泡沫の記憶と、潮騒に咲く花
かつてのレノーアを支配していた、不自然なまでに滑らかで凍りついたような美しさは、今のこの街にはありません。家々の壁には時の経過を示す苔が付き、運河を渡る橋の欄干には、人々の手が触れたことによる艶が生まれています。
終が運河沿いを歩くと、道端で談笑する老人たちの深い皺や、元気に駆け回る子供たちの泥だらけの膝が目に飛び込んできました。一〇二年の人生を全うした彼にとって、これこそが「生きている」ことの証明であり、最も美しい風景でした。
「……正しく枯れ、正しく朽ちる。これほどまでに街が瑞々しく見えるのは、死という終わりの一行が書き加えられたからこそですね」
終は鞄から、かつての現世で水難事故の供養に用いた、清らかな水蓮の香りを移した白装束を取り出しました。亜神の魔力が宿るその布地は、海の湿気を吸うたびに、かつて都から解き放たれた人魚たちの感謝の歌声を微かに響かせます。
案内役の小鳥が、港の方角を指して鋭く囀りました。そこには、かつて「不老不死の苗床」とされていた大聖堂の跡地に建てられた、新しい海辺の孤児院がありました。その庭で、一人の女性が子供たちに絵本を読み聞かせています。
彼女の耳の後ろには、透き通るような小さな鱗の名残りがありました。それは、かつて終が泡沫へと送り出した人魚たちが、人間との間に遺した「生の証」――人魚の血を引く末裔たちの印でした。
「……その物語の結末は、少しだけ悲しすぎませんか」
終が木陰から声をかけると、女性――ミラは驚いたように顔を上げました。彼女が読んでいたのは、かつてこの街が永遠の呪いに囚われていた時代を象徴する、終わりのない悲劇の物語でした。
終は歩み寄り、鞄からレノーアの儀式で手に入れた真珠の数珠を取り出しました。
「数百年前に、あなたの先祖たちはこの都を去りました。ですが、彼女たちは決して消えたわけではありません。……ほら、この真珠の中に、彼女たちが最後に笑った時の輝きが閉じ込められています」
終が数珠を軽く振ると、真珠から放たれた柔らかな光がミラの周囲を包み込みました。光の中で、かつての大聖堂で安らかに溶けていった人魚たちの幻影が、楽しげに踊り始めます。それは怨念に満ちた腐敗した姿ではなく、月光の下で真珠を愛でる、美しき海の乙女たちの姿でした。
ミラはその光景に涙を流し、自らの首元に触れました。
「……わが家に伝わる古い日記には、黒い服を着た聖者が、おばあ様たちに『眠る権利』を返してくれたと記されていました。……貴方が、その。……でも、そんなはずは。貴方はこんなに若い」
「一〇二年生きた経験から申し上げますが、魂の年齢と肉体の形は、必ずしも一致するものではありませんよ。……ミラさん、あなたが今、こうして年を重ね、いつか愛する人に見守られながら眠りにつけること。それこそが、彼女たちが命を賭して手に入れたかった『最高の贅沢』なのです」
終の言葉に、ミラは深く頷きました。彼女の指先には、老いによって刻まれ始めた、繊細で愛おしい小さな「時」の筋が見えました。
その夜、終はミラに案内され、都の最も高い場所にある「泡沫の墓苑」を訪れました。そこは、肉体を持たずに昇天した人魚たちのために、都の人々が数百年かけて作り上げた、海が見える美しい慰霊地でした。
終は銀の杖を掲げ、具現化の儀を用いて、墓苑の周囲に数万の輝く泡沫を降らせました。
「これより、時を超えて繋がれた、人魚と人間の絆を祝す、中継の儀式を執り行います。……参列者は、今を生きる都のすべての人々です」
終が鎮魂の調べを奏でると、海の中から無数の青白い光が浮かび上がってきました。それは、かつて宇宙の海へと還っていった人魚たちの魂が、子孫たちの幸せな「老い」を見届けるために戻ってきた、愛の残照でした。
都の人々は窓を開け、その美しい光景を静かに見守りました。死を忌むべきものとして遠ざけていたかつての住人たちとは違い、今の彼らは、その光の中に自らの「未来の安らぎ」を見ていました。
「……葬儀屋様。私は、いつか自分の最期が来た時、貴方に看取ってほしいと願っても良いのでしょうか」
ミラが静かに問いかけました。終は銀の杖を彼女の足元に軽く突き、優しく微笑みました。
「ええ。あなたの物語の最後の一行を綴る時、もし私が近くにいれば、最高の睡蓮の寝床を用意しましょう。……ですが、それまでは、この潮風のように、自由に、美しく生きなさい。……死を待つのではなく、生を味わい尽くすのです」
翌朝、終が都を去る船に乗ると、港にはミラと子供たちが集まり、かつての人魚の歌を、今の人間たちの言葉に直した新しい歌声で見送ってくれました。
二十歳の身体に、一〇二年の達観を宿した青年は、朝の光にキラキラと輝く泡沫を眺めながら、次の、そして本当に最後となる再会の地へと舵を切りました。
彼の行く先には、常に「終わり」があります。しかしその終わりは、潮が満ちては引くように、常に新しい「始まり」をその背中に背負っていました。




