一歩を踏み出した。
数日後、ヴォルガドの王都アイゼンガルは、不気味なほどの静寂に包まれていた。最新鋭の霊魂兵器が配備されていたはずの城壁には、兵士の姿が一人もない。代わりに、街の至る所に「一輪の萎れた白百合」が置かれていた。人々がそれを手に取ると、瞬時に手の中で灰となり、その灰が風に乗って王城へと集まっていく。これは、終が用意した「招待状」であった。
玉座に座る国王の前に、一人の青年が姿を現した。黒い外套をなびかせ、銀の杖を手に、一切の武器を持たぬ葬儀屋、結城 終である。
「……何者だ! 衛兵! この不届き者を捕らえよ!」
王が叫ぶが、衛兵たちは一歩も動けなかった。彼らの背後には、ヴォルガドが冒涜したはずの不死兵たちの影が、本来の姿――かつて終が弔った、アルビオンやハザム、そして人魚たちの「怒れる霊気」を纏って立っていたからである。終は懐から、ヴィンスより譲り受けた銀の天秤を空中に放った。天秤はこれまでの旅で見せたような黄金の光ではなく、冥府を思わせる蒼白な炎を上げていた。
「王よ。……この天秤で、あなたが奪った『死者の安らぎ』と、あなたが望む『永遠の覇権』を量ってみましょう。……ああ、無駄ですよ。針はすでに、あなたの『破滅』の側へ振り切れています。あなたは死を克服したつもりでしょうが、実際には死に執着し、その足首を掴まれているに過ぎない」
天秤の右皿に、ヴォルガドが踏みにじった魂たちの涙が載せられた。皿は一瞬で崩壊し、その重みは王城の床を粉砕した。左皿に載せられた王の野望は、風に舞う羽毛よりも軽く、醜く浮き上がった。
終は銀の杖を高く掲げ、一〇二年の知恵と、亜神としての裁きの権能を解き放った。
『聖域展開:無に帰す引導の鐘』
王城全体が、一切の音と光を奪われた漆黒の空間に変貌した。それは終が救ってきた安らぎの死ではなく、何一つ残らない、絶対的な「虚無」としての死であった。
「あなたが死者を道具にしたように、今度は死者が、あなたをその暗闇へ引きずり込む番です。……死を冒涜した者に、最後の一行を綴る資格などありません。あなたの物語は、ここで白紙のまま、永久に閉ざされるのです」
終の静かな宣告と共に、王城に閉じ込められていた魂たちが、枷を外された猛獣のように王へと襲いかかった。
翌朝、太陽が昇った時、そこにヴォルガドという国は存在しなかった。
壮麗な王城も、世界を震撼させた霊魂工学の研究所も、そして傲慢な王も、すべてが一夜にして真っ白な灰へと還っていた。石ころ一つ残さず、歴史のページから暴力的に毟り取られたかのような、徹底した消滅であった。かつて国民であった人々は、なぜか自分がどこの国の人間であったかを忘れ、ただ平和な村人として、近隣の国々へと散っていった。彼らの記憶からも、死者を冒涜した醜い歴史は、終の手によって「なかったこと」として弔われたのである。
終は、灰の平原となったかつての王都の中央に立ち、銀の杖を静かに振った。すると、灰の中から、ヴォルガドによって汚染されていた魂たちが、清らかな光の粒となって空へと昇っていった。彼らは終の怒りによって解放され、今度こそ本当に、誰も邪魔することのできない永遠の眠りにつくことができた。ザルツが弄び、王が消費した魂たちが、ようやく「自分自身の終わり」を取り戻した瞬間であった。
「……お疲れ様でした。不快な思いをさせてしまいましたね。……これからは、誰に起こされることもなく、静かに夢を見続けてください。一〇二年生きた私が保証します。二度と、あなたたちの眠りを妨げる者はいません」
終は一〇二年の重みを持って、空へと昇る光に深く、深く一礼した。彼の背後では、案内役の小鳥が、元の穏やかな黄金の輝きを取り戻し、寂しげに一度だけ鳴いた。
「……終、君は怒ったんだね。あんなに恐ろしい葬儀をするなんて。君の中に、あんな冷たい炎があったなんて知らなかったよ」
「……私は葬儀屋です。物語を終わらせるのが仕事ですが、物語そのものを汚す者だけは、私の『客』ではありませんから。……さて、案内役さん。これで少しは、この世界の空気も清やかになったでしょうか」
終は鞄を閉じ、杖を軽く回すと、再び始まりの聖域へと向かって歩き出した。ヴォルガドが辿った末路。それは、歴史書にすら記されることのない「完全な忘却」であった。死を道具にした報いは、自らがその道具にすらなれぬまま、存在そのものを消されることだったのだ。終は一〇二年の知恵を持って、その残酷なまでの静寂を、この世界の必要な一部として受け入れたのである。
二十歳の身体に、一〇二年の達観を宿した葬儀屋。
彼の杖は、迷える魂を救う盾であると同時に、尊厳を穢す者を無に還す、峻烈な審判でもあった。




