オートクチュール2
「ドレスを、仕立ててほしい」
その声は、深海のように静かで、どこかひどく冷え切っていた。
王国の頂点に立つ騎士団長であり、誇り高き公爵令嬢であるはずのレオノーラ様の瞳には、深い諦観が揺蕩っていた。
王都で店を構える僕の耳にも、社交界の醜聞は嫌でも入ってくる。
彼女の婚約者である王太子は、露骨に彼女を蔑ろにしていた。「筋肉ゴリラと結婚する趣味はない」と公言し、強大な権力を持つ公爵家との婚約を維持したまま、後宮には己の好みの女たちを囲うつもりだという。
レオノーラ様は、ただの「飾り」であり「名目上の妻」として扱われる運命にあった。
「来月、建国記念日の大々的な夜会がある。……そのための衣装だ」
彼女の言葉は淡々としていたが、そこに込められた苦痛を、僕は布越しに伝わる熱のように感じ取っていた。
公式な場である夜会。二人は婚約者として並び立たねばならない。だが、王太子から彼女に内々に突きつけられたのは、あまりにも残酷な通達だった。
『入場のエスコートだけはしてやる。だが、それ以降はお前の相手をするつもりはない。ファーストダンスは妹姫と踊る。お前はどこか隅の方にでも隠れていろ』
社交界において、建国記念日のファーストダンスは二人の絆と地位を示す絶対的な儀式だ。それを妹姫に譲り、正当な婚約者を壁の花として放置するなど、公爵家の顔に泥を塗るに等しい。その屈辱的な扱いに、彼女の父親である公爵は激怒したという。
しかし、その父を宥め、理不尽な要求を飲み込んだのは、他でもないレオノーラ様自身だった。
「騎士団の者たちは私を慕ってくれている。民も、私を頼りにしてくれている。……だが、社交界が私をどう呼んでいるかも、私はよく知っているのだ」
自嘲気味に伏せられた長い睫毛。その奥にある瞳には、誇り高き騎士としての矜持と、一人の女性としての深い傷が混在していた。
剣を握り、国を守るために鍛え上げられたその肉体は、華奢な令嬢たちが集う夜会では異端とされる。心無い「筋肉ゴリラ」という陰口。
彼女は、誰よりも国を愛しながら、その国の中枢である社交界からは静かに拒絶されていた。
「隅で大人しくしているのだから、せめて公爵家の名に恥じぬよう、身なりだけは整えねばならなくてな。……笑うだろう。こんな身体に合うドレスなど、君のような腕のいい職人に頼むことではないかもしれないが」
忸怩たる思いを胸に押し込め、自ら生贄の羊となることを選んだ気高き魂。
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で、何かが激しく音を立てて弾けた。
冗談じゃない!
僕の目の前に立つ彼女は、前世の記憶――パリやミラノのランウェイを席巻するトップモデルたちすら凌駕する、究極の美を宿しているというのに。
無駄のない筋肉が描く、しなやかで彫刻のようなアウトライン。凛とした背筋。憂いを帯びた、氷の彫刻のように整った顔立ち。
これほどの「最高級の素材」を前にして、隅で隠れるための服など作れるものか。
気がつけば、僕は彼女の大きな、しかし剣だこに覆われた美しい手をとっていた。
「笑うはずがありません」
僕の声は、自分でも驚くほど熱を帯びていた。
「レオノーラ様。あなたのそのお姿は、誰よりも気高く、美しい。……壁の花になるためのドレスなど、僕は絶対に仕立てません」
「な……っ?」
驚きに見開かれた彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、僕は仕立て屋として、いや、一人のデザイナーとして、抑えきれない喜びを胸に深く頭を下げた。
「素晴らしい素材であり、美しいあなたを、さらに美しく飾れる栄誉を与えていただき……光栄です」
頭の中ではすでに、無数のアイデアが嵐のように吹き荒れていた。
王太子の鼻を明かしてやる。社交界の連中の度肝を抜いてやる。彼女のその長身と引き締まった体躯だからこそ着こなせる、斬新でありながら圧倒的にエレガントなドレスを。
時代遅れの常識ごと、僕がこの手で、美しいパターンと共に切り開いてやる。
次の日から、僕のアトリエには魔法がかかったような時間が訪れることになる。
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