最強の諜報員と接触
その日の夜。
ゲルムは、改めてノアの資料を広げていた。
「……普通に、不倫なのでは?」
向かいにいた部下が言った。
「可能性はある。」
ゲルムは資料から目を離さない。
若い男と、既婚女性。
人目を避け、宿屋で何度も会っている。
それだけを見れば、そう考えるのが自然だ。
「それなら、今回の調査とは関係ありませんね。」
「いや。」
ゲルムは即座に否定した。
「私は、そうは見ていない。」
「なぜです?」
「こいつは公爵家に勤めている。」
「はい。」
「まだ見習いとはいえ、公爵家の人間だ。」
問題を起こせば、自分だけでは済まない。
ましてや、相手は既婚者。
「もちろん、それでも不倫する人間はいる。」
「えぇ。」
「だが、何日か見た限り、こいつは真面目だ。軽率な行動を取る人間にも見えない。」
「確かに。」
「若い。素直だ。言われたことも真面目にやる。」
年上から、可愛がられることはあるだろう。
「だが。」
ゲルムは女性の資料を見る。
「既婚者が危険を冒して、何度も宿屋で会うほどか?」
「…………。」
「私の方が大人の魅力がある。」
「それは知りません。」
「…………。」
「隊長?」
「いや。」
ゲルムは小さく咳払いをした。
「この関係自体に、目的があると考えている。」
「目的?」
「あぁ。」
情報を得るために、対象へ近づく。
信用を得る。
必要であれば、より深い関係を築く。
「諜報任務……。」
「そうだ。」
もし。
ノアがそういった任務を専門とする人間なら。
この密会にも、別の意味が生まれる。
「なるほど……。」
部下は頷いた。
だが、すぐに何かに気づいたように顔を上げる。
「でも。」
「なんだ。」
「それなら、普段のあれは?」
「…………。」
「隊長が何日も見て、本当に見習いにしか見えなかったんですよね?」
「あぁ。」
「仕事も?」
「普通だ。」
「訓練も?」
「一年目のハンターにしか見えん。」
「だったら、そこは矛盾しませんか?」
「いや。」
ゲルムは首を横に振った。
「むしろ逆だ。」
「逆?」
「あぁ。」
正体を隠して、大会へ出場した。
あれほどの実力を持ちながら、名前すら明かさなかった。
その時点で。
普段から素性や実力を隠している可能性は。
最初から考えていた。
そして。
何日追っても。
その片鱗すら見せない。
「最初は、ただの可能性だった。」
ゲルムはノアの資料を指で叩く。
「だが、本当にこいつが優勝者なら。」
ヒナ・ヴィルガルムを破り。
王国最強と呼ばれる男と。
互角に渡り合った人間が。
朝から晩まで。
誰が見ても。
ただの見習いとして生活している。
「これだけ追っても、何も出ない理由にもなる。」
「……隠しているから。」
「あぁ。」
表では。
何日見ても、ただの見習い。
その裏で。
人目を避け。
既婚女性と密かに関係を築いている。
ゲルムの中では。
最初からあった推察が。
少しずつ。
形を持ち始めていた。
「こいつは。」
ゲルムは資料を見る。
「見せたくないものを、徹底して見せない人間だ。」
⸻
それからも、ゲルムは監視を続けた。
数日後。
ノアは再び、あの宿屋へ向かった。
「…………。」
少し遅れて。
同じ女性が入っていく。
変わらない。
以前と同じ。
二人は今も、定期的に会っている。
その日の夜。
「隊長。」
「あぁ。」
「女性の夫についてですが。」
部下が一枚の資料を差し出した。
「最近、妻の行動を疑っているようです。」
「……何?」
「帰りが遅くなることが増えたことを、気にしているようで。」
ゲルムは資料を受け取る。
「関係に気づいているのか?」
「そこまでは分かりません。ただ、妻が何かを隠しているのではないかと疑っているのは確かです。」
「…………。」
ゲルムは黙った。
夫が。
妻を疑い始めている。
にもかかわらず。
ノアは今日も。
あの女性と会っていた。
(知らないのか?)
ノアほどの人間が。
女性の夫に生まれた変化を。
見落としている。
(……いや。)
あり得ない。
そう言い切ることはできない。
どれほど優秀であろうと。
四六時中。
夫まで監視しているわけではない。
どの程度まで疑われているのか。
そこまでは気づいていない可能性もある。
「……仕方ない。」
「隊長?」
「接触する。」
「ノアにですか?」
「あぁ。」
「危険では?」
「危険だ。」
こちらは。
まだノアの正体を掴みきれていない。
相手も。
こちらの存在を知らない。
監視を続けるだけなら。
その状態を維持する方がいい。
だが。
「一度、こちらの存在を見せる。」
「反応を見るんですね。」
「あぁ。」
それだけではない。
「もし、夫の件を知らないなら。」
ゲルムは資料を置く。
「相当な恩を売れる。」
「……なるほど。」
これほどの人材と。
繋がりを作れる機会。
多少の危険を冒してでも。
試す価値はあった。
⸻
翌日。
仕事を終えたノアが。
人気の少ない道へ入ったところで。
「ノアさん。」
「……?」
足が止まる。
ノアが振り返った。
ゲルムは。
少し離れた場所に立っていた。
「誰だ?」
「あなたのことを、少し調べさせてもらいました。」
「……は?」
「ある女性と。」
ゲルムは淡々と続ける。
「宿屋で定期的に密会していますよね。」
「…………!」
ノアの表情が変わった。
「その女性の夫が、あなたとの関係を疑っています。」
「……っ。」
「あなたなら、既にご存知かとは思いましたが。」
ゲルムは。
ノアの反応を見ながら続ける。
「念のため、伝えておこうと思いまして。」
「…………。」
「私は伝えましたからね。」
それだけ言うと。
ゲルムは背を向けた。
「では。」
「待て!」
後ろから声が飛ぶ。
「お前、誰なんだ!」
ゲルムは足を止める。
少しだけ。
振り返った。
「私のことは。」
一拍。
「Gとお呼びください。」
そして。
そのまま歩き去った。
「……怖すぎるだろ。」
その場に残されたノアは。
しばらく。
動けなかった。
自分のことを調べた。
密会していることも知っている。
さらに。
相手の夫が疑い始めていることまで。
知っている。
(旦那が雇った奴か……?)
不倫をやめさせるために。
まずは警告に来た。
そう考えれば。
辻褄は合う。
「…………。」
ノアは周囲を見る。
誰もいない。
だが。
今までにも。
見られていたのかもしれない。
(……まずいな。)
翌日。
ノアは女性へ事情を話した。
しばらく。
会わない方がいい。
そう決めた。
そして。
それからだった。
⸻
「……変わったな。」
ゲルムは。
遠くからノアを見ていた。
明らかに。
周囲を警戒している。
角を曲がる前。
人の多い場所。
店の窓。
時折。
何気ない動作に混ぜながら。
後方を確認する。
以前とは。
まるで違う。
それまでのノアは。
誰も見ていない場所ですら。
隙だらけだった。
尾行を警戒する様子など。
一度も見せていない。
それが。
接触した直後から。
変わった。
(……もう隠す必要がないと判断したか。)
こちらの存在を。
知ったから。
少なくとも一人。
自分を調べている人間がいる。
それを知った。
ならば。
今までのように振る舞い続ける意味もない。
「それと。」
隣にいた部下が口を開く。
「女性とは、あれから一度も会っていません。」
「あぁ。」
「隊長が伝えた直後からです。」
「…………。」
ゲルムはノアを見る。
本当に。
ただの不倫だったのなら。
どうだ。
何度も。
人目を避け。
宿屋で会っていた相手。
それほどの関係を。
見知らぬ男から。
夫に疑われていると聞かされた。
それだけで。
即座に切れるものなのか。
まして。
ノアは若い。
「……やはり、おかしい。」
「私もそう思います。」
部下が答えた。
ゲルムは。
少し考える。
「だが。」
「はい。」
「報告した直後に会わなくなったということは。」
「……知らなかった?」
「あぁ。」
夫が疑っていることを。
本当に知らなかった。
だから。
ゲルムから知らされた直後。
関係を切った。
その可能性はある。
「だとすれば。」
部下が言う。
「恩を売れたことになりますね。」
「あぁ。」
少なくとも。
ノアにとって。
価値のある情報だった。
そして。
接触したことで。
もう一つ。
分かったことがある。
普段は。
何日追っても。
ただの見習い。
尾行されていることすら。
気づいている様子はなかった。
だが。
こちらの存在を知らせた途端。
警戒の仕方が変わった。
「隊長。」
「なんだ。」
「私も。」
部下は。
ノアの背中を見る。
「彼だと思います。」
「……あぁ。」
最有力候補ではない。
もう。
ゲルムだけでもなかった。
調査を続けていた部下も。
同じ結論へ。
辿り着き始めていた。




