学園を救った男
土曜日。
レイは一年Sクラスの教室へ向かっていた。
「さて……。」
呼び戻された理由は、おそらくこのクラスで起きている問題だ。
なら、まずは本人たちから事情を聞くのが早い。
「とりあえず話聞くかー。」
教室の前まで来る。
中から話し声が聞こえていた。
全員いるらしい。
レイはそのまま扉を開ける。
「よー。おはよう、みんな。」
「「「おはようございます!」」」
「…………。」
全員が席に着いた。
机の上にはノート。
こちらを見る顔も明るい。
「レイ先生、本日もよろしくお願いいたします。」
ライオットがいつも通り頭を下げる。
「おう……。」
「…………。」
レイは教壇へ向かう。
なんだこれ。
普通だ。
あまりにも普通だった。
聞いていた話では、授業を拒否しているはずなのだが。
少なくとも、自分の授業を拒否するつもりはないらしい。
むしろ以前より素直なくらいだ。
「…………。」
これから、
『お前ら、なんで授業受けなかったんだ?』
と聞くのも妙な空気だった。
まあいい。
授業が終わってからでも聞ける。
「じゃあ始めるぞ。」
「「「はい!」」」
結局。
その日は普通に講義をした。
そして翌週。
「おはよう。」
「「「おはようございます!」」」
「…………。」
やはり普通だった。
先週と変わらない。
講義を聞く。
質問をする。
課題を出せば素直に受け取る。
他の講師と問題を起こしたという話も聞かない。
「…………。」
まあ。
今うまくいっているなら、わざわざ掘り返す必要もないか。
レイはそう考えた。
それからさらに一週間。
三週目も、何も起こらなかった。
そして四週目。
一年Sクラスは完全に落ち着いていた。
授業の拒否はない。
他の講師と問題を起こすこともない。
レイ自身についても、教師、生徒のどちらからも悪い話は上がってこなかった。
もう十分だ。
少なくとも、バルテシアはそう判断していた。
その日の講義を終えたレイを、バルテシアは自室へ呼んだ。
「今月分だ。確認してくれ。」
「はい。」
机の上に置かれた封筒を、レイが手に取る。
中から紙幣を取り出した。
一枚ずつ数えていく。
バルテシアは、それを黙って見ていた。
三十二万ベル。
一日八万ベル。
以前は五万だった。
増額を決めたのはバルテシアだ。
一度こちらの都合で解任し、僅か二週間で呼び戻した。
それも、学園で問題が起きたからという、完全にこちら側の事情で。
ならば同じ条件で戻ってこいというのは筋が通らない。
だから八万。
妥当な額だと考えている。
だが――。
別に、それで終わりとは思っていなかった。
「…………。」
レイが紙幣を数えている。
バルテシアは待つ。
プロ。
その肩書きは、ただ依頼をこなす者に与えられるものではない。
社会的にも、法的にも、極めて強い権利を持つ。
もちろん、好き勝手に振りかざせるものではない。
正当な理由もなく権利を濫用すれば、むしろ自分たちの立場を危うくする。
だからこそ――。
今回のような状況では使う。
使って当然なのだ。
学園側の都合で解任された。
その直後、今度は学園側の都合で呼び戻された。
報酬について再交渉するには十分すぎる理由がある。
そして、それをレイ自身が分かっていないはずがない。
「…………。」
さあ。
どう来る。
単純に金額を上げろと言うか。
今回の事情を材料にするか。
今後の待遇まで含めて条件を出すか。
こちらの弱みをどこまで使ってくる。
筋の通った交渉なら応じよう。
上手い条件を持ってくるなら、それはそれで面白い。
逆に甘いところがあるなら突く。
身勝手な要求をするなら、徹底的に論破してやる。
そのための材料も揃えてある。
一日十万程度までなら、こちらにも譲歩する余地はある。
さあ――。
「はい、三十二万ベル。」
レイが紙幣を封筒へ戻した。
「確認しました。ありがとうございます。」
「…………。」
バルテシアは待った。
「…………。」
レイが封筒をしまう。
「…………。」
「…………?」
レイがこちらを見る。
「何か?」
「いや。」
「そうですか。」
「…………。」
まだだ。
確認が終わっただけだ。
ここから切り出すつもりなのだろう。
「では、失礼します。」
「待ちたまえ。」
「はい?」
「……金額について、何かないのかね?」
「金額?」
「あぁ。」
レイは少し考えた。
「ああ……前より増えてますね。」
「そうだ。」
「ありがとうございます。」
「…………。」
違う。
そうではない。
「それだけかね?」
「え?」
「君はこの金額について、どう思っている?」
「どうって……。」
レイが封筒を見る。
「ちょっと多いかな、とは思いますけど。」
「…………何?」
「俺、大したことしてませんし。」
「…………。」
バルテシアはレイを見る。
謙遜。
一瞬、そう考えた。
だが――違う。
言葉に含みがない。
こちらの反応を窺っている様子もない。
好印象を与えようとしているわけでもない。
本当に。
心の底から。
自分は大したことをしていない。
そう思っている顔だった。
「……そうか。」
「はい。」
「…………。」
理解できない。
アイリスの件は、まだ分かる。
本当に妹を学園へ入れたかった。
それだけだったのだろう。
特別扱いを求めなかったことも、そういう人間なのだと思えば理解はできる。
だが――これは違う。
報酬だ。
仕事に対する対価。
善人だろうが、悪人だろうが関係ない。
まして、プロならなおさらだ。
正当な権利を正当に行使する。
それは彼らにとって当然のこと。
今回なら交渉してきても、何一つおかしくない。
むしろ――。
交渉してくる方が自然だ。
なのに。
「では、失礼します。」
「……あぁ。」
レイが扉へ向かう。
「レイ。」
「はい?」
「来週も頼む。」
「…………。」
なぜか今度はレイが黙った。
「なんだね?」
「いえ……。」
少しだけ困ったような顔をして。
「……分かりました。」
「あぁ。」
「では、また来週。」
レイが部屋を出ていく。
扉が閉まった。
「…………。」
バルテシアは動かなかった。
自分から聞いた。
わざわざこちらから、交渉の入口を作った。
あとは乗るだけだった。
それすら、乗ってこなかった。
「…………私は何をやっているんだ。」
どっと疲れた。
しかも、何もしていない相手との交渉で。
交渉にすらなっていない。
アイリスの件は、まだ分かる。
本当に妹を入学させたかっただけなのだろう。
だが、報酬は違う。
善人だろうが何だろうが。
自分の仕事に対する正当な対価を求めることは何も悪くない。
まして、あの男はプロだ。
強大な権利を与えられている代わりに、その扱いも理解している。
無意味に振りかざすことは許されない。
だが、正当な場面で正当に行使することまで躊躇する連中ではない。
今回など、まさにそうだ。
こちらの都合で解任し。
こちらの都合で呼び戻した。
交渉して当然。
なのに――。
『俺、大したことしてませんし。』
「…………。」
謙虚。
そんな単純なものには見えなかった。
少なくとも、自分には。
謙遜している人間は、自分が相手からどう評価されているかを知っている。
あれは違う。
本当にそう思っている。
だから自然だった。
「……分からん。」
バルテシアは額を押さえた。
分からない。
理解できない。
なのに――。
だからこそ、気になる。
「…………。」
もう一度、閉じた扉を見る。
「……早く来い。」
何でもいい。
要求しろ。
条件を出せ。
こちらはとっくに準備している。
「…………。」
そこで、ふと気づいた。
自分は今。
相手から要求されることを待っている。
「…………。」
バルテシアはさらに深く額を押さえた。
「……私は何をやっているんだ。」
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