研究者としての誇り
次の日。
「……レイが私の講義を?」
戻ってきたバルテシアは、露骨に眉を寄せた。
「はい。二年Sクラスの魔法理論学を代行したそうです。」
「あいつはまた何をやっているんだ。」
「メロリア先生が頼んだそうですよ。」
「…………。」
バルテシアが黙った。
「……そうか。」
なら、少なくともレイが勝手に入り込んだわけではない。
「彼女は強引だからな……。」
そこについては納得した。
だが。
「魔法に関する知識や技術を持っていることは分かっている。」
一年Sクラスへの指導にも、今のところ問題はない。
魔法について無知だとは思っていない。
「しかし、魔法理論学は別だ。」
理論を一つ知っていればいいわけではない。
魔法理論学には、長い歴史の中で積み上げられてきた膨大な体系がある。
一つの現象に対して、異なる立場から説明する理論もある。
成立した時代も違えば、前提も違う。
それぞれの関係まで理解して、初めて体系として教えることができる。
魔法を使えるだけでは足りない。
独学で多少知っている程度でも足りない。
まして王立魔導学園の、それもSクラスだ。
「あいつに教授として講義ができるとは思えん。」
少なくとも。
バルテシアはそう考えていた。
⸻
次の魔法理論学。
「昨日はすまなかったな。」
「いえ。」
「それで?」
バルテシアは教壇に教材を置いた。
「代講はどうだった?」
「面白かったです。」
「…………。」
手が止まる。
「面白かった?」
「はい。」
「何をしたんだね?」
「最初は普通に授業してました。」
「普通に?」
「はい。教科書の内容を説明して、質問にも答えて。」
「…………。」
そこから既に少し意外だった。
「説明に間違いは?」
「なかったと思います。」
「質問には?」
「全部答えてました。」
「…………ふむ。」
ならば。
少なくとも、教科書を読んで理解できる程度の素地はあるらしい。
魔法を実践的に扱う人間なら、それ自体は不思議ではない。
「それで、何が面白かったんだ?」
「途中からです。」
「途中?」
一人の生徒がノートを開く。
「レイ先生が、教科書の前提を変え始めて。」
「…………何?」
「ここです。」
ノートを受け取る。
「…………。」
見る。
確かにそうだ。
簡略化されてはいる。
だが、要点は外していない。
むしろ――。
「……随分と整理しているな。」
初めて教える人間のまとめ方には見えない。
「ここまでは普通だったんですけど。」
生徒がページをめくる。
「ここからレイ先生が、『この前提を変えたらどうなる』って。」
「…………。」
バルテシアの視線が止まった。
「なぜここを変えた?」
「面白そうだから、みたいな感じでした。」
「…………。」
もう一度見る。
単なる思いつきか。
最初はそう思った。
だが。
「……いや。」
その先を読む。
変更した前提。
そこから生じた矛盾。
別の条件の修正。
生徒から出た案。
それを受けて、さらに組み替えた跡。
「…………。」
バルテシアの表情が変わる。
無茶苦茶に壊しているわけではない。
元の理論を理解している。
どこを変えれば、何に影響するのか。
少なくとも、それを追えるだけの理解がある。
「……ここは?」
「レイ先生の案です。」
「こちらは?」
「私です。」
「これは?」
「レイ先生ですけど、途中で間違いに気づいて消しました。」
「…………。」
なるほど。
知識量は分からない。
どこまで体系的に学んでいるのかも分からない。
だが――。
理論を扱える。
それも、ただ理解して使うだけではない。
自分で動かし、崩し、別の形を探せる。
「…………ふむ。」
バルテシアは別のノートも借りた。
「ここの続きは?」
「そこから全員で考えて――」
「待て。」
指で追う。
「この条件を残したのか。」
「はい。」
「なら……。」
考える。
「…………。」
紙を一枚取った。
「こちらを先に変えれば……。」
書く。
「いや。」
消す。
「そうではないな。」
もう一度書く。
「…………ほう。」
「先生?」
「なるほど。」
別の式を足す。
「ふーん。」
「先生。」
「待ちなさい。」
「…………。」
「ここをこうすれば――いや、これでは同じか。」
さらに書く。
「ならこちらから……。」
「先生。」
「なんだね?」
「授業を進めてください。」
「…………。」
バルテシアが顔を上げた。
生徒全員がこちらを見ている。
「…………あ。」
完全に忘れていた。
「……すまん。」
教室から小さな笑い声が漏れる。
「笑うな。」
咳払いして、教壇へ戻った。
「では、今日の講義を始める。」
教科書を開く。
「…………。」
だが。
先ほどのノートが気になる。
「…………。」
バルテシアは無理やり視線を教科書へ戻した。
⸻
講義を終え。
研究室へ戻ってからも、バルテシアは考えていた。
「…………。」
魔法理論学を知らない人間ではない。
それは分かった。
むしろ、かなり深いところまで理解している。
ただ――妙だった。
知識に偏りがある。
教科書に書かれている理論そのものはすぐに理解しているのに、その理論が魔法理論学全体の中でどこに位置するのかという部分には、妙に疎い。
体系的に学んだ者とは少し違う。
「独学……か?」
それなら納得できる。
専門教育を受けず、自分で必要なものを学んできた。
そういう人間なのだろう。
しかし。
「…………。」
それだけでは説明しきれない。
理論を理解するだけなら、優秀な学生にもできる。
だが、理解した直後に前提へ手を入れ、その結果を追い始めるのは別だ。
少なくとも。
「研究はできるな。」
それも、かなり高い水準で。
教授として魔法理論学全般を教えられるほど、広範な知識を持っているとは思わない。
だが研究者として見るなら――。
「博士課程……。」
そこまで考えて。
「いや。」
比較する意味もないか。
経歴すら知らないのだ。
ただ一つ。
はっきりしたことがある。
あの男は。
魔法理論を考えることができる。
バルテシアは机に置いた資料を見る。
「…………。」
報酬の交渉はしてこない。
何を考えているのかもよく分からない。
自分が大したことをしていないと、本気で思っている。
そのうえ今度は――。
「これか。」
バルテシアは小さく息を吐いた。
「本当に、よく分からん奴だ。」
だが。
以前とは少しだけ、その言葉の意味が変わっていた。




