最初の約束
「人族が運び込まれた。」
その知らせが。
森の奥に隠された里を、瞬く間に駆け巡った。
「人族……?」
アイリスは、手にしていた籠を下ろした。
この里へ、人族が入ることはほとんどない。
森の周囲には、外から里へ近づけないよう強力な結界が張られている。
道に迷った者がいても。
里の者が姿を隠したまま、森の外へ誘導するだけ。
里の中へ入れることなど、まずなかった。
けれど今回は。
そのまま放置すれば、全員が死ぬ状態だったらしい。
アイリスが治療所へ向かうと。
すでに多くの里人が、慌ただしく出入りしていた。
室内には。
五人の人族が横たえられている。
身なりのよい中年の男。
森の案内人と思われる男。
そして。
まだ若い三人の男女。
全員の呼吸が浅く。
肌は、病的なほど青ざめていた。
「毒霧を吸ったようじゃ。」
治療を行っていたエルフの一人が告げる。
「魔獣の巣へ迷い込んだらしい。」
「アイリス。こちらを手伝っておくれ。」
「うん。」
アイリスは頷き。
黒髪の少年のそばへ膝をついた。
まだ十代に見える。
けれど。
身に纏う魔力は、里の戦士たちと比べても異様なほど強かった。
アイリスは少年の胸元へ手をかざす。
治癒魔法を流し込み。
毒による身体の損傷が、これ以上広がらないよう抑えていく。
アイリスの力だけで。
身体へ回った毒を完全に消すことはできない。
それでも。
本人の治癒能力を高め、悪化を遅らせることはできた。
「……ん。」
少年の瞼が、わずかに動いた。
「意識があるの?」
「……ほかの……二人は……。」
掠れた声だった。
自分のことではなく。
隣に横たえられた仲間たちのことを聞いている。
「治療してる。」
「まだ、生きてる。」
「……そっか。」
少年は、僅かに息を吐いた。
「よかった……。」
「喋らないで。」
「体力を使うから。」
「ああ……ごめん。」
素直に謝り。
少年は目を閉じた。
けれど。
少し経つと、再び薄く目を開く。
「……あの人も。」
弱々しく動いた指が。
身なりのよい男を示していた。
「俺たちより……毒を吸ってる。」
「分かってる。」
「ちゃんと治療してるから。」
「……ありがとう。」
それだけ言うと。
今度こそ、少年は意識を失った。
「変な人族……。」
アイリスは、小さく呟いた。
⸻
治療は、日が沈む頃まで続いた。
毒を吸った五人は、全員が一命を取り留めた。
最も多く毒霧を吸い込んでいた貴族の男も。
しばらく安静にすれば、命に別状はないという。
翌朝。
治療所の外から、大きな怒鳴り声が聞こえた。
「貴様のせいで、私は死にかけたのだぞ!」
アイリスが外へ出ると。
昨日運び込まれた貴族が、案内人へ剣を向けていた。
案内人は地面へ膝をつき。
青ざめた顔で、何度も頭を下げている。
「申し訳ございません!」
「森の道を読み違えるなど、案内人としてあるまじき失態!」
「死んで詫びろ!」
貴族が剣を振り上げる。
だが。
その腕を、横から伸びた手が掴んだ。
黒髪の少年と共に運ばれてきた、仲間の一人だった。
「放せ!」
「こいつは私を殺しかけたのだぞ!」
黒髪の少年も。
まだ顔色の悪いまま、治療所から出てくる。
「だからといって、ここで殺す必要はないでしょう。」
「なんだと?」
「その人が道を間違えたのは事実。」
「でも。」
「あんたが魔獣を見て、一人で逃げ出したのも事実だ。」
「貴様……!」
「俺たちが追いかけなかったら。」
「あんたは、毒蛇に食われてた。」
少年は。
剣を向けられている案内人を見る。
「間違えたことへの責任は、後でちゃんと取ればいい。」
「でも今ここで殺したら。」
「俺たちを助けてくれた里の人たちに、余計な迷惑がかかる。」
「…………。」
「少なくとも。」
少年は、貴族を真っ直ぐに見た。
「命を助けてもらった場所で、血を流すのはやめようぜ。」
貴族はしばらく少年を睨んでいた。
やがて。
忌々しそうに剣を下ろす。
「……この話は、帝国へ戻ってからだ。」
案内人は、その場へ崩れるように座り込んだ。
「ありがとうございます……。」
「俺に言うことじゃないだろ。」
少年は、治療所にいるエルフたちを見る。
「助けてもらったのは、俺たちの方だし。」
そう言って。
深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。」
二人の仲間も。
少年の隣へ並び、同じように頭を下げる。
昨日。
毒に侵されていた人族。
その中でも。
黒髪の少年と、仲間二人だけは。
アイリスが想像していた人族とは、少し違って見えた。
⸻
貴族は、里の長へ面会を求めた。
長い間、人族との交流を断ってきたエルフの里。
この出会いを機に。
帝国と交流を持つための話をしたいという。
長は悩んだ末。
里の未来のため、貴族の話を聞くことにした。
その間。
黒髪の少年たちは、里で休養することになった。
人族が里へ来るのは、十年ぶり。
子供たちは珍しそうに、三人の周囲へ集まっていた。
「人族って、本当に耳が丸い!」
「触っていい?」
「耳を?」
「うん!」
「まあ、痛くしないなら。」
一人の仲間が、子供たちに囲まれている。
もう一人も。
魔法を見せてほしいとせがまれ、困ったように笑っていた。
黒髪の少年は。
少し離れた場所から、その様子を眺めている。
「あなたは遊ばないの?」
アイリスが尋ねると。
少年が振り返った。
「ああ。」
「俺が混ざったら、あいつらより本気で遊びそうだから。」
「……子供なの?」
「失礼だな。」
少年は笑った。
「俺はレイ。」
「お前は?」
「アイリス。」
「そっか。」
「よろしくな、アイリス。」
「……うん。」
レイは。
人族を警戒しているアイリスに対しても。
特別、気を遣う様子はなかった。
かといって。
無理に距離を縮めようとするわけでもない。
ただ。
同じ場所にいる一人として、普通に話しかけてくる。
「里を案内してくれないか?」
「私が?」
「俺たちだけで歩き回ったら、怒られるだろ?」
「それは、怒られる。」
「じゃあ頼む。」
「……分かった。」
アイリスは。
レイたちを連れ、里の中を歩いた。
巨大な樹木の内側を利用して作られた家。
澄んだ水が流れる小川。
薬草を育てている畑。
森の精霊たちが集まる、静かな泉。
レイは。
目に入るものを珍しそうに眺めていた。
けれど。
勝手に触れようとはしない。
「この森で迷う人族は、ほかにもいるの?」
「年に何人かはいる。」
「でも、里には入れない。」
「私たちが姿を隠して、外まで誘導するから。」
「今回は特別?」
「うん。」
「あのまま放っておいたら、死んでたから。」
「そっか。」
レイは。
少し申し訳なさそうに笑った。
「迷惑かけたな。」
「助けるって決めたのは、私たちだから。」
「お前も治療してくれたんだろ?」
「少しだけ。」
「ありがとな。」
「…………。」
真っ直ぐに礼を言われ。
アイリスは、少しだけ視線を逸らした。
人族は。
もっと恐ろしく。
自分たちエルフを見下しているものだと思っていた。
少なくとも。
里の大人たちからは、そう聞いて育った。
けれど。
目の前を歩くレイは。
アイリスの耳も。
銀色の髪や瞳も。
珍しそうに見ることさえなかった。
「ねえ。」
「ん?」
「レイの育った国って、どんなところなの?」
「あー、俺の国かぁ……。」
レイは少し懐かしそうに、遠くを見た。
「小さな国でさ。」
「いろんな種族が暮らしてたよ。」
「エルフも?」
「ああ、もちろん。」
「エルフもいたし。」
「亜人って呼ばれる種族もいた。」
レイは。
何でもないことのように笑った。
「でもさ。」
「結局、みんな同じだろ。」
「考えて、話して、笑う。」
「同じ人だよ。」
「種族なんて関係なく。」
「みんな、一緒に暮らしてた。」
「…………。」
アイリスには。
その光景を想像することができなかった。
人族とエルフが。
同じ場所で暮らす。
争うこともなく。
同じものを食べ。
同じように笑う。
それが本当に存在するなら。
「……私も。」
アイリスは。
森の木々の向こうへ、目を向けた。
「森の外に、出てみたいな。」
「そうだよなぁ……。」
レイは、少しだけ考え。
アイリスへ笑いかけた。
「いつか出られるようになったら。」
「いろんなところへ、連れていってやるよ。」
「……本当に?」
「ああ。」
「約束する。」
「約束……。」
アイリスは。
確かめるように、その言葉を繰り返した。
まだ。
出会って間もない人族。
森を出れば。
二度と会うことはないかもしれない。
それでも。
なぜか。
レイの言葉を、疑う気にはなれなかった。
「うん。」
アイリスは、小さく笑った。
「約束。」
それが。
二人が交わした。
最初の約束だった。




