研究者は風呂に入らない
次の日曜日。
朝。
王都上級区の外れ。
広大な庭を備えた、一際大きな館。
レイは見慣れた門をくぐる。
玄関の扉が静かに開き、一人の執事が深々と一礼した。
「おはようございます、レイ様。」
「おはよう、セバス。」
セバスは柔らかく微笑む。
「お嬢様は、いつも通り研究室にいらっしゃいます。」
「そっか。」
レイは館の奥へ視線を向けた。
「風呂は?」
セバスは少しだけ困ったように笑う。
「一週間でございます。」
「飯は?」
「三日です。」
「はぁ……。」
レイは額に手を当て、小さくため息をつく。
「了解。」
「行ってくる。」
「よろしくお願いいたします。」
セバスは深く頭を下げた。
レイは慣れた足取りで館の奥へ歩き出した。
研究室の扉を開ける。
足の踏み場もない。
床一面に積み上がった本と資料。
机の上には紙束や魔導具の部品が散乱し、試験管やフラスコが所狭しと並んでいる。
その中央で。
ボサボサの金髪。
インクの染みだらけの白衣。
サリアは紙へ何かを書き殴るように、夢中でペンを走らせていた。
レイは慣れた様子で本をどかしながら近付いていく。
「風呂は?」
返事はない。
「飯は?」
やはり返事はない。
「おい。」
「サリア。」
「なんだね。」
視線だけを紙へ向けたまま答える。
「私は今、とても重要な研究を──」
「飯。」
「大丈夫。」
「栄養は最低限摂っている。」
そう言って試験管に入った液体を掲げる。
「ほら。」
「……。」
レイは黙ってサリアの白衣の襟首を掴んだ。
「ひゃっ!」
「な、何をするんだ君は!」
「年上の女性の首根っこを掴むとは!」
「どういう教育を受けてるんだ!」
「はいはい。」
「飯食いに行くぞ。」
そのまま研究室の外へ引きずっていく。
「ま、待て!」
「あと五分!」
「一分!」
「三十秒!」
「風呂。」
「やだ。」
「いいから入る。」
浴室の前まで連れていく。
「ほら、入れ。」
「待ちたまえ。」
「ん?」
サリアは恨めしそうにレイを見る。
「ルコ君は、一度断ったら何も言ってこなかったぞ。」
「そうだろうな。」
「他の商会の人間だってそうだ。」
「最初の一週間は、君も仕事だったから分かる。」
「だが。」
「なぜ今も勝手に来るんだね。」
レイは少しだけ首を傾げた。
「友達だから会いに来てるだけだよ。」
「……。」
サリアは少しだけ黙る。
「ならいい。」
「だが、私は風呂には入りたくない。」
「でもお前、臭いから。」
「臭くない!」
「一週間入ってない奴が言うな。」
「この館は魔導冷暖房で管理されている!」
「私は汗なんてほとんどかいていない!」
「はいはい。」
「入ってこい。」
「……。」
サリアはじっとレイを見る。
「君の前で脱ぐぞ。」
「いいのか?」
「うん。」
「どうぞ?」
「……。」
「……。」
レイは何事もなかったように浴室の扉を開ける。
サリアはしばらく黙っていた。
「……わかった。」
「わかったから出てってくれ。」
「はい。」
レイはあっさり扉を閉めた。
「……。」
浴室に一人残されたサリアは、閉じた扉をじっと見つめる。
「可愛げのない男だ……。」
⸻
しばらくして。
浴室の扉が開く。
「出たぞ。」
「おう。」
レイはサリアを見る。
濡れた金髪。
綺麗になった白い肌。
さっきまでの研究室に籠もりきった姿は、もうどこにもない。
「よし。」
「美人に戻った。」
「なんだね? その言い方は。」
サリアは眉を寄せる。
「私が風呂に入る前は、美人じゃなかったみたいじゃないか。」
「私はいつだって天才美女だ。」
「はいはい。」
レイは椅子を引く。
「座れ。」
「……。」
サリアは渋々腰を下ろした。
レイはタオルを手に取り、濡れた髪の水気を取っていく。
そのあと。
根元から風を当て、丁寧に髪を乾かしていく。
「……。」
サリアは鏡越しにレイを見る。
いつもより時間をかけて。
ブラシで毛流れを整えながら、綺麗にブローしている。
「……今日はやけに丁寧だね。」
「そう?」
「そうだとも。」
「普段なら、乾いたら終わりじゃないか。」
「……。」
サリアは鏡の中の自分を見る。
整えられていく髪。
そして。
「あっ。」
動きが止まった。
(外だ。)
(今日は絶対に外へ連れて行かれる。)
食事だけなら館の中でも済ませられる。
わざわざここまで丁寧に髪を整える理由は一つしかない。
「食事はする。」
「ただし。」
「私は研究がある。」
「そうなんだ。」
「私は!」
「研究を止めると死ぬんだ!」
「そっか。」
レイは用意していた、服を取り出す。
「これ着てね。」
「嫌だ!」
「着といてね。」
「待ってるから。」
「うぅ……。」
「君は悪魔だ……。」
「はいはい。」
レイは、苦笑しながら部屋を出ていく。
サリアは服を抱えたまま、恨めしそうにその背中を見つめていた。
やがて。
ぱたん。
扉が閉まった。
「……。」
しばらく閉じた扉を見つめる。
そして。
ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「……友達か。」
⸻
「……着たぞ。」
「おう。」
レイはそのままサリアを肩へ担ぎ上げた。
「なっ!」
「なんてことをする!」
「私の優秀な頭脳がおかしくなったらどうする!」
「大丈夫。」
「天才だから。」
「私は!」
「太陽を浴びたら焼けるんだぁぁぁぁぁ!」
「焼けない。」
「焼ける!」
「私は行かないぞ!」
「はいはい。」
そのまま玄関へ向かう。
「セバスぅぅぅぅ!」
「助けるんだぁぁ!」
「じゃあセバス。」
「行ってくる。」
「はい。」
「いってらっしゃいませ。」
「裏切り者ぉぉぉぉ!」
サリアを肩へ担いだまま街を歩く。
「帰りたい!」
「私は研究があるんだ!」
「君は本当に酷い男だ!」
「誘拐だぞ!」
「はいはい。」
「ちょっと静かにしてくれない?」
「嫌だ!」
上級区。
「あら。」
近所の貴族の女性がくすりと笑う。
「あらあら、レイさん。」
「今日はまた大変そうですわね。」
「聞いてくれ!」
サリアはレイの肩の上から必死に手を伸ばす。
「私は今、誘拐されている!」
「まぁ。」
女性は楽しそうに口元へ手を添えた。
「サリア様。」
「今日は一段とお綺麗ですわ。」
「当然だ!」
「私はいつだって天才美女だ!」
「ほら。」
レイが軽く笑う。
「風呂入ってよかっただろ。」
「それとこれとは別だ!」
「助けてくれ!」
「ふふっ。」
「いってらっしゃいませ。」
「なぜ誰も助けないんだぁぁぁぁ!」
サリアの叫び声が、上級区の通りへ響いていった。
⸻
中級区へ入る。
「帰りたい!」
「研究室へ戻せ!」
「はいはい。」
「私は本気で言っているんだぞ!」
「分かった分かった。」
「絶対分かってないだろう!」
その時。
「そこの男!」
鋭い声が飛んだ。
レイが足を止める。
「ん?」
一人の若い衛兵が、こちらへ駆け寄ってくる。
肩に担がれたサリアを見る。
そしてレイを見る。
「その女性を降ろせ!」
「おぉ!」
サリアの顔が一気に明るくなる。
「助かった!」
「衛兵!」
「こいつは誘拐犯だ!」
「逮捕するんだ!」
「……。」
新人衛兵の表情が険しくなる。
「今すぐ女性を降ろせ。」
「あぁ。」
レイは軽く頷く。
「誘拐ごっこだから気にしないで。」
「……誘拐ごっこ?」
「そう。」
「誰がごっこだ!」
「私は本当に帰りたいんだ!」
「本人がそう言ってるじゃないか!」
「まぁ、言うよな。」
「何を落ち着いてるんだ!」
新人衛兵がレイの前へ立ちはだかる。
「とにかく、一度その女性を――」
「おい。」
後ろから声が飛んだ。
「どうした?」
「先輩!」
年上の衛兵が歩いてくる。
「誘拐です。」
「この男が女性を――」
先輩衛兵がレイを見る。
続いて。
肩の上のサリアを見る。
「……。」
「あぁ。」
「レイさん。」
「おはようございます。」
「おはよう。」
「おい!」
サリアが肩の上で暴れる。
「挨拶してる場合か!」
「私は誘拐されているんだぞ!」
先輩衛兵は真面目な顔でサリアを見る。
「それは大変ですね、サリア様。」
「そうだろう!」
「早くこいつを逮捕したまえ!」
「承知しました。」
「おい。」
レイが少しだけ笑う。
先輩衛兵も口元をわずかに緩める。
「では。」
「正式な誘拐事件として処理いたしますので。」
「まずはお二人とも詰所までお願いします。」
「うむ!」
「事情聴取と。」
「現場確認。」
「目撃者の確認。」
「それからサリア様の身元確認も必要になりますね。」
「……。」
「二、三時間ほどで終わるかと。」
「……。」
サリアの動きが止まった。
「どうされます?」
「……やっぱりいい。」
「よろしいんですか?」
「三時間も研究を止められるものか!」
「では、誘拐事件ではないということで?」
「誘拐ではある!」
「だが事件ではない!」
「なるほど。」
先輩衛兵は深く頷いた。
「誘拐ごっこですね。」
「違う!」
「じゃ。」
レイが再び歩き出す。
「行ってくる。」
「はい。」
「お気をつけて。」
「待ちたまえ!」
「まだ私は帰ることを諦めてないぞ!」
「はいはい。」
「サリア様。」
先輩衛兵が軽く頭を下げる。
「いってらっしゃいませ。」
「なぜ見送るんだぁぁぁぁ!」
サリアの声が遠ざかっていく。
新人衛兵は呆然とその背中を見送っていた。
「……いいんですか?」
「あぁ。」
先輩衛兵は苦笑する。
「あの二人なら大丈夫だよ。」
「でも。」
「本人が誘拐だって……。」
「まぁ、知らなきゃそうなるよな。」
先輩衛兵は遠ざかるレイの背中へ目を向ける。
「あの人。」
「プロハンターだから。」
「……え?」
新人衛兵が目を丸くする。
「プロ……?」
「あぁ。」
「仮に本当に誘拐してたとしても。」
「俺たちがその場で簡単に逮捕できるような相手じゃないよ。」
「プロには捜査や逮捕の権限もある。」
「ギルドから、それだけの信用を与えられてるってことだ。」
「……。」
新人衛兵は少し考える。
「じゃあ……。」
「誘拐も、捜査の一環である可能性がある……。」
「そういうことだ。」
「まず事情を確認する。」
「プロを相手にする時は、それからだ。」
「なるほど……。」
二人でもう一度、遠ざかる背中を見る。
「私は帰りたいんだぁぁぁぁぁ!」
遠くからサリアの叫び声が響く。
「……本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。」
「たぶん」
「たぶん!?」




