黒髪のレイ
グランフェルナ王国――王都アルトーラ。
大陸有数の大都市として栄えるこの街には、もう一つの顔がある。
地下街――ラクエン。
酒、女、賭博、そして裏取引。
表では決して語られない欲望が渦巻くこの街は、巨大マフィア《リスタードファミリー》の支配下にあり、ならず者たちの楽園とも呼ばれていた。
その一角にある酒場は、昼間だというのに酔客たちの笑い声で満ちている。
酒瓶をぶつけ合う音。
カードを叩きつける音。
どこかで喧嘩が始まり、また誰かが笑う。
そんな喧騒の中、一人だけ場違いなほど静かな人物がカウンター席へ腰を下ろした。
深くフードを被った、小柄な旅人。
男とも女とも判別がつかない。
「マスター、おすすめを一杯」
「おう、新顔だな」
マスターは棚から酒瓶を一本取り出し、木製のジョッキへ琥珀色の酒を注ぐ。
「ほらよ」
「ありがとう」
旅人は一口だけ口をつける。
その仕草を見届けると、マスターは腕を組んで笑った。
「……で?」
旅人はジョッキを静かに置く。
「この街で、一番強い人は誰?」
その一言に、マスターは目を細めた。
「ほう……」
ただの興味本位ではない。
そんな目だった。
「お前さん、王都は初めてか?」
「うん」
「なら教えてやる」
マスターは肩を竦める。
「情報屋としてはタダで喋るのは商売違反なんだが……酒も頼んでくれたことだし、特別サービスだ」
近くにいた常連たちも、面白そうに耳を傾け始めた。
「この街を拠点にするつもりなら、勢力くらいは知っといた方が長生きできる」
マスターは一本指を立てる。
「まず、この国で最も気高く、最も強い男――セルバ・ヴィルガルム。四十五歳」
「ヴィルガルム大公爵家現当主にして、ハンターギルド序列二位。そしてグランフェルナ王国魔導軍総統だ」
酒場の何人かが「ああ」と頷く。
知らない者はいない。
そんな名前だった。
「《剣聖》とも呼ばれる剣の達人でな。二十年ほど前、敵軍二万にたった一人で突っ込んで勝っちまった化け物だ」
旅人は黙って聞いている。
「次が、この地下街の王」
「フェルザ・リスタード。四十五歳。リスタードファミリーのトップで、今のラクエンを作り上げた男だ」
マスターは酒を一口あおる。
「昔、この地下にはいくつものマフィアがあった。あの男は若くして全部叩き潰し、この街を一つにまとめちまった」
「酒、女、闘技場、カジノ、オークション……今じゃ地下の金も人も、あいつを無視しちゃ動かねぇ」
「戦争で国が困れば、一国が動くほどの金を出す。国だって簡単には手を出せねぇ相手だ」
誰かが苦笑する。
「光のセルバ」
「闇のフェルザ」
「そんな風にも呼ばれてるな」
「しかも二人は幼馴染だ。昔は喧嘩ばっかりしてたらしい。素手の殴り合いなら、セルバですら勝てねぇって噂だ」
旅人は小さく頷いた。
「他には?」
「せっかちだな」
マスターは笑う。
「マルス・ベルテッサ。七十二歳。ハンターギルド、アルトーラ支部長だ」
「昔は相当な腕だったらしいが、今はデスクワークばっかりやってる爺さんだな」
「ユリ・トルコ・シルナード」
「地下花街を治める夜の女王、《ユリ姫》だ」
「魔族でな。三十年以上この街にいるが、見た目は二十代の絶世の美女。《キキョウ》って女だけの自警団も率いてる」
「ゴンザレス・ベルトゥード」
「プロハンター、《剛力》」
「二メートルを超える大男で、この街のハンター連中のまとめ役だ」
「ここまでが、この街の代表格ってところだな」
旅人は少しだけ考え込んだ。
「権力じゃなくて……単純に喧嘩が強い人は?」
マスターは吹き出した。
「そう来るか」
酒場の空気も少しだけ楽しげになる。
「なら若い連中だな」
「リュウ・リスタード。二十一歳。フェルザの息子で、《地砕の暴君》なんて異名を持ってる」
「若い世代じゃ最強って声も多い」
「ヒナ・ヴィルガルム」
「セルバの娘で、十九歳にして魔導軍少佐」
「三年前の戦争じゃ、あいつ一人で戦局をひっくり返した」
「ルコ」
「商人兼プロハンター。金儲けが生き甲斐の男だ」
「男好きって噂もあるな」
常連の一人が笑い、酒場に笑い声が広がる。
「他にもイナーシャ、イダンテ、ストロングスリー……この街は強ぇ奴が多い」
マスターは少しだけ真面目な表情になった。
「だからこそ、ギリギリ均衡が保たれてる」
「だが、一度そいつが崩れりゃ一気だ」
「地下街じゃ若頭のリュウが今は街を離れてる。親父のフェルザも滅多に表へ出てこねぇ」
「最近は、何か起きそうだって噂ばかりだ」
旅人は黙って酒を飲み干した。
「……でもな」
マスターが、酒場の奥へ視線を向ける。
「勢力争いにも興味がなく、実力を隠してる奴が一人いる」
旅人もその視線を追った。
酒場の隅。
一人の青年が、酒瓶を抱えたままテーブルへ突っ伏して眠っている。
艶のある黒髪。
この地方では滅多に見かけない、ひと目で印象に残る色だった。
「……あの人?」
「ああ」
マスターは意味ありげに笑う。
「いいところに目を付けたな。魔力を感じ取ったのか?」
「ううん」
「黒髪が珍しかったから」
一瞬、酒場が静まり返った。
次の瞬間。
「わっはっはっはっ!」
マスターが腹を抱えて笑い出す。
「なるほどな! 面白ぇ奴だ!」
笑いを収めると、再び青年へ視線を向けた。
「――黒髪のレイ」
「俺の本命だ」
規則正しい寝息を立て、周囲の喧騒など気にも留めていない。
酔客が肩をぶつけようが、誰かが大声で笑おうが、微動だにしなかった。
「……寝てる」
「寝てるな」
マスターは苦笑する。
「昼間っから酒飲んで寝てるような男だ」
「……本当に強いの?」
「少なくとも俺はそう思ってる」
マスターはレイを見つめたまま続ける。
「あいつは何でも屋だ」
「ハンターでもあるが、ギルドの依頼は月に二、三。誰も受けたがらねぇ最低ランクの依頼を引き受ける程度」
「討伐依頼だって、素材集めくらいしか受けねぇ」
「じゃあ弱い?」
「いや」
マスターは即座に首を横へ振った。
「逆だ」
「魔法の応用力は異常で、何でもこなす。支部長のマルスにも気に入られてる」
「ただ、戦いじゃ前に出ねぇ。サポートなら街でも一、二だが……それを強さと認めねぇ奴も多い」
旅人は小さく頷いた。
「地下街でも?」
「……ああ」
マスターは肩をすくめる。
「半年ほど前、このラクエンでちょっとした揉め事を起こしてな」
「その時に、《地砕の暴君》リュウ・リスタードとやり合ったらしい」
「当然、周りじゃ『黒髪が負けた』って話になってる」
旅人は静かに耳を傾ける。
「リュウ本人も『俺が勝った』と言ってる」
「だが――」
マスターは意味ありげに笑った。
「黒髪も、俺や知り合いには『俺が勝った』と言い張ってるんだ」
旅人は小さく首を傾げる。
「……妙だね」
「だろ?」
マスターは酒をあおる。
「だから噂が立った」
「実は二人とも気絶して、引き分けだったんじゃねぇかってな」
「俺は、その噂は案外当たってると思ってる」
再び、眠る青年を見る。
「若い世代で一番強ぇのは、《地砕》か《黒髪》」
「俺はそう見てる」
「ただ一つだけ確かなのは――」
マスターはゆっくりと言葉を区切った。
「誰も、黒髪の本気を見たことがねぇ」
旅人は、しばらくレイを見つめていた。
眠っているだけ。
酒瓶を片手に、テーブルへ突っ伏したまま微動だにしない。
とても、この街で名の知れた実力者には見えなかった。
「……」
やがて、静かに立ち上がる。
「ありがとう」
「参考になったよ」
「おう」
マスターはニヤリと笑った。
「酒でも持ってってやれ。あいつ、酒好きだから喜ぶぜ」
「そう」
旅人は近くの棚から酒瓶を一本手に取った。
そのまま、ゆっくりと黒髪の青年へ歩き始める。
何人かの常連客が、その様子に気付き目で追った。
「ん?」
「新入り、何する気だ?」
「酒でも奢るんじゃねぇか?」
そんな声が聞こえる中、旅人はレイのすぐ後ろまで歩み寄る。
眠ったままのレイは、まるで気付く様子がない。
旅人は酒瓶を両手で持ち直した。
そして――
「せいっ」
ゴンッ!!
乾いた破砕音が酒場中へ響き渡った。
酒瓶は見事に砕け散り、中身の酒が黒髪へ降り注ぐ。
レイの身体が勢いよく前へ倒れた。
しかし。
「まだだよ」
旅人は軽く地面を蹴る。
小柄な身体が宙を舞う。
鮮やかな前宙。
その勢いのまま、踵をレイの頭へ振り下ろした。
「はぁっ!」
ドゴォンッ!!
踵が後頭部へ突き刺さる。
レイの頭がテーブルへ叩き付けられ、木製の天板は耐え切れず粉々に砕け散った。
青年の身体ごと床へ落ち、木片が四方へ飛び散る。
酒場が一瞬、静まり返った。
――次の瞬間。
「うぉぉぉぉっ!」
「始まったぞ!」
「新入りが黒髪に喧嘩売りやがった!」
「賭けろ賭けろ!」
酔っ払いたちは大騒ぎしながら二人を囲み始めた。
中には椅子を持って最前列を確保する者まで現れる。
そんな歓声の中、旅人は軽く服についた酒を払った。
「手加減したのに、もうおしまい?」
幼さの残る高めの声が、酒場へ響く。
「酔ってるからって弱すぎるよ」
「まあ、明日の朝まで目は覚めないと思うけど」
客たちは笑い声を上げる。
「黒髪も終わりかぁ!」
「新入り、やるじゃねぇか!」
「いや、ありゃ死んだろ」
「テーブル代の方が高ぇぞ!」
――ガタッ。
瓦礫が揺れた。
「……え?」
旅人が小さく目を見開く。
砕けた木片を払いのけながら、一人の青年がゆっくりと立ち上がった。
黒髪は酒でびしょ濡れになり、額からは赤い血が頬を伝っている。
頭を押さえながら、ぼんやりと辺りを見回す。
「……」
数秒。
状況を整理するように沈黙し、
「……すみません」
そう前置きしてから、
「めちゃくちゃ痛いんですけど、何か?」
酒場が静まり返った。
旅人は口元を僅かに吊り上げる。
「……へぇ」
「アレで立ってくるんだ」
興味深そうにレイを見つめる。
「ちょっとは丈夫な身体みたいだね」
レイは頭から流れる血を袖で拭いながら、大きくため息をついた。
「……喧嘩、売ってるんですか?」
「そう見えないなら」
旅人は剣の柄へ手を添える。
「君の脳みそは、イカれてると思うよ」
レイは数秒だけ相手を見つめると、ふっと肩の力を抜いた。
「……だとしたら、俺の負けですね」
砕けたテーブルへ目を向ける。
「テーブル代は、負けた俺が払いますわ」
その瞬間。
旅人の眉がぴくりと動いた。
「……」
無表情のままレイを見つめる。
「ボクを怒らせたいのかな?」
「君はピンピンしてるのに、『もう勝負はついた』なんて言われて納得できると思う?」
レイは額を伝う血を指で拭う。
その指先を見て、小さくため息をついた。
「……んじゃ、どうしたらいいんですか?」
「金ならあげませんよ」
「テーブル代だけで勘弁してください」
砕け散った机を親指で指す。
「つーか、頭から血ィだらだら流してる人間見て『ピンピンしてる』って……」
「目ぇ大丈夫ですか?」
旅人は首を横に振った。
「だって君」
「さっきのボクの蹴り、全然効いてないじゃん」
「強い魔力はほとんど感じなかった。だから魔力強化したボクの蹴りを、ほぼノーガードで受けたはずなんだけど」
レイを興味深そうに眺める。
「ただ丈夫なだけじゃ説明がつかないよ」
「何か特別な能力でもあるのかな」
「……とても興味が湧いた」
レイは呆れたように頭を掻いた。
「だから」
「痛いって言ってるじゃないですか」
「人の話、聞いてます?」
「マジで痛かったんですけど」
頭を押さえながら苦笑する。
「当たりどころ悪かったら普通に死んでますよ」
「魔力で強化した蹴りを街中でぶち込むとか……」
「あなた、田舎から来たんですか?」
「この街じゃ、使わざるを得ない状況でもない限り、攻撃魔法なんてそうそう使いませんよ」
「特にラクエンは」
「騒ぎ起こすと面倒なんで」
旅人はつまらなそうに肩をすくめる。
「説教はいらない」
「早くヤろうよ」
「ボクはこの街を拠点にするつもりだから、できれば捕まりたくはない」
「でも」
その瞳が細くなる。
「強い人を倒して名を売れるなら、それくらいのリスクは安い」
レイは大きくため息を吐いた。
「どこの国から来たか知りませんけどね」
「この街で下克上狙ってる奴なんて、ごまんといますよ」
親指でカウンターを指す。
「たぶん、あそこでニヤニヤしてるクソジジイに色々聞いたんでしょうけど」
「聞こえてるぞ」
マスターが笑う。
「甘くないですよ、この街」
「……つーか」
レイは首を傾げた。
「なんで俺なんです?」
「他にもいるでしょう」
「強い奴と戦いたいなら、ゴンザのおっさんとか、ルコとか」
「あの二人倒せたら、この街でも十分トップクラスですよ」
「俺なんか倒したって何にもなりません」
軽く手を振る。
「ガキはさっさと宿でも探して寝な」
旅人はぴたりと動きを止めた。
「……」
「ん?」
「どうしました?」
俯いていた旅人の肩が、小さく震える。
「……ガキじゃない」
ぽつりと呟く。
「もう十七になった」
ぎゅっと拳を握る。
「大人だもん」
勢いよく顔を上げた。
「ボクを馬鹿にするな!」
その瞬間、腰に差していた剣を一息で抜き放つ。
「ボクは――」
切っ先を真っ直ぐレイへ向けた。
「クロノ・ペインシーズ!」
「いざ――」
一歩踏み込む。
「尋常に勝負っ!!」
鋭い踏み込み。
床板を鳴らし、一瞬で間合いを詰める。
振り抜かれた剣は、年齢からは想像もつかないほど鋭く、迷いがなかった。
「ッ!」
レイの瞳が僅かに細くなる。
寸前で懐へ手を入れ、一本の短剣を抜き放った。
――キィンッ!!
金属同士が激しくぶつかり、火花が散る。
酒場中に甲高い音が響き渡った。
「ほぉ……」
「新入り、やるじゃねぇか」
「黒髪がちゃんと武器抜いたぞ」
野次馬たちがどよめく。
レイは剣を受け止めたまま、小さく笑った。
「……今のは良かった」
「え?」
「鋭い太刀筋だった」
「変な癖も少ない」
「ちゃんと鍛えられてますね」
褒められるとは思っていなかったのか、クロノは一瞬だけ目を丸くする。
だが、すぐに口元を吊り上げた。
「当然だよ」
「ボクは負けない」
再び剣を振るう。
今度は連撃。
右、左、突き、袈裟斬り。
小柄な体格を生かした素早い剣筋が、休む間もなく襲いかかる。
しかし。
カン、カン、キィン――。
レイはその全てを最小限の動きで受け流していく。
まるで相手の剣筋が、最初から分かっているかのようだった。
「……」
クロノの表情から笑みが消える。
(なんで……)
(当たらない)
速度なら負けていない。
技術だって、自信があった。
なのに。
一歩も前へ進めない。
目の前の青年は、まるで風に揺れる木の葉のように力を逃がしてしまう。
その姿に、酒場の空気も少しずつ変わっていく。
「おい……」
「黒髪、全然動いてねぇぞ」
「受け流してるだけだ」
「新入りの剣が全部見えてやがる」
クロノは唇を噛んだ。
「まだ……!」
さらに魔力を足へ流し込む。
床を蹴る。
今までより一段速い踏み込み。
「はぁぁっ!」
渾身の一撃。
その瞬間だった。
レイが初めて、一歩だけ前へ出る。
「え――」
クロノの視界から短剣が消えた。
次の瞬間。
手首へ軽い衝撃。
気付けば剣は宙を舞っていた。
くるくると回転しながら飛んだ剣を、レイは空いている左手で何事もなかったかのように掴み取る。
「……はい」
柄をクロノへ向けた。
「これで俺の勝ちね」
あまりにも自然だった。
何が起きたのか、クロノには理解できない。
ただ。
負けた。
その事実だけは、嫌というほど分かった。
膝から力が抜ける。
その場へぺたりと座り込むと、
「うっ……」
肩が震えた。
「うぅ……」
涙が一粒。
ぽたりと床へ落ちる。
そして。
「うわぁぁぁぁぁぁん!!」
酒場中に響き渡るほどの大声で泣き始めた。
「えぇぇぇぇ!?」
レイが一番驚いた。
「ちょっ……!」
「え!? なんで!?」
野次馬たちは腹を抱えて笑い始める。
「黒髪!」
「女の子泣かせてるぞ!」
「最低だな、お前!」
「その子なら俺が慰めてやる!」
「最後のやつは意味わかんねぇよ!」
レイが即座にツッコミを入れる。
酒場は爆笑に包まれた。
レイの周りには、女泣かせだの最低だの、好き勝手な野次だけが残る。
「いや、俺悪くなくない?」
そう呟いても、返ってくるのは笑い声ばかりだった。
結局、壊れたテーブル代を支払い、マスターに一杯奢らされる羽目になったレイは、
「今日は厄日だ……」
と大きなため息をつきながら、酒場を後にした。
――その夜。
宿屋の一室。
「うぅぅぅ……」
枕へ顔を埋めたクロノは、何度思い返しても悔しかった。
「全然見えなかった……」
「何だったの、あの人……」
悔し涙を流しながら、クロノは眠りについた。




