ラヴェレスの朝
燃え盛る炎が、夜空を真っ赤に染め上げていた。
王都の至る所で爆発が起こり、石造りの建物が轟音と共に崩れ落ちる。
逃げ惑う人々。
泣き叫ぶ子ども。
怒号と悲鳴が入り混じり、辺りは地獄と化していた。
「はぁ……はぁ……ッ!」
煤にまみれた少年は息を切らしながら、一人の女性の手を必死に掴んでいた。
「クソが!! 母さん!! 一緒に逃げるんだ!!」
女性は優しく微笑む。
その笑顔だけは、不思議なほど穏やかだった。
「……ここでお別れよ」
少年は首を横に振る。
「嫌だ!!」
「幸せになってね」
「ダメだ!!」
掴んだ手に力を込める。
絶対に離さない。
離したくない。
そんな少年の肩を、誰かが乱暴に掴んだ。
「レイ!! 早く逃げるんだ!」
振り返ると、一人の少年が必死の形相で叫んでいた。
「エリシアさんの気持ちを考えろ!」
「このままじゃ全滅する!!」
「レイ兄……!」
もう一人、小さな少女が涙を流しながら叫ぶ。
「お願いです……逃げましょう!」
「……っ!」
少年は唇を噛み締める。
分かっている。
頭では。
ここに残れば全員死ぬ。
それでも。
足が動かなかった。
「わかってる……」
震える声が漏れる。
「わかってるんだ……!」
涙が頬を伝う。
「くそ……」
掴んでいた手が、ゆっくりと離れていく。
「母さん……」
炎が全てを飲み込んだ。
◇
アルテナ歴三百六十年。
東部に位置する人口五万の小国――アルフォード王国。
その国は、十数名の魔導士と一万を超える魔物の軍勢によって、一夜にして滅ぼされた。
歴史書には、ただ一行。
『生存者0名』
そう刻まれている。
王都は炎に包まれ、五万もの命が失われた。
小国とはいえ軍事力は高く、優秀な魔導士や戦闘に秀でた亜人、高い魔力を持つエルフまで、多くの種族が共に暮らしていた。
決して、簡単に滅ぶような国ではなかった。
だが、その日だけは違った。
敵の中には、世界中に名を轟かせる賞金首までもが加わっていたという。
それは、物語が始まる約七年前。
一夜にして、一つの国が世界地図から消えた夜だった。
――だが。
その惨劇を生き延びた、ある一人の少年は。
これから始まる物語を紡いでいく。
◇
こんなに悲しいなんて思わなかったよ。
大切なものを失う辛さってやつは。
絵本や小説なんかでは、何度も見てきた。
だけど。
現実は、こんなにも苦しいんだな。
でも――
これが、俺らが、この世界に生まれた意味なら。
生きよう。
生き抜いて。
母さんの意志を紡いでいくさ。
……なぁ。
大好きだった国も。
大好きだった人も。
全部失っちまったけど。
俺たちで。
母さんが夢見た理想郷を作ろう。
全部叶えるなんて、きっと無理だ。
それでも。
この世界が壊れちまうなんて、俺は嫌だね。
絶対に守ってやろうじゃないか。
もっと。
もっと強くなってさ――。
◇
――もっと。
もっと強くなってさ。
そこで景色が滲んだ。
炎が遠ざかる。
母の笑顔も。
泣き叫ぶ人々の声も。
全てが白く霞み、やがて闇へと溶けていった。
「……朝か」
ゆっくりと瞼を開ける。
窓から差し込む朝日が、部屋を優しく照らしていた。
天井を見つめたまま、しばらく動けない。
「…………」
小さく息を吐く。
「また、あの夢か……」
七年経った今でも。
あの夜だけは、夢の中で何度も繰り返される。
忘れたことなんて、一度もない。
忘れられるはずもない。
レイはゆっくりと上体を起こした。
寝癖のついた、この国では珍しい黒髪を乱暴に掻く。
窓の外では小鳥が鳴いていた。
雲一つない青空。
これ以上ないくらいの快晴だ。
「今日もいい天気だな」
一拍置いて、
「……いい天気過ぎて、御天道様に特大の雷魔法ぶち込んでやりたい気分だぜ」
もちろん本気じゃない。
ただ、それくらい朝が苦手なだけだ。
ベッドから降りると、大きく伸びをする。
「そんなことより、昨日は散々だったな……」
昨夜の出来事を思い出し、頭を押さえる。
「初対面で酒瓶振り下ろしてくる女なんか初めて見たぞ……」
傷なら、とっくに治っている。
それでも、あの衝撃まで忘れたわけじゃない。
「しかも、あの後泣かれたし」
思い出すだけで理不尽だった。
「俺、何か悪いことしたか……?」
誰に聞くでもなく呟く。
答えてくれる人はいない。
いや、一人いた。
「おはよう……レイ」
聞き慣れた、小さな声。
振り返ると、部屋の入口に小柄な少女が立っていた。
抱き枕をぎゅっと抱え、眠そうに目を擦っている。
朝日に照らされた白銀の髪が、さらりと肩で揺れる。
透き通るような銀色の瞳が、ぼんやりとレイを見つめていた。
アイリス。
十二歳の少女だ。
白銀の髪と瞳。
それが、本来の彼女の姿だった。
この国では、かつて女性の銀髪が迫害された時代がある。
今でもその名残は残っていて、銀髪は珍しく、嫌でも目立つ。
そのため外へ出る時だけは、魔導具で髪と瞳を、エルフに多い水色へ変えていた。
最初に出会ったのは、エルフだけが暮らす閉ざされた里。
あれから色々あって、今では何でも屋の住み込み従業員として、同じ家で暮らしている。
「おう、おはよう」
レイは自然と笑みを浮かべる。
「まだ眠そうだな」
アイリスは小さく頷いた。
「……眠い」
「だったらもうちょい寝てろよ。朝ご飯、まだ時間あるだろ」
「……ううん」
首を横に振る。
「朝ご飯、作るから」
そう言って、抱き枕を抱えたままふらふらと台所へ歩いていく。
その後ろ姿を見送りながら、レイは苦笑した。
「……まず抱き枕置いてこい」
アイリスは立ち止まる。
抱き枕を見る。
レイを見る。
もう一度、抱き枕を見る。
「……」
「…………」
数秒考えた末、
「……連れてく」
「連れてくのかよ」
思わず吹き出した。
さっきまで重かった胸の奥が、少しだけ軽くなる。
あの夜から七年。
失ったものは戻らない。
それでも、こうして笑える朝がある。
それだけで十分だった。
レイは欠伸を噛み殺しながら洗面所へ向かう。
冷たい水で顔を洗うと、ぼんやりしていた頭が少しだけ冴えてきた。
鏡に映る自分を見る。
「……寝癖ひど」
右側だけぴょこんと跳ねた黒髪を、適当に手で押さえる。
「まぁ、いっか」
どうせ今日も屋根に登ったり、壁を直したりする。
すぐ崩れる。
諦めてタオルで顔を拭くと、部屋の奥から香ばしい匂いが漂ってきた。
「ん。」
「今日はベーコンか。」
鼻をひくつかせながら食卓へ向かう。
テーブルの上には、焼きたてのパン。
目玉焼き。
香ばしく焼かれたベーコン。
それと、野菜たっぷりの温かいスープ。
決して豪華ではない。
それでも、一日の始まりには十分すぎる朝食だった。
アイリスはエプロン姿のまま、真剣な表情で目玉焼きを皿へ移している。
その様子を見て、レイはふっと笑った。
「料理、上手くなったな。」
アイリスの耳がぴくっと動く。
「……ほんと?」
「ああ。」
「最初なんか、焦げた黒い塊しか出てこなかったのにな。」
「…………。」
アイリスは無言でフライ返しを置いた。
「……レイ。」
「ん?」
「それは忘れて。」
「いや、忘れられる訳ないだろ。」
「あの時なんか鍋まで真っ黒だったじゃねぇか。」
「……。」
「フライパンも焦げてたし。」
「…………。」
「包丁も一本折れたよな。」
アイリスはゆっくりとレイの方を向いた。
「……レイ。」
「はい。」
「朝ご飯。」
「なし。」
「ごめんなさい。」
即座に頭を下げる。
アイリスは数秒だけじっと見つめ――ふっと口元を緩めた。
「……うそ。」
「ちゃんとある。」
「助かったぁ……。」
レイは胸を撫で下ろす。
「最近、ちょっと冗談覚えたよな。」
「……レイのせい。」
「俺?」
「いつもからかうから。」
「いやいや、これは事実を言っただけ――」
「レイ。」
「はい。」
「食べる。」
「はい。」
こういう時だけは逆らわない。
いや、逆らえない。
レイは大人しく席へ座った。
アイリスは最後の皿をテーブルへ並べ終えると、エプロンを外してレイの向かいへ腰を下ろす。
「いただきます。」
二人の声が重なった。
レイはパンをちぎり、スープを一口飲む。
「……うま。」
思わず漏れた一言に、アイリスが少しだけ顔を上げた。
「今日のスープ、昨日より美味しい。」
「……ほんと?」
「ああ。塩加減もちょうどいいし、野菜も柔らかい。」
アイリスは嬉しそうにパンを一口かじる。
「よかった。」
「昨日、料理の本読んだから。」
「また勉強したのか。」
「……うん。」
「レイ、美味しいって言ってくれるから。」
レイは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「そう言われると毎日褒めなきゃいけなくなるな。」
「……毎日でもいい。」
「おだてたら何か出るか?」
「……。」
「……。」
「パンならある。」
「それはありがてぇ。」
二人で小さく笑った。
こうして向かい合って朝食を食べる時間が、レイは結構好きだった。
何気ない。
本当に何気ない時間。
だけど、気付けばそれが当たり前になっていた。
エルフの里で初めて出会った頃は、想像もできなかったことだ。
食事を終え、レイは湯気の立つお茶を口に運ぶ。
「そういや今日は五時間目までだったな。」
アイリスは頷く。
「うん。」
「帰り、買い物してくる。」
「了解。」
「じゃあ荷物そんなに多くならないようにしろよ。」
「重かったら誰かに頼め。」
「……一人で持てる。」
「そういう問題じゃない。」
レイは苦笑する。
「無理すんなって話。」
「……。」
アイリスは少しだけ視線を逸らした。
「……わかった。」
「素直でよろしい。」
「その代わり。」
アイリスが小さく指を立てる。
「レイも無理しない。」
「昨日、頭ぶつけてた。」
「あー……。」
酒瓶のことを思い出し、思わず頭を押さえる。
「あれな。」
「……大丈夫?」
「もう治ってるよ。」
念のため指先で触れてみるが、腫れも傷も残っていない。
「ほら、なんともねぇ。」
「……ならいい。」
アイリスはそれ以上何も言わず、お茶を一口飲んだ。
レイも自分のカップへ手を伸ばす。
静かな朝だった。
昨夜、知らない少女に酒瓶で頭を殴られた翌朝とは、とても思えない。
「……。」
改めて考えると、やっぱり理不尽だった。
「どうしたの?」
「いや……昨日のこと思い出したら、やっぱ俺悪くねぇよなって。」
「……知らない。」
「ですよね。」
レイは苦笑しながら、残っていたお茶を飲み干した。
食器を重ねる音だけが、小さな家の中に響く。
「じゃあ洗い物は俺やっとく。」
レイが皿を受け取ろうとすると、アイリスは小さく首を横に振った。
「今日は私。」
「もう制服着てるし。」
確かにその通りだった。
白を基調とした魔導学園の制服は、朝日に照らされてどこか眩しく見える。
「じゃあ半分な。」
「俺が洗う。」
「アイリスが拭く。」
「それなら早い。」
「……うん。」
いつからだっただろう。
こんな風に自然と役割を分けるようになったのは。
最初の頃は、
「私がやる。」
「いや俺がやる。」
そんな押し問答ばかりだった。
結局。
『できることは二人でやる。』
それが一番早いという、当たり前の結論に落ち着いた。
「はい。」
アイリスが最後の皿を棚へ戻す。
「終わった。」
「相変わらず仕事早ぇな。」
「……毎日やってるから。」
得意げというより、当たり前と言わんばかりの返事だった。
レイは時計へ目を向ける。
「そろそろ行くか。」
アイリスは鞄を肩へ掛けると、玄関へ向かった。
レイも一緒に外へ出る。
朝のアルトーラは、すでに活気に満ちていた。
パン屋からは焼きたての香りが漂い、八百屋のおっちゃんは威勢よく客を呼び込んでいる。
通りでは商人たちが荷馬車を押し、行き交う人々の声が朝の街へ溶け込んでいた。
「レイさん、おはよう!」
向かいの花屋のおばさんが、笑顔で手を振る。
「おう、おはよう。」
「昨日は壁直してくれて助かったよ!」
「また壊れたら呼んでくれ。」
「今度は安くしとく。」
「ほんとかい?」
「たぶん。」
「たぶんかい!」
朝から豪快な笑い声が響く。
隣を歩くアイリスも、小さく笑っていた。
何でも屋 《ラヴェレス》。
派手な仕事は少ない。
魔物退治よりも、屋根の修理。
迷子探し。
荷物運び。
庭木の手入れ。
そんな依頼の方が圧倒的に多い。
街の人たちは、困ったことがあればレイを頼る。
本人としては、依頼が増えるのであまり嬉しくはないのだが。
「じゃあ。」
レイはアイリスの頭へ、ぽんと手を置く。
「行ってらっしゃい。」
「……行ってきます。」
アイリスは少し照れくさそうに笑うと、学園のある上級区へ向かって歩き出した。
レイはその小さな背中が角を曲がり、見えなくなるまで見送っていた。




