氷棺の恐怖
「……去れ、人の子よ。我が命は、まだ尽きてはおらぬ。我がいなくなれば、この峰の均衡は崩れ、下界は永遠の冬に閉ざされるであろう……」
巨龍の声は、地響きとなって神殿を揺らした。だが、終の耳には、それが虚勢を張る幼子の泣き声のように聞こえた。
終は懐から、ヴィンスより譲り受けた銀の天秤を取り出し、吹雪の中に浮かべた。
天秤の右皿には、アルビオンが数千年かけて積み上げてきた「世界の守護」という功績を載せる。皿は一気に沈み込み、迷宮の床が悲鳴を上げた。
「左の皿に、あなたの『安らぎ』を載せてください。……おや、やはり。皿は微動だにしませんね。あなたは、自分が消えた後の世界を案じているのではない。ただ、自分が『忘れ去られること』、そして『無に還ること』に、怯えていらっしゃるだけだ」
「黙れ! 矮小なる人間が、悠久の時を生きる我の心を推し量るなど不遜なり!」
龍が激しく咆哮し、絶対零度のブレスを吐き出した。神殿全体が瞬時に氷結し、空気さえも凍りつく。しかし、終は銀の杖を軽く一閃させるだけで、その極致の破壊を、静かなる雪解けへと変えてみせた。
『聖域展開:安らぎの葬送』
黄金の光が氷の神殿を満たし、アルビオンの巨体を包み込む。聖域の力により、龍の荒ぶる心は強制的に鎮められ、魂の深淵にある「本当の音」が響き始めた。
「私は一〇二年を生き、一度死にました。……死とは、消滅ではありませんよ、アルビオン殿。それは、あなたがこれまで守ってきた山々や、空や、風の中に、あなたという存在を『分散』させる行為なのです」
終は固有能力である『未練の解読』を起動した。天秤の支柱が神聖な音色で共鳴し、龍の脳裏に、彼がこれまで慈しんできた四季の風景が流れ込む。
春の芽吹き、夏の雷鳴、秋の収穫。龍はそれらを見守り、愛していた。だが、あまりに長く生きすぎたために、自分が「観察者」ではなく「世界の一部」であることを忘れてしまっていた。
「あなたは十分すぎるほど、この世界に尽力されました。もう、自分という形を保ち続けるために、その魂を削る必要はないのですよ」
終の言葉に、巨龍の瞳から、氷柱のような大粒の涙が零れ落ちた。それは数千年の孤独が、ようやく解け始めた証であった。




