僕の望み
王妃陛下からの依頼。それは、デザイナーとしての僕のキャリアにおける、文句なしの最高到達点だった。
書状を受け取った直後から、僕の頭の中ではすでに無数のデザインが嵐のように渦を巻いていた。
外交式典という大舞台。
各国の賓客を圧倒し、王国の威信を体現しながらも、古い慣習に縛られない新しい時代の風を感じさせるドレス。
アイデアは、明確に僕の中にあった。
「女官長様。謹んでお受けいたします。つきましては、すぐにでも王宮へ上がり、王妃陛下の採寸とフィッティングを——」
僕が身を乗り出して申し出た瞬間。
王宮の女官長は、冷や水を浴びせるような冷徹な声でピシャリと言い放った。
「その必要はありません、仕立て屋」
「……え?」
「平民の男が、高貴なる王妃陛下の玉体に直接触れるなど、言語道断。寸法については、王宮専属の針師が細かく採寸し、後ほどそちらへ書面で届けさせます。貴殿は、その数字通りにドレスを仕立てればよいのです」
僕は、息を呑んだ。
「お、お待ちください! 服作りは、単なる数字の羅列ではありません! 陛下の骨格、筋肉の付き方、肌の質感、そして歩くときの重心の揺れ……それらをこの目で直接拝見し、意図を擦り合わせなければ、本当に陛下の魅力を引き出す『最高の一着』など作れるはずがないんです!」
必死の抗議だった。しかし、女官長の顔には微塵も理解の色は浮かばなかった。
「ならぬものはならぬ。王族の規律を、平民の貴殿が乱すことは許されません」
冷たく言い捨て、女官長は護衛と共にアトリエを去っていった。
残された僕は、深い絶望と焦燥感に頭を抱えた。
寸法だけを見て服を作る。
それは、僕にとっては「妥協」以外の何物でもなかった。
プレタポルテならいざ知らず、一国の王妃のためのオートクチュールで、対象を一度も見ずに作れだなんて。
どんなに素晴らしいデザイン画を描いても、着る人の「本質」に寄り添っていなければ、それはただの空虚な布の塊になってしまう。
「……くそっ、これじゃあ駄目だ。最高の舞台なのに……!」
作業台に突っ伏し、ギリギリと歯を食いしばる僕。
その背中に、そっと温かい手が置かれた。レオノーラ様だった。
「……アッシュ。お前は、直接見なければ『最高』は作れないのだな」
静かな、しかし核心を突く声。
僕は顔を上げ、彼女の真っ直ぐな紫水晶の瞳を見つめ返した。
「はい。僕の服は、着る人と対話して初めて完成するんです。数字だけでは……陛下を、世界で一番美しく飾ることはできません」
僕の決意のこもった言葉を聞き、彼女はふっと柔らかく微笑んだ。
そして、僕の頭を、まるで子供を撫でるようにぽんぽんと優しく叩いた。
「分かった。ならば、少し待っていろ」
「レオノーラ様……?」
問いかける僕にそれ以上は何も言わず、彼女は翻るボブカットの髪を残し、颯爽とアトリエを出て行った。
彼女が公爵令嬢としての権力と、これまでに築き上げた数々の人脈——そして、あの公爵夫人の絶大なサロンの力までをも動員して、水面下で激しい根回しに奔走してくれたことを、僕が知ったのは少し後のことだった。
そして、数日後の午後。
僕は、王宮の奥深く——一般の立ち入りが厳しく制限された、豪奢なひと間に控えていた。
壁には金糸のタペストリーが掛けられ、床には足が沈み込むほど厚い絨毯が敷かれている。空気に漂うのは、最高級の香の匂い。
圧倒的な権威の重圧に、胃がキリキリと痛んだ。
(本当に、王宮に来てしまった……)
事前の通達によれば、これも非公式な「極秘」の面会らしい。
表向きは専属針師が寸法を伝えたことになっており、僕は裏口から、目立たないように案内されてきたのだ。
レオノーラ様が、王家に対してどれほどの交渉をしてくれたのか。
その労力を想うと、胸が熱くなり、絶対に失敗は許されないというプレッシャーで手が震えた。
「——王妃陛下、お成り」
静寂を破る、低い声。
重厚な扉がゆっくりと開かれ、衣擦れの音が近づいてくる。
僕は反射的に膝をつき、深く頭を下げた。心臓が、早鐘のように打ち鳴らされている。
「面を上げよ、アッシュとやら」
頭上から降ってきたのは、驚くほど涼やかで、知性に満ちた声だった。
ゆっくりと顔を上げた僕の視界に、王国の国母——王妃陛下の姿が映し出された。
(この方が……)
年齢は四十代半ばだろうか。だが、その立ち姿には一抹の淀みもなく、長年の重責を担ってきた者だけが持つ、深く静かな威厳が漂っていた。
「レオノーラ公爵令嬢から、熱烈な嘆願書が届いてね。『かの天才の目を封じることは、我が国の美の損失である』と。あの子がそこまで肩を入れる男が、どのような服を作るのか。……私の『本質』とやらを、その目で見極めてみせよ」
試すような、しかしどこか楽しげな王妃陛下の微笑み。
僕は深く息を吸い込み、立ち上がった。
震えは、いつの間にか止まっていた。
目の前にいるのは雲の上の王族ではない。僕の服を待っている、一人の女性だ。
「……畏まりました、陛下。必ずや、歴史に残る一着を仕立ててご覧に入れます」
僕は、胸のポケットからメジャーを取り出した。
愛する人が切り開いてくれたこの千載一遇のチャンス。僕のデザイナーとしてのすべてを懸けた、最高峰のドレス作りが、静かに幕を開けた。
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