騎士団長の嫉妬
高級既製服の導入は、王都のファッションに革命を起こした。
一部の特権階級に独占されていた『美』が、富裕な平民や商人たちの手にも届くようになったのだ。
アトリエは連日活気に満ち、僕は水を得た魚のように、次々と新しいアイデアを形にしていった。
新しいカッティング、異国情緒を取り入れた斬新なテキスタイル。
デザイナーとしての脂が乗り切り、僕のブランドは飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していた。
だが、光が強くなれば、当然そこに落ちる影も濃くなる。
「ねえアッシュ。この新作、全部買い取ってあげる。だから今夜、私の屋敷のサロンにいらっしゃいよ。あなたにだけ、特別に『お礼』をしてあげるわ」
甘ったるい香水の匂いを漂わせながら、僕の腕に柔らかい胸を押し付けてきたのは、王都でも一、二を争う大商人の娘だった。
若く、流行に敏感で、華やかな美貌を持つ彼女は、僕のプレタポルテラインの最大の顧客であり——同時に、最も厄介な「頭痛の種」でもあった。
彼女にとって、今一番ホットなデザイナーである「僕」は、ドレスと同じ、一種のステータスシンボルなのだ。
毎回のように高額な買い物を盾にしては、執拗で露骨なアプローチを仕掛けてくる。
得意客である以上、むげに扱うこともできず、僕は曖昧な愛想笑いで躱す日々が続いていた。
その様子を、アトリエの奥の特別応接室から、静かに見つめる瞳があった。
レオノーラ様だ。
彼女が来店するたび、商人の娘が僕にまとわりついている場面に鉢合わせることが増えていた。
その時のレオノーラ様は、決まって何も言わなかった。
ただ、紫水晶の瞳の奥に、戦場でも決して見せないような、暗く揺らぐような痛みを滲ませていた。
(私は、ただの一介の顧客に過ぎない。公爵令嬢という立場で、自由な平民である彼を縛る権利など、どこにもないのだ……)
彼女がそう自分に言い聞かせるように、ギュッと唇を噛み締めて目を逸らすたび、僕の胸も鋭く締め付けられた。
「違うんです、僕は彼女になんて欠片も興味はない」と叫びたかった。でも、身分の壁と、急速に巨大化していくビジネスの波が、不器用な僕たちの間に見えない距離を作り出しつつあった。
事件が起きたのは、そんなある日の夕暮れだった。
「さあアッシュ、馬車に乗って。今日は絶対に逃がさないわよ。私の専属のお抱えデザイナーになってちょうだい」
店の前で、商人の娘が僕の腕を強く引き、半ば強引に自分の豪奢な馬車に押し込もうとしていた。取り巻きの護衛たちも退路を塞いでいる。
「困ります、僕はまだ仕事が……」
穏便に断ろうとした僕の言葉を遮るように、娘が僕の首に腕を絡ませ、その赤い唇を近づけてきた、まさにその瞬間だった。
「——その男から、手を離せ」
地を這うような、凄まじく冷たい声が夕闇に響き渡った。
空気が凍りついた。
振り返ると、そこには銀糸の刺繍が施された美しい黒の乗馬服に身を包み、腰に騎士剣を佩いたレオノーラ様が立っていた。
彼女から放たれる、歴戦の騎士団長としての圧倒的な覇気と、それ以上に激しい『怒り』のオーラに、商人の娘も護衛たちも悲鳴を上げて後ずさった。
「ひ、ひぃっ……!」
「ゆ、ゆくぞ!」
蜘蛛の子を散らすように馬車に逃げ込み、商人の娘は嵐が去るように走り去っていった。
静寂が戻った店の前。
夕風が吹き抜ける中、レオノーラ様は肩で荒い息をして、うつむいていた。
「……レオノーラ、様?」
恐る恐る声をかけた僕に対し、彼女はガバッと顔を上げると、まだ熱を帯びた瞳で僕を睨みつけ、泣きそうな、怒っているような声で叫んだ。
「お前は……っ、お前は、私の専属仕立て屋だろう!」
——えっ。
「お前が初めて作った、あのドレス……あの日から、お前は私を一番美しくすると言ったではないか! なのに、あんな女にへらへらと笑いかけて……っ、私以外の女の専属になるなど、絶対に、絶対に許さんぞ!!」
張り裂けんばかりの声だった。
常に冷静沈着で、自分の感情を押し殺してきた公爵令嬢の、初めて見せる我を忘れた激しい独占欲と、むき出しの嫉妬。
言い放ってから数秒後。
自分が口走ったあまりにも身勝手で、そして『まるで恋人に対するような』言葉の意味に気づいた彼女は、ハッと息を呑んだ。
「あっ……ち、違う、これは、その……私としたことが、なんというはしたない……」
首の根元まで真っ赤に染め、パニックを起こして顔を覆うレオノーラ様。
その不器用で愛おしい姿を見た瞬間、僕の心を満たしていた不安も、ビジネスの重圧も、すべてが嘘のように溶けて消えていった。
「……ふふっ、あはははは!」
「な、なにを笑っているのだ、アッシュ!」
「すみません、でも……嬉しくて」
僕は一歩踏み出し、顔を覆う彼女の震える両手に、そっと自分の手を重ねた。
「許さないでください。僕も、あなた以外の専属になる気なんて、これっぽっちもありませんから」
ビクッと肩を震わせ、指の隙間から僕を見つめる紫水晶の瞳。
そこに映る僕自身の顔も、きっと彼女と同じくらい、熱く赤く染まっていたはずだ。
「誰がなんと言おうと、僕はあなたのものです、レオノーラ様」
夕闇の街角
公爵令嬢と平民の仕立て屋。決して交わるはずのなかった二つの軌道は、不器用な嫉妬の爆発によって、もう二度と離れられないほどに、確かな熱を伴って重なり合った。
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