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LAVeLESS  作者: 神矢
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王都アルトーラの人々 エピローグ

 数ヶ月後。


 仕事帰り、女性は街中を歩いていた。


「……あの。」


 聞き覚えのある声に、足が止まった。


「…………」


 振り返って、一瞬だけ身体が強張る。


 あの男だった。


 あの日以来、一度も姿を見ていなかった男。


 だが――以前とは違った。


 距離を空けて立っている。


 近づいてもこない。


「あの時は、本当に申し訳ございませんでした。」


 男は深く頭を下げた。


「あなたの気持ちも考えず、勝手な行動をしました。」


「…………」


「許されることではないと思っています。でも……僕は、あなたのことが好きなんです。」


 女性は少し驚いた。


 以前とはまるで違う。


 自分の気持ちを押しつけるでもなく。


 私も自分を好きなはずだと、決めつけるでもなく。


 ただ、自分のしたことを謝って。


 自分の気持ちだけを伝えている。


 ――あぁ。


 その時、女性はようやく分かった。


 レイさんは、本当にこの人を脅していなかったんだ。


 力で従わせたわけでもない。


 ちゃんと、この人と向き合って話してくれた。


 だから、この人も今。


 私とちゃんと向き合おうとしている。


「……もう、気にしていません。」


「え……。」


「謝罪も受け取ります。」


 男が顔を上げた。


「ですが、私は今……仕事のことしか考えられなくて。」


 少しだけ申し訳なさそうに笑う。


「しばらく、恋愛をすることはできないんです。ごめんなさい。」


「…………」


 男はしばらく黙っていた。


 そして――


「……はい。分かりました。」


 それ以上、何も求めなかった。


「ありがとうございます。聞いてくれて。」


「いえ。」


「では、また。失礼します。」


 軽く頭を下げて、男は去っていく。


 女性はその背中をしばらく見送った。


 怖くなかった。


     ◇


 彼女と別れた男は、しばらくまっすぐ歩いていた。


 今は恋愛をする余裕がない。


 それが彼女の答えだった。


 望んでいた返事ではない。それなのに、不思議と気持ちは軽かった。


 謝罪を受け取ってくれた。自分の気持ちも、最後まで聞いてくれた。そして、彼女自身の言葉で答えてくれた。


 それだけで、十分だった。


 数か月前の自分なら、こんなふうには思えなかっただろう。


 あの頃は、彼女が自分を避ける理由すら、まともに考えられていなかった。


 変わるきっかけになったのは、職場を訪ねてきた一人の青年だった。


 その日、男はいつもどおり仕事をしていた。


 そこへ現れた青年は、落ち着いた様子で名乗った。


「何でも屋のレイです。彼女から相談を受けて、あなたと話しに来ました。」


「……何しに来たんだ?」


 彼女から相談を受けた。


 その一言で、男はもう身構えていた。


「彼女が怖がっていることを、お伝えに。」


「彼女は僕のことが好きなんだ!」 


「お前には関係ないだろ!」


 男は言い切った。


 レイは否定しなかった。


「それは知りませんでした。彼女もあなたのことが好きだったんですね。」


「え……うん……たぶん……。」


 思いがけず話を受け止められて、男の声は少し弱くなった。


「そうだとすると、最初はあなたのことが好きだったのかもしれません。」


 レイは穏やかな口調で続けた。


「今も、好きかもしれない。」


「……うん。」


「でも、好きな相手を怖いと思うこともありますよね。」


「…………」


「彼女は今、怖くて俺に相談してきたんです。」


「…………」


「あなたは本気で彼女のことが好きなんですか?」


 男は答えられなかった。


「彼女と付き合いたいと思ってますか?」


「……はい。」


「それなら、協力しますよ。」


「……え?」


 男はレイの顔を見た。


「彼女から僕を引き剥がしに来たんじゃないんですか?」


「あなたが彼女を好きでいることを、やめさせに来たわけじゃありません。」


「……じゃあ、何を?」


「彼女が怖がっている状況を、終わらせに来ました。」


 レイは少し間を置いた。


「人を好きだと思うことは、とても素敵なことだと思います。そこは頑張ってほしい。」


「…………」


「ただ、今のやり方が失敗していることは、あなたも分かっていますよね?」


 男は何か言おうとして、口を閉じた。


「後に引けなくなってしまったんですよね。」


「……はい。」


「なら、まずは目標を分けましょう。」


「目標……?」


「付き合うことを、いきなり目標にはできません。」


 レイは男の反応を見ながら続けた。


「まずは彼女が安心して、あなたを一人の人として見られるところまで戻す。」


「……どうすればいいんですか?」


「距離を取る。」


 男の表情が再び硬くなった。


「……やっぱり、僕を彼女から引き剥がしたいだけじゃないですか。」


「よく考えてください。」


 レイの口調は穏やかなままだった。


「彼女があなたを好きだとしても、今、怖がっているのは事実です。」


「…………」


「まずはそこを解消しないと、付き合う話もできません。」


 男は黙ったまま、レイを見ている。


「恋愛はビジネスとは違います。」


「非合理なことの連続です。」


「長期戦になる覚悟はしてください。」


 レイは少しだけ間を置いた。


「人生をかけて好きなら、なおさらです。」


「心理学に、感情の対比という考え方があります。」


「対比……?」


「怖い思いをした後で急に安心すると、その安心を強く感じることがあるんです。」


「あなたが距離を取れば、彼女はまず安心できます。」


「『嫌がっていたことをやめてくれた』と感じて、あなたへの警戒が薄れる可能性もある。」


「……本当に?」


「保証はしません。でも、今のまま近づき続けるより、可能性はあります。」


「彼女が怖がっているのは、分かりますよね?」


「……はい。」


「なら、まずは怖がらせるのをやめないといけません。」


「でも、どうすれば……。」


「『押してダメなら引いてみろ』という言葉が、私の国にあるんです。」


「引く……?」


「今は少し、押しすぎています。」


 レイは穏やかに言った。


「一度、引いてみましょう。」


「それが彼女の望みであり、やり直すための唯一の方法です。」


「それが、やり直すための唯一の方法であり、彼女が望んでいることです。」


「……どのくらい、引けばいいんですか?」


「まずは三ヶ月くらい、距離を取ってみましょう。」


「三ヶ月も……?」


「長期戦になると言ったでしょう。」


 男はしばらく考えてから、頷いた。


「それでも気持ちが変わらなければ、人目のある場所で声をかけてください。」


「まず、自分が悪かったところを謝る。」


「そのうえで、気持ちを伝えるのはありです。」


「もし断られたら……?」


「彼女の返事を受け入れましょう。」


 レイは少し笑った。


「そこで余裕を見せるくらいが、いいと思いますよ。」


「一度やってしまったことは、素直に認めてください。」


「……はい。」


「それでも、やり直しちゃいけないわけじゃありません。」


 レイは男の目を見た。


「ただ、恋愛は相手のペースに合わせることが大事です。」


「相手の人生の重荷になるのは、絶対にダメですよ。」


「……分かりました。」


「どうしようもなくなったら、また相談してください。」


     ◇


 彼女と別れた男は、何でも屋へ向かった。


 返事をもらうまで、どこかで期待していた。


 でも今は、彼女が自分の話を聞き、答えてくれたことが嬉しかった。


 店を訪ねると、レイはすぐに気づいた。


「……振られちゃいました。」


「そうですか……。」


 レイは男の顔を見て、少し笑った。


「でも、いい顔になりましたね。」


「え? そうですか?」


「はい。前に会った時は、彼女の話になるとずっと力が入っていましたから。」


「……そうかもしれません。」


「今日は、ちゃんと話せたんですね。」


「はい。謝れました。自分の気持ちも伝えて、彼女の返事も聞けました。」


「それなら、よかったです。」


 男は少し笑った。


「振られたのに、不思議と落ち着いてるんです。」


「自分で納得できたんでしょうね。」


「……はい。」


 レイは男の表情をもう一度見た。


「仕事はもう終わりですか?」


「ええ。今日は。」


「じゃあ、暇なら飲みに行きませんか?」


 男は意外そうにレイを見た。


「……僕と?」


「ええ。いい店があるんですよ。地下街なんですけど、抵抗ありますか?」


「いえ。行ってみたいです。」


「じゃあ、行きましょう。」


 店を出ると、夕暮れの街には仕事帰りの人たちが行き交っていた。


 男はレイと並んで歩き出す。


 初めて職場にレイが来た時は、彼女との仲を引き裂きに来たのだと思った。


 何を言われても信じるものかと、身構えていた。


 けれどレイは、男が彼女を好きだという気持ちを一度も否定しなかった。


 むしろ、その気持ちを受け止めて、どうすればやり直せるかを一緒に考えてくれた。


 言われたとおり、数か月の間。


 彼女と距離を取った。


 そして今日。


 謝罪をして。


 自分の気持ちを伝えた。


 返事は。


 望んでいたものではなかった。


 それでも彼女は最後まで聞いて、彼女自身の言葉で答えてくれた。


 今の男は、それが嬉しかった。


 胸の奥に、少し余裕ができた気がする。


 明日からもっと仕事を頑張ろう。


 いつか、彼女に一人の人間として認めてもらえるように。


 レイにも、こんな自分は気持ち悪がられていると思っていた。


 だから飲みに誘われた時は、驚いた。


 ――今日は、久しぶりに楽しく飲めそうだ。


 そう思いながら、男はレイと共に地下街への階段を下りていった。


 王都アルトーラ。


 今日もこの街では、人々が必死にそれぞれの人生を生きている。

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