オートクチュール4
ついに、その日がやってきた。
レオノーラ様に、完成したばかりのドレスをお渡しする日だ。
特別応接室に用意された大きな姿見の前。僕が恭しく開けた豪奢な箱の中から、朝露を弾く白百合のような純白の絹と、星屑めいた銀糸の刺繍が姿を現す。
それを見た彼女は、涼やかな紫水晶の瞳を瞬かせた。
「……美しい布だ。だが、アッシュ。コルセットやパニエはどこにある? いかにして着るのだ、これは」
無理もない。彼女の知る常識からすれば、あまりにも斬新すぎるフォルムなのだから。僕がこの服の構造と、いかにして彼女の肉体を解放するかを熱を込めて説明しようと息を吸い込んだ、まさにその時だった。
「まあいい、構造はなんとなく分かった。手伝いは不要だ」
彼女は連れてきたメイドをさっさと下がらせると、箱からドレスを鷲掴みにし、一人で試着室へと入ってしまった。
戦場で幾度も修羅場を潜り抜け、過酷な野営で重たい鎧の着脱をたった一人でこなしてきた騎士団長。
その無骨な合理性と行動力が、まさかこんな場面で発揮されるとは。
僕は呆気に取られながらも、密室の向こうから聞こえる衣擦れの音に、じっとりと手のひらに汗を握っていた。
やがて、カタン、とラッチが外れる音がした。
ゆっくりと試着室の扉が開く。
「……どうだろうか」
少し自信なさげに、肩をすぼめるようにして現れた彼女の姿を見た瞬間。
僕は頭の芯を雷で撃ち抜かれたように、完全に言葉を失った。
それは、奇跡のような光景だった。
身体に吸い付くようにぴったりと沿う純白の絹は、彼女が長年、血の滲むような鍛錬によって研ぎ澄ませてきた無駄のない肉体美を、余すところなく——まさに100%の純度で引き出していた。
窮屈なコルセットを捨て去ったからこそ生まれる、流れるような美しいアウトライン。
深く入ったスリットから覗く真紅のベルベットは、彼女が一歩踏み出すたびに優雅な波を打ち、凛とした清らかさと、内に秘めた激しい生命力とを見事に調和させている。
姿見の前に立ったレオノーラ様自身も、鏡の中に映る自分の姿に釘付けになっていた。
そこにいるのは、見慣れた武骨な騎士ではない。信じられないほど美しく、そして見たこともないほど新しい自分の姿。彼女はただ呆然と立ち尽くしていた。
僕たちは二人して、言葉を発することさえ忘れ、その圧倒的な美という暴力に見惚れていた。
余計な虚飾を好まず、自分の持つ本当の魅力にまったくの無頓着である彼女のその飾らなさに、僕は強く、深く惹かれていた。
だからこそ、デザイナーとしての——いや、一人の男としての欲求がもう抑えきれなくなっていた。気がつけば、僕は彼女のパーソナルスペースへと一歩を踏み出していた。
「レオノーラ様」
「な、なんだ」
「……失礼を承知で懇願いたします。どうか、僕にメイクもさせていただけませんか?」
この完璧なドレスを纏った彼女に、普段のすっぴんは未完成すぎる。彼女の持つ素晴らしい骨格に合わせた、最高のメイクを施したい。
出すぎた真似だと断られるかもしれない。そう身構えた僕に対し、彼女は拍子抜けするほどあっけなく答えた。
「……任せると言ったはずだ。好きにするがいい」
そう言って、彼女は微かに震える長い睫毛を伏せ、静かに目を閉じた。
僕は震える手で化粧筆を取った。至近距離から伝わる、彼女の微かな息遣い。
彼女の持つ本来の凛々しさを決して消してしまわないよう、肌の透き通るような雪の白さを最大限に活かす。
切れ長の目元には薄く影を落として深みを持たせ、意志の強さを際立たせる。
そして仕上げに。スリットから覗く裏地と同じ、深く鮮やかな真紅の紅を、その形の良い唇に引いた。
「……終わりました。目を開けてください」
ゆっくりとまぶたを開け、再び鏡を見た彼女の喉の奥から、ヒュッと息を呑む音が鳴った。
鏡の中にいるのは、社交界が嘲笑う『筋肉ゴリラ』でもなければ、戦場を駆ける冷徹な騎士団長でもない。
息を呑むような気高さと、匂い立つような艶やかさを併せ持つ、ただ一人の絶世の美女がそこにいた。
彼女は震える指先をそっと持ち上げ、自分の頬に触れた。
「……私は、女だったのだな」
ふいにこぼれ落ちたその呟き。
そこには、国のため、家のためと、長年自分自身を押し殺してきた彼女の、あまりにも切実で孤独な思いが滲んでいた。
たまらなくなった。胸の奥が熱く焦げ付くようで、僕は叫ぶように口を開いていた。
「何をおっしゃいます! 誰よりもあなたは美しい!」
気がつけば、僕は真っ白な手袋に包まれた彼女の華奢な——いや、剣だこで硬く引き締まった両手を強く掴み、鏡越しの紫水晶の瞳を真っ直ぐに射抜いていた。
「どこに行っても、世界中で一番美しい。僕が保証します」
しん、と。
特別応接室に、魔法がかかったような静寂が落ちた。
鏡の中で僕とバッチリ目が合ったレオノーラ様は、数秒間、石像のように硬直した。
そして次の瞬間——首の根元から尖った耳の先まで、ボンッと音がしそうなほど、全身を真っ赤に染め上げたのだ。
「あっ……う、あ……」
彼女は金魚のように口をパクパクさせたかと思うと、突然くるりと背を向けた。
そして何も言わずに、猛烈な勢いで応接室を飛び出していってしまった。
「あ、レオノーラ様!?」
慌てて追いかけると、彼女はすでに店を飛び出すところだった。
店主のおやっさんや従業員たちが総出で「ありがとうございましたー!」と威勢よく見送る中、彼女は一度も振り返ることなく、まるで恐ろしい魔物から逃げるように馬車へと乗り込んでいった。
……やってしまった。
遠ざかる馬車の土煙を見送った途端、僕の顔からサァッと血の気が引いた。
相手は王国の重鎮であり、雲の上の公爵令嬢。次期王太子妃だぞ。
平民の分際で、令嬢の肩を乱暴に掴み、「世界中で一番美しい」などと、まるで恋人に囁くような熱烈な言葉を投げかけてしまったのだ。不敬罪で首が物理的に飛んでもおかしくない。
(言いすぎた……調子に乗りすぎた。絶対に何か罰を受ける……!)
その夜、僕は薄暗い処刑台の幻影にうなされ続け、結局一睡もすることができなかった。
そして翌朝。
不眠と不安でキリキリと胃を痛めながら、重い足取りで店のシャッターを開けた直後。
カラン、と無情にもドアベルが鳴り響いた。
そこに立っていたのは、昨日と同じように無表情を装いながらも、どこかそわそわとした様子のレオノーラ様だった。
(終わった……騎士団が僕を捕縛しに来たんだ……)
僕は心臓を喉から飛び出させんばかりに跳ね上がらせながらも、ギュッと目を閉じ、腹を括った。
罰を受けるなら受けよう。
どんな刑罰でも甘んじて受け入れる。
しかし、あの言葉だけは絶対に撤回しない。嘘は言っていないのだから。
あの純白の絹を纏った彼女は間違いなく、僕が前世から今世にかけて見てきたどんな女性よりも、圧倒的に、世界で一番美しかったのだから。
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