楽しい温泉街
列車を降りると、王都とは違う匂いがした。
温かな湯の匂いが、街のあちこちから漂ってくる。
石畳の道には旅館や土産物屋が並び、軒先から白い湯気が上がっていた。
坂の上にも建物が続いている。
メルは駅を出たところで立ち止まり、街を見渡した。
「……ここ、全部温泉?」
「全部じゃねぇよ。」
レイが笑う。
「でも、そこら中にあるな。」
アイリスは土産物屋の前に並んだ菓子を見つけ、メルの袖を引いた。
メルもそちらを見たが、すぐに坂の上へ視線を戻す。
どこから湯気が出ているのか気になるらしい。
「まずは旅館だな。」
レイを先頭に、五人は坂道を上った。
途中、細い路地の奥にも小さな旅館が見えた。
通りを行く人は皆、急いでいない。
昼間から湯上がりらしい姿で歩く人もいて、アイリスは何度も周りを見ていた。
旅館で受付を済ませ、荷物を置く。
外へ出ると、ちょうど昼食の時間だった。
「何か決めてた?」
ヒナに聞かれ、レイは首を振った。
「いや。歩いて、よさそうな店に入ろう。」
通りを少し戻ったところに、食事のできる店があった。
五人で入って席につき、料理を頼む。
メルとアイリスが窓の外を眺めながら話していると、隣の席から声が聞こえた。
「最近、妙な薬が出回ってるって聞いたか?」
「この街で? 誰に聞いたんだよ。」
「人づてだ。だから本当かどうかは知らん。」
「なんだ、ただの噂か。」
「そうならいいんだけどな。」
話はそこで途切れた。
レイは向かいのヒナと目が合った。
ルコも会話を聞いていたらしく、少しだけ表情が変わっている。
ただの噂だ。
今はそれ以上、確かめようがない。
「……レイ?」
アイリスに呼ばれ、レイは顔を上げた。
「ん? ああ、食べようぜ。」
五人は昼食を食べ始めた。
レイはいつも通り話しながらも、隣の席で聞いた言葉を覚えていた。
⸻
昼食の後、五人は温泉街をのんびり歩いた。
土産物屋を覗き、湯気の上がる通りを抜ける。
メルは気になるものを見つけるたびに立ち止まった。
アイリスも隣で足を止めるので、先を歩いていた大人たちは何度も振り返ることになった。
急ぐ理由はない。
レイも二人が追いつくのを待ってから、また歩き出した。
旅館に戻る頃には、ちょうど湯に入りたくなる時間だった。
⸻
男湯には、レイとルコの二人だけだった。
湯船につかると、レイは長く息を吐いた。
「……いい湯だな。」
「ああ。」
ルコも隣で肩まで湯につかる。
窓の外には、昼間歩いた温泉街の屋根が見えた。
遠くで人の声がしている。
ここまでは聞こえても、何を話しているのかまでは分からない。
レイは湯船の縁に腕を預けた。
「たまにはいいよな……。」
「あぁ……安らぐわ〜。」
ルコの声が、いつもより間延びしている。
レイは少し笑った。
「もう出られなくなってんじゃねぇか?」
「あと少しだけ。」
「さっきも言ってたぞ。」
「それだけいい湯ってことだ。」
レイは何も言い返さず、もう一度湯につかった。
温かさが身体に広がっていく。
二人はしばらく、話もせずに過ごした。
⸻
女湯では、アイリスが湯の中で自分の手を見ていた。
「すべすべする。」
隣のメルも、指先をそっと擦り合わせる。
「……うん。気持ちいい。」
アイリスが笑うと、メルも少しだけ笑った。
ヒナは二人のそばで湯につかり、背中を縁に預けた。
「ほっとするわね。」
目を閉じて、ゆっくり息を吐く。
「疲れがとれるわ。」
「ヒナ、疲れてたの?」
アイリスが聞いた。
「少しね。」
「じゃあ、ゆっくり入ろう。」
「そうするわ。」
メルは湯けむりの向こうを眺めていた。
初めての列車。
初めて見る王都の外。
そして、初めての温泉。
「……来てよかった。」
小さな声だったが、二人には聞こえた。
「うん。私も。」
アイリスが答える。
ヒナは二人を見て、柔らかく笑った。
⸻
夕食には、五人が旅館の食事処に集まった。
席につくと、料理が次々と運ばれてくる。
焼き魚に、野菜の煮物。
湯気の立つ汁物や、この街の料理だという小鉢も並んだ。
テーブルの端まで器が埋まり、メルはどれから食べればいいのか迷っていた。
「すごい量だね。」
アイリスも料理を見渡す。
「今日は祝い事が二つあるからな!」
ルコが嬉しそうに言った。
「さっき列車でも言ってただろ。」
「何度言ってもいいだろう?」
レイは笑って、箸を取った。
「まあな。」
皆で食べ始める。
メルが一つの小鉢に箸を伸ばし、食べてからもう一度伸ばした。
「それ、気に入ったの?」
ヒナが聞く。
「……うん。」
「私も食べてみようかしら。」
アイリスは焼き魚を食べながら、昼間見つけた土産物の話をしていた。
ルコはそれを聞いて、明日また見に行けばいいと言う。
レイも頷いた。
「時間はあるしな。」
食事が終わる頃には、デザートまで出てきた。
メルはもうお腹がいっぱいだと言いながらも、少しずつ食べ進める。
アイリスが楽しそうに話しかけ、ヒナとルコも会話に加わった。
レイはそんな四人を眺めてから、自分の前に残っていた最後の一口を食べた。
⸻
夕食の後、レイはヒナとルコに声をかけた。
「昼に聞いた話、少し調べてくる。」
「私も行くわ。」
「俺も聞いてたからな。一緒に行こう。」
ルコも立ち上がる。
アイリスとメルは、三人を見上げた。
「二人は旅館で待っててくれ。」
「うん。分かった。」
アイリスが頷く。
メルも小さく頷いた。
レイたちが出ていくと、部屋は急に静かになった。
アイリスは窓のそばに座り、夜の温泉街を眺める。
メルはその隣に来た。
「……アイリス。」
「どうしたの?」
「変な匂いがする。」
アイリスは窓を開け、外の空気を吸った。
「温泉の匂い?」
「……違う。」
メルは首を振る。
「ここに来てから、ずっと混ざってる。」
「ずっと?」
「……嫌な匂い。」
メルは窓の外を見た。
通りを歩いた時も、旅館へ戻った時も、時々その匂いがした。
今はさっきより、はっきり分かる。
「どこからするの?」
「……分からない。でも、辿れると思う。」
アイリスは少し考え、メルの顔を見た。
「一緒に行く。」
メルが頷く。
外へ出ると、夜の通りにはまだ人がいた。
メルは立ち止まって風を確かめ、それから歩き出した。
⸻
その頃、レイたちは街の屯所にいた。
「妙な薬が出回っているという噂を聞きまして。」
レイが尋ねると、対応した職員は少し考えた。
「噂なら、こちらにも入っています。ただ、まだ確かな話は……。」
「分かりました。ありがとうございます。」
三人は屯所を出た。
その後も、開いている店に立ち寄り、街の人に話を聞く。
聞いたことがあるという人はいた。
けれど、誰もその薬を見たとは言わなかった。
「今のところ、噂だけね。」
「ああ。」
レイが頷く。
ヒナは通りの先を見た。
「もう少し聞いて回りましょう。」
三人は夜の街を歩き出した。
同じ頃、メルとアイリスも、少しずつ匂いの強くなる方へ進んでいた。




