プレタポルテ1
テレビや雑誌はおろか、写真すらろくに普及していないこの時代。
王都における情報の波は、すべて貴族たちの「サロン」から発信されていた。
そして、レオノーラ様のお母様である公爵夫人こそが、そのサロン文化の中心に君臨する絶対的な重鎮だった。数多の芸術家を庇護する絶大なパトロンであり、社交界の美の基準を決定づけるファッションリーダー。
彼女が扇を揺らして「素晴らしいわ」と微笑めば、それが翌日の王都の『正解』となるのだ。
建国記念パーティーでの劇的な一夜を経て、レオノーラ様と公爵夫人が僕の仕立てたコルセット・レスのドレスを身に纏ってサロンに現れた日。それは、文字通り王都のファッション史が塗り替えられた瞬間だった。
『鳥籠から解放された、新しい時代の美』
僕のドレスは新たな流行として確立し、「アッシュ」という僕の名は、いやが応にも王都中に轟くこととなった。
結果として、僕のアトリエには嵐のような日々が訪れた。
連日、公爵夫人と同じ最先端のドレスを求める貴婦人たちの馬車が店の前に列をなし、「アッシュの指名で」という高額な製作依頼が雪崩のように舞い込んできたのだ。
朝から晩まで採寸と型紙作りに追われ、気づけば、僕個人のパターン採寸の予約は「三年待ち」という恐ろしい状況に陥っていた。
「……ふう」
特別応接室に漂う、香り高いダージリンティーの湯気。
僕は床に膝をつき、レオノーラ様の新しいドレスの裾にマチ針を打ちながら、無意識のうちに深いため息をこぼしていた。
この数ヶ月、レオノーラ様と公爵夫人のドレスだけは、最優先で定期的に仕立て続けていた。
採寸や仮縫いのたびに顔を合わせるうちに、僕たちは身分の壁を越え、お茶を飲みながら少しずつ親しい会話を交わせるようになっていた。
無口だと思われていたレオノーラ様が、実は甘い焼き菓子が好きで、ふとした時に見せるはにかむような笑顔がひどく可愛らしいこと。公爵夫人が、鋭い審美眼の奥に少女のような好奇心を隠し持っていること。
「疲れているようだな、アッシュ」
僕の頭上から、レオノーラ様の静かで気遣わしげな声が降ってきた。見上げると、彼女の紫水晶の瞳が、少しだけ眉をひそめて僕を見つめている。
「……申し訳ありません。少し、考え事をしておりまして」
僕は苦笑いしながら立ち上がり、針山をテーブルに置いた。
「ありがたいことに、お店はこれ以上ないほど繁盛しています。でも……忙しすぎるんです。僕の頭の中には、新しいシルエット、新しい布の組み合わせ、まだ誰も見たことのないドレスのアイデアが山のように溢れているのに。毎日一人ひとりのお客様の採寸をして、一から型紙を引き直していると、そのアイデアを形にする時間が全く取れなくて……」
それは、完全特注服というシステムが抱える、構造的な限界だった。
職人としての喜びはある。だが、デザイナーとしての僕は、自分の内側から湧き上がるイデアを表現できないもどかしさに、ひどく飢え、消耗していた。
「まあ。それはこの国の芸術にとって、大いなる損失だわ」
ソファで優雅に紅茶を傾けていた公爵夫人が、パチン、と豪奢な扇を閉じた。
彼女は面白そうに目を細め、まるで今日のお茶菓子の種類を提案するような、あまりにも軽やかな口調でこう言ったのだ。
「それならばアッシュ。何も一人ひとりの体を測って、一から作る必要はないのではないかしら?」
「え……?」
「彼らは『あなた』の作った服を着たいのよ。だったら、あなたの素晴らしいアイデアを形にしたドレスを一つ作り、それを少しずつ大きさを変えて、あらかじめ何着かずつ作ってお店に並べておけばいいじゃない。お客様には、その中から自分に合うものを選んで買っていただくのよ」
ドクン、と。
僕の心臓が、大きく跳ねた。
「同じデザインを……大きさを変えて、あらかじめ作っておく……?」
雷に打たれたように立ち尽くす僕の脳裏で、前世の記憶が鮮烈にフラッシュバックした。
そうだ。現代日本では当たり前のシステム。S、M、Lといったサイズ展開。
特定の個人のための服ではなく、不特定多数の「誰か」を美しく飾るために作られる、完成された既製服。
——高級既製服
「はっ……!!」
僕は思わず声を上げ、両手で自分の顔を覆った。
なぜ、こんな簡単なことに気づかなかったんだ!
貴族の服は一からあつらえるものだという、この世界の常識に僕自身が囚われていたのだ。
あらかじめサイズ展開して服を作っておけば、僕自身は採寸から解放され、デザインとパターンの製作に全精力を注ぐことができる。
職人たちに縫製を分業化させれば、より多くの人々に、より早く、僕の服を届けることができる。
それは、一部の特権階級だけのものだったファッションを、富裕な平民たちへと解放する「革命」の始まりだった。
「どうしたのだ、アッシュ。急に顔色を変えて……」
心配そうに僕の顔を覗き込んでくるレオノーラ様。
その完璧に美しい顔を見つめ返した瞬間、僕の中で停滞していたデザイナーとしての血が、再び激しく沸き立つのを感じた。
「奥様、レオノーラ様! ありがとうございます、今、とんでもないことを閃きました!」
僕は興奮のあまり、無作法にも公爵夫人の手をとってぶんぶんと振り、レオノーラ様に向かって満面の笑みを向けた。
「僕、やります! 今までの常識を覆す、新しいブランドの形を作ってみせます!」
「うふふ、なんだか分からないけれど、とても良い顔になったわね。期待しているわよ、アッシュ」
「あ、ああ。君がそこまで言うのなら、きっと素晴らしいものになるのだろうな」
公爵夫人の悪戯っぽい笑顔と、レオノーラ様の少し戸惑ったような、それでいて眩しいものを見るような眼差し。
柔らかな午後の日差しが差し込む特別応接室。
この小さなサロンでの何気ない会話が、のちに世界の経済と文化のあり方を根底からひっくり返す、巨大なファッション帝国の幕開けとなったのだった。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




