黒猫の変化
昼下がり。
王都の石畳を、レイは気怠そうに歩いていた。
紙袋を片手に、小さく欠伸をする。
その少し後ろ。
建物の陰から、黒猫の耳がそっと覗く。
(よし……。)
今日は驚かせる。
音を立てず、少しずつ距離を詰める。
レイはまだ気付いていない。
一歩。
また一歩。
その時だった。
レイの足がふと止まる。
(……?)
誰かに見られているような感覚。
何気なく周囲へ意識を向ける。
(……あ。)
後ろから近付いてくる、小さな魔力。
思わず口元が緩んだ。
メルは気付かないまま、その横をすり抜ける。
すれ違いざま。
ちらりと後ろを見る。
「よぉ。」
「!」
メルは反射的に前を向く。
口元だけが、少しだけ緩んだ。
次の瞬間。
ダッ。
石畳を蹴って駆け出す。
レイも笑いながら追いかける。
「おいおい。」
「逃げるのか。」
⸻
屋根。
路地。
市場。
二人は王都を駆け抜ける。
(今日は絶対逃げ切る。)
メルは全力だった。
角を曲がる。
屋根を飛び越える。
何度も後ろを確認する。
まだいる。
さらに速度を上げる。
しばらく走ったあと。
もう一度振り返る。
「……。」
いない。
少し小走りになり、立ち止まる。
「……?」
本当にいない。
少し戻ってみる。
やっぱり、いない。
メルはその場へしゃがみ込んだ。
(どうしたんだろう。)
(おかしいな。)
まだ振り切れる相手じゃない。
それくらい、もう分かっていた。
(帰ったのかな……。)
(飽きたのかな……。)
(前は仕事だったから……。)
(その日の夜は、仕事の直後だったから……。)
胸の奥が、少しだけ苦しくなる。
膝を抱え、俯いた。
その時。
ぽん。
頭に優しく手が乗った。
「おまたせ。」
「!」
メルは驚いて顔を上げる。
次の瞬間。
思わず笑顔がこぼれた。
――その笑顔に、自分で気付く。
「!」
慌てて飛び退き、距離を取る。
きっとレイを睨みつけた。
「わりぃ。」
「泥棒捕まえてた。」
「……嘘。」
レイは笑う。
「本当だって。」
「とりあえず、そっち片付けなきゃいけねぇから。」
「一時休戦。」
屋根の縁へ歩く。
「お前も来いよ。」
そう言って飛び降りた。
メルも少し迷ってから、その後を追う。
⸻
「待たせたな。」
「衛兵呼んだ?」
店主がほっとしたように頷く。
「うん。」
「助かったよ、レイさん。」
「そっちは大丈夫なのか?」
「あぁ。」
「問題ない。」
ちょうど衛兵が駆け寄ってくる。
「捕まえたのは?」
店主がレイを指差した。
「あの人だよ。」
レイは真剣な表情になり、右手の指貫グローブを外す。
手の甲を衛兵へ見せた。
「俺はプロハンターだ。」
衛兵はすぐに姿勢を正す。
「はい。」
「プロの方ですね。」
「助かりました。」
レイは短く頷いた。
「逃げてるところを捕らえて、逮捕した。」
「罪状は窃盗罪。」
「被害者はこの人。」
「承知しました。」
衛兵は盗人を連れていく。
被害者の男性が何度も頭を下げた。
「レイさん!」
「本当に助かりました!」
「少ないですけど、お礼を……。」
革袋を差し出す。
レイは軽く手を振った。
「いや。」
「現行犯だったし、いいよ。」
「でも……。」
レイは苦笑する。
「プロだから。」
「気にすんな。」
そう言って踵を返した。
「じゃ。」
「また何かあったら言ってくれ。」
「ありがとうございました!」
その少し後ろ。
黒猫の耳が、ぴくりと動いた。
⸻
「悪いな、メル。」
「終わったぞ。」
メルはじっとレイを見る。
「……本当だったんだ。」
レイは苦笑した。
「あぁ。」
「まぁ、さすがにな。」
「緊急事態だ。」
少しだけ間が空く。
レイは肩を回しながら、小さく息を吐いた。
「さて。」
「せっかく休戦したし。」
「ちょっと休むか。」
二人は近くの噴水の縁へ腰を下ろした。
しばらく風だけが吹き抜ける。
「……。」
「……。」
メルがぽつりと口を開く。
「何でも屋って。」
「ん?」
「泥棒も捕まえるんだね。」
レイは肩をすくめる。
「まぁ。」
「それが仕事だし。」
少し空を見上げる。
「でも。」
「働きたくねぇ……。」
メルは思わずレイを見る。
さっきまで衛兵と真剣な顔で話していた人が。
今は面倒くさそうに空を見上げている。
「じゃあ。」
「なんで何でも屋なんてやってるの。」
レイは少し考えた。
「んー。」
「依頼が来るから?」
メルは少しだけ眉をひそめる。
「……変。」
レイは笑う。
「よく言われる。」
しばらく静かな時間が流れる。
レイが立ち上がった。
「さて。」
その一言だけで。
メルは反射的に身構える。
レイが口元を緩める。
「第二ラウンド。」
「!」
メルも思わず笑う。
「負けない。」
二人は同時に駆け出した。




