婚約破棄
建国記念パーティーが開かれているその夜。僕は王都の片隅にある自分の工房で、ひたすらヤキモキと落ち着かない時間を過ごしていた。
主を失い、空っぽになった特注の大きなトルソー。
僕は意味もなくメジャーを首にかけたり外したりしながら、狭い部屋の中を熊のように歩き回っていた。
ドレスのフィッティングは完璧だった。
彼女の類まれなる美しさを引き出す自信もあった。
しかし、ここは古い慣習に縛られた貴族社会だ。コルセットもパニエもない僕のドレスが、保守的な連中にどう受け止められるか。
何より、あの薄情な王太子がレオノーラ様に心無い言葉をぶつけはしないか。
自分の仕立てた服という名の「鎧」が、彼女の気高い心を守り抜けるのかどうか、気が気ではなかったのだ。
そんな僕の不安などよそに、王宮の大広間では、社交界の歴史を覆すような事件が起きていた。
——豪奢な大扉が開かれ、レオノーラ様が姿を現した瞬間。
数百人の貴族がひしめき合っていた大広間から、一瞬にしてすべての音が消え去った。
純白の絹と真紅のベルベット。歩くたびに流麗なシルエットを描き出し、銀糸の百合がシャンデリアの光を反射して命を得たように瞬く。
そこにいたのは、窮屈な常識から解き放たれた、野生の女神のように圧倒的な美しさを放つ絶世の美女だった。
大広間の中央で、取り巻きの令嬢たちを侍らせていた王太子は、手にしたグラスをガチャンと取り落としたらしい。
彼が、信じられないものを見るように目を剥き、よろめくように彼女の前に進み出た。
「レ、レオノーラ……なのか?」
自分が陰で嘲笑っていた婚約者だと認識した途端、その男の顔には卑しい欲情と傲慢な笑みが張り付いた。
「ふ、ふん。随分と見違えたではないか。これほど美しくなったのなら、当初の予定を変えてやってもいい。ただの飾りの妻ではなく、俺の本当の妻として抱いてやっても良いぞ」
己の身勝手な約束をあっさりと反故にし、恩着せがましく手を差し出す王太子。
だが、レオノーラ様は微塵も動じなかった。差し出された手を見下ろし、澄み切った氷のような声で言い放ったのだ。
「殿下には、『筋肉ゴリラ』と結婚するご趣味はおありでないと伺っておりましたが。
それに、己の言葉すら守れず、美醜のみで態度を翻すような方に、この国を導く器があるとは思えません。私の方から、婚約破棄を宣言させていただきます」
「き、貴様! 言葉を慎め!」
顔を真っ赤にして激昂し、公爵家への報復を喚き散らそうとした王太子。
そこに立ちはだかったのは、威風堂々たるレオノーラ様の父、公爵だった。娘の言葉を全面的に支持し、婚約の白紙撤回を突きつけたのだ。
「ええい、黙らんか! 騒ぎをやめよ!」
大広間の空気をビリビリと震わせたのは、玉座から立ち上がった国王陛下その人だった。
国王は、重々しい足取りで王太子の前へと進み出ると、厳格な声でその場にいる全員に響き渡るように告げた。
「公爵、及び公爵令嬢の言うこと、最もである」
「ち、父上……!?」
「言い訳など聞きたくもない! お前も頭を冷やして考え直せ。自らの言葉を軽んじ、真の価値を見抜けぬ浅薄な振る舞い……このままでは、この国をお前に任せることはできん!」
国王からの衆人環視の中の叱責。屈辱的な状況に、王太子は膝から崩れ落ちた。
周囲の重臣たちも、誰一人として彼に救いの手を差し伸べることはなかった。
レオノーラ様は優雅にカーテシーを執ると、唖然として立ち尽くす元・婚約者をその場に残し、一瞥もくれずに踵を返したという。
残された王太子が、憎悪と執着に歪んだ目で彼女の背中を睨みつけていたことなど、露知らずに。
——そんな激動の夜が更けていったことなど、工房に閉じこもっていた僕には知る由もなかった。
「あのスリットの深さはやりすぎだっただろうか」「いや、彼女の脚の長さならあれがベストだ」などと、一人でブツブツと呟きながら、気づけば白み始めた窓の光を浴びていた。
徹夜明けの重い頭を抱え、そろそろ職人たちがやってくる時間だと、店のシャッターを開けた直後のことだった。
カランカランッ!!
ドアベルが、ちぎれんばかりの勢いで鳴り響いた。
心臓を跳ね上がらせて入り口を見ると、そこには朝一番の陽光を背に受けて立つ、二人の女性の姿があった。
「アッシュ!」
興奮冷めやらぬ様子で、頬を桜色に染めたレオノーラ様。
そしてその後ろから、「まあまあ、本当に素敵なアトリエね!」と目を輝かせて店内に足を踏み入れてきたのは、豪奢な扇を手にした公爵夫人——彼女のお母様だった。
「お、おはようございます、レオノーラ様……それに、奥様まで。一体どうされたのですか、このような朝早くから」
徹夜明けの頭が追いつかず目を白黒させる僕に対し、レオノーラ様は、まるで戦に大勝して帰還した騎士のような、今までで一番輝かしい、晴れやかな笑顔を向けた。
「あなたに、アッシュに一番に報告したかったのだ。……すべて、終わったと」
そして、その後ろで公爵夫人が、僕の手をガシッと力強く握りしめた。
「お話は後でゆっくり聞かせてあげるわ。それよりもアッシュ、私にもあのドレスを仕立ててちょうだい! ああ、コルセットのない服がこれほどまでに自由で美しいなんて! 私の友人たちも、皆あなたの服を欲しがって大騒ぎだったのよ!」
僕は唖然としたまま、昨夜の自分の心配が完全に杞憂であったこと、そして――僕のデザイナーとしての人生が、この朝を境に途方もない規模で動き出そうとしていることを、肌で感じ取っていた。
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