黒猫と変な大人
庭を飛び出したレイは、そのまま路地へ駆ける。
壁を蹴り、屋根へ飛び乗る。
黒い猫耳がぴくりと動いた。
メルが振り返る。
その瞬間。
レイはひらりと屋根を飛び越え、そのままメルの目の前へ降り立った。
「よぉ。」
メルは目を丸くする。
「……!」
レイは笑う。
「足速いな。」
レイが言い終えるより早く。
メルは反射的に身を翻し、全力で駆け出した。
さっきまでとは比べものにならない速さだった。
「お。」
レイは思わず笑う。
「本気か。」
そのまま追いかける。
⸻
屋根から屋根へ。
塀を蹴り。
細い路地を抜け。
煙突を飛び越え。
メルは一度も立ち止まらない。
ただ逃げる。
レイも無理に止めようとはしなかった。
一定の距離を保ちながら、ただ後ろを追いかける。
⸻
一時間後。
街外れの小さな公園。
メルは肩で息をしながら、ベンチへ腰を下ろした。
「はぁ……。」
「はぁ……。」
耳も尻尾もぐったりと垂れている。
そこへ。
レイがゆっくり歩いてくる。
息一つ乱れていない。
「よ。」
メルは悔しそうに睨んだ。
「……なんで。」
「なんでそんなに速いの。」
レイは肩をすくめる。
「あぁ。」
「俺最強だから。」
「……変なの。」
メルは立ち上がる。
「じゃあ私はこれで。」
踵を返す。
後ろから足音。
振り返る。
「……。」
「なんでついてくるの。」
レイは空を見上げた。
「腹減ったな。」
「一緒に帰ろうぜ。」
「……え?」
レイはそのまま歩き出す。
メルは立ち尽くしたまま、その背中を見つめていた。
「帰らないの?」
レイは振り返りもせず手だけ振りながら聞く。
「帰る。」
「なら昼飯食いに行こうぜ。」
「……。」
メルは少しだけ首を傾げる。
「……変なの。」
小さく呟くと、数歩遅れて歩き出した。
⸻
孤児院の門が見えてくる。
ローズは入口の前を行ったり来たりしながら、何度も外へ目を向けていた。
「あっ……!」
レイの姿を見つけ、ほっと胸を撫で下ろす。
「レイさん!」
「どこへ行ってたんですか!」
レイは苦笑する。
「ちょっと鬼ごっこ。」
「……鬼ごっこ?」
その時だった。
レイの少し後ろから、小さな足音が聞こえる。
少し息を切らしたメルが、ゆっくりと歩いてきて、レイの隣で立ち止まった。
「ただいま。」
ローズは目を丸くした。
「メルちゃん……。」
思わずレイを見る。
またメルを見る。
(え……。)
今まで何人もの人が追いかけた。
気付けなかった人もいた。
気付いても、少し追いかけて。
『逃げられちゃいました。』
そう苦笑して戻ってくる人ばかりだった。
それなのに。
初めて来たばかりのレイは。
メルを連れて帰ってきた。
ローズにとって今日は、初めてのことばかりだった。
⸻
気付けば、夕日が孤児院の庭を赤く染めていた。
「もう帰るのー?」
「えー!」
「もっと遊ぼうよ!」
子供たちが一斉にレイへ駆け寄る。
レイは苦笑した。
「また今度な。」
「えぇー……。」
「約束だぞ!」
「あぁ。」
「また来る。」
その一言だけで、子供たちは嬉しそうに笑った。
⸻
ローズは深く頭を下げる。
「今日は本当にありがとうございました。」
「助かりました。」
「いえ。」
レイは軽く手を振る。
「じゃあ帰ります。」
「あの。」
ローズは少しだけ言いづらそうに口を開く。
「もしよろしければ……。」
「ギルドの派遣なんですが。」
「これからも、レイさんにお願いすることはできませんか?」
「他の方が悪いというわけではないんです。」
「でも……。」
少しだけ庭へ目を向ける。
まだ子供たちは、名残惜しそうに門の前へ集まっている。
「今日、初めてあの子たちが、あんなに楽しそうに笑ってくれました。」
「……。」
「メルちゃんまで。」
レイも振り返る。
少し離れた場所で、猫耳をぴくりと動かしながらこちらを見ているメル。
「あぁ。」
「固定の方が俺も助かる。」
「毎回違う孤児院行くの、めんどくさいし。」
あまりにもあっさりした返事に。
ローズは思わず小さく笑ってしまった。
「ふふっ。」
「ありがとうございます。」
「では、ギルドへお願いしてみます。」
⸻
黒猫の耳を揺らしながら、メルはその様子を黙って見つめていた。
レイがふと視線を向ける。
目が合う。
メルはすぐにぷいっと顔を逸らした。
レイは小さく笑い、軽く手を振る。
「またな。」
メルは何も答えない。
それでも。
レイが門を出て見えなくなるまで、その場を動かなかった。




