ノア外伝エピローグ③
「母さん。」
「何?」
「いいか。余計なこと言うなよ。」
「分かってるわよ。」
「本当に?」
「挨拶に行くだけでしょう?」
「…………。」
兄は、隣を歩く母を見る。
信用できない。
今回、王都まで来た理由。
それは。
ノアの月収が、五百万ベルになったからだ。
二百万。
三百万。
そして、五百万。
ここまで来ると、さすがに一度、直接話を聞いた方がいい。
そう言い出したのは母だった。
気持ちは分かる。
兄だって、弟が何をしているのかは気になっている。
だが、相手はビヨンド商会。
王都でも有数の大商会だ。
ノアがどういう立場で契約しているのか分からない以上、下手なことを言って弟の仕事に影響が出るようなことだけは避けたい。
「ノアの仕事に響くかもしれないんだから、そこだけは本当に気をつけてくれよ。」
「分かってるって。」
「聞きたいことがあったら、まず俺に任せて。」
「はいはい。」
「…………。」
本当に大丈夫だろうか。
そんな不安を抱えたまま。
二人は、ビヨンド商会へ入った。
◇
「いらっしゃいませ。」
「あの。」
受付の女性に、兄が声をかける。
「こちらでお世話になっている、ノアの兄です。こちらが母です。」
「ノアさんの?」
「はい。」
「ノアの仕事を担当されている方と、少しお話ししたいのですが。」
「少々お待ちください。」
受付の女性が奥へ下がる。
しばらくして。
一人の男が現れた。
「お待たせいたしました。」
ゲルムは二人を見る。
「ノアさんとの契約を担当しております、ゲルムと申します。」
「あ、どうも。」
「初めまして。」
二人が頭を下げる。
ゲルムも丁寧に頭を下げた。
「ノアさんのご家族でしたか。本日はどのようなご用件でしょう?」
「いえ、大したことではないんです。」
兄が答える。
「弟がこちらでお世話になっていると聞きまして、一度ご挨拶をと思いまして。」
「なるほど。」
ゲルムは頷く。
だが。
少しだけ考える。
ノアが、自分の家族にどこまで話しているのか分からない。
ビヨンド商会との契約。
情報調査部。
隊長補佐。
そして、彼自身が行っている極秘任務。
こちらから不用意に話すべきではないだろう。
「こちらこそ、ノアさんには大変お世話になっております。」
「いえ、そんな。」
「ただ。」
「はい?」
「正確には、こちらへ勤めているというわけではありません。」
「…………え?」
兄が止まる。
母も、ゲルムを見る。
「外注、といった形に近いですね。」
「……外注?」
「はい。本来、ノアさんが我々と取引していること自体、内密にしていただいているのですが……。」
ゲルムは少しだけ声を落とす。
「彼には、公爵家でのお仕事がありますから。」
「…………。」
「…………。」
兄と母が。
揃って絶句した。
「あの。」
兄が確認する。
「公爵家の仕事って……。」
「もちろん、今までどおり続けていただいております。」
「…………。」
「そちらを辞めて、うちへ来ていただいたわけではありませんよ。」
「…………。」
兄が母を見る。
母も兄を見る。
二人とも。
同じことを考えていた。
話が違う。
いや。
ノアは嘘など言っていない。
公爵家を辞めたとは、一度も言っていなかった。
だが。
月五百万ベル。
当然。
それだけの金額を受け取るほど、ビヨンド商会で働いているのだと思っていた。
昼も夜もなく。
それこそ、家族には言えないような大変な仕事をしているのではないか。
だからこその五百万ベル。
そう考えれば。
まだ、理解できた。
だが。
「……じゃあ。」
母が口を開く。
「普段は、公爵家で働いてるんですか?」
「えぇ。」
「こちらのお仕事は?」
「必要な時にお願いする、という契約ですね。」
「…………。」
必要な時。
それだけ。
「今は、どれくらいお仕事を?」
「現在ですか?」
「はい。」
「…………。」
ゲルムは少し考える。
これは、どこまで話していいのだろう。
具体的な案件については当然話せない。
なら。
仕事の形式だけなら問題ないだろう。
「現在は、全てノアさんの判断で動いていただいております。」
「…………え?」
「こちらから指示は、特に出しておりません。」
「…………。」
「…………。」
また。
沈黙した。
「ちょっと待ってください。」
兄が、慎重に確認する。
「全て本人の判断?」
「はい。」
「今日はこれをしてください、とか。」
「ありませんね。」
「この仕事をお願いします、とか。」
「現在は、ほとんどありません。」
「…………。」
「必要な情報はこちらから共有しておりますが、その後どう動くかについては、ノアさんにお任せしています。」
「…………。」
兄は少し考える。
何か。
自分が想像していた働き方とは、かなり違う。
「あの、勤務時間などは?」
「ありません。」
「出勤は?」
「必要ありません。」
「…………。」
母も黙って聞いている。
「ノアからは。」
兄は、以前聞いた話を思い出す。
「自分にはできない仕事なら、断ってもいいと言われていると聞いているのですが。」
「はい。そのとおりです。」
「…………全部断っても?」
「もちろん構いません。」
「…………。」
兄が止まる。
「例えばですよ?」
「はい。」
「一か月の間、そちらから頼んだ仕事を全部断って、何もしなかったとしても?」
「問題ありません。」
「…………。」
「その場合も、契約金は通常どおりお支払いします。」
「…………。」
「ですので、ご家族の方はご安心ください。」
ゲルムは穏やかに続ける。
「こちらの仕事がノアさんの負担になることは、極力ないよう配慮しております。」
「…………。」
兄は。
完全に分からなくなった。
勤務時間はない。
出勤する必要もない。
仕事を受ける義務すらない。
一か月。
何もしなくてもいい。
それでも。
毎月、五百万ベル。
「…………。」
兄は隣を見る。
母も。
完全に固まっていた。
「……じゃあ。」
母が、ようやく口を開く。
「普段は、本当に今までどおり、公爵家で働いてるんですか?」
「はい。」
「その合間に、できそうな仕事だけ?」
「そう考えていただいて構いません。」
「…………。」
母は。
もう一度、兄を見る。
兄も。
何も言えなかった。
二人が想像していたのは。
ノアが、家族にも言えないような仕事を大量に抱え、その対価として五百万ベルを受け取っている。
そんな働き方だった。
違った。
まったく違った。
むしろ。
働いていなかった。
いや。
実際には働いているのだろう。
だが。
少なくともビヨンド商会からは、働くことすら求められていない。
「それで五百万!?」
母の声が、応接室に響いた。
「母さん!」
「あっ……。」
「余計なこと言うなって言っただろ!」
「だって!」
「す、すみません。」
母が慌てて頭を下げる。
「いえ、お気になさらず。」
ゲルムは穏やかに答えると、少しだけ意外そうに二人を見た。
「あぁ……金額もお伝えされているのですね。」
「え?」
「いえ。本来、契約内容についても内密にしていただいておりますので。」
ゲルムは僅かに微笑む。
「よほど、ご家族を信頼されているのですね。」
「…………。」
違う。
毎月。
実家へ大量の金を送ってくるから。
問い詰めただけである。
「ただ……。」
ゲルムは少し考えてから続ける。
「正直なところ、私も現在の金額については問題だと思っています。」
「…………!」
母の表情が変わった。
兄も。
思わずゲルムを見る。
やはり。
そうなのだ。
五百万ベル。
勤務時間もなく。
出勤義務もなく。
仕事を全て断っても支払われる。
さすがに。
会社側も、おかしいと思っていた。
「そうですよね!」
母が思わず身を乗り出す。
「えぇ。」
ゲルムも頷いた。
「かなり少ないですよね。」
「…………。」
「…………。」
一瞬。
母は。
何を言われたのか理解できなかった。
「……はい?」
「現在の働きを考えれば、五百万ベルでは少なすぎると考えています。」
「…………。」
「正直、ご本人にはなかなか申し上げづらいことではあるのですが。」
「…………。」
「我々としても、待遇については改めて考える必要があるかと。」
「いや、多いですよ!!!」
「母さん!!!」
今度こそ。
兄が慌てて母を止めた。
「すみません! 本当にすみません!」
「い、いえ……。」
ゲルムも。
さすがに少し困惑していた。
「母さん、俺に任せるって言っただろ!」
「だって!」
「だってじゃない!」
「五百万よ!?」
「分かってる!」
「それを少ないって!」
「今それを聞いてるんだよ!」
「…………。」
ゲルムは、二人を見る。
何か。
話が噛み合っていない気がする。
一方。
兄も。
混乱していた。
五百万でも少ない。
では。
この男は。
弟に一体、いくら払うつもりなのか。
「あの……。」
兄は恐る恐る尋ねる。
「参考までに、伺ってもいいですか?」
「はい。」
「ノアの仕事って……そんなに価値があるんでしょうか?」
「…………。」
ゲルムが。
僅かに目を見開く。
「もちろんです。」
「…………。」
「むしろ。」
ゲルムは、少し考えてから答える。
「現在の働きだけを見ても、月二千万ベル程度であれば、決して過大な評価ではないと私は考えています。」
「…………。」
「…………。」
母と兄は、何も言えなかった。
二千万ベル。
しかも。
この男は今、確かに。
程度。
そう言った。
「あの……。」
兄は、もう一度だけ確認する。
「本当に、ノアのことですよね?」
「はい?」
「いえ……すみません。何でもありません。」
間違いない。
自分たちの知っている、あのノアの話をしている。
公爵家では、まだ護衛見習い。
少し人当たりがよくて、昔から年上には可愛がられやすい。
家族から見れば、それなりにしっかりしているが、別に何でもできるような人間ではない。
その弟を。
王都でも有数の大商会、ビヨンド商会でもかなり上の立場にいるであろうこの男が。
月二千万ベルでもおかしくないと、本気で評価している。
「…………。」
兄は考えるのをやめた。
「分かりました。今日はありがとうございました。」
「いえ。こちらこそ、わざわざご挨拶に来ていただきありがとうございます。」
「今後とも、弟をよろしくお願いします。」
「もちろんです。」
ゲルムは迷うことなく頷いた。
「我々としても、ノアさんには今後も末永くお力を貸していただきたいと考えております。」
「…………。」
その言葉が。
今は少し怖い。
◇
ビヨンド商会を出て。
しばらく。
母と兄は無言で歩いていた。
「…………。」
「…………。」
華やかな王都の大通り。
多くの人が行き交う中。
母が、ぽつりと言った。
「ねえ。」
「何?」
「私たち、何を聞きに来たんだっけ。」
「…………。」
兄は少し考える。
「ノアが、なんで月五百万も貰ってるのか。」
「分かった?」
「…………。」
「…………。」
「分からない。」
「私も。」
むしろ。
来る前より分からなくなった。
ただ、一つだけ分かったことがある。
ノアは危険な仕事を無理やりやらされているわけではない。
公爵家での仕事も今までどおり続けている。
ビヨンド商会から何かを強制されているわけでもない。
そして何より。
ビヨンド商会は。
本気でノアを評価している。
なら。
「……まあ。」
母が息を吐く。
「あの子が危ない目に遭ってないなら、それでいいか。」
「そうだな。」
結局。
家族として一番大切なのは、そこだった。
給料が五百万だろうと。
二千万だろうと。
本人が真面目に働いていて、危険なことを強制されていないのなら、それでいい。
「帰りましょう。」
「あぁ。」
二人は、魔導列車の駅へ向かって歩き出す。
その途中。
「…………。」
兄はふと、足を止めた。
「母さん。」
「何?」
「一応聞くけど。」
「うん。」
「ノアには、今日のこと……。」
「言わなくていいんじゃない?」
「だよな。」
二人の意見は。
初めて、すぐに一致した。
何しろ。
本人は現在の五百万ベルですら。
申し訳ないと思っている。
そこへ。
『あなたの上司、月二千万ベル程度でもおかしくないって言ってたわよ。』
などと伝えて。
何が起きるのか。
想像もつかない。
「知らない方がいいわね。」
「あぁ。」
こうして。
ノアの家族は。
何一つ理解できないまま。
とりあえず、息子は大丈夫らしい。
ということだけを確認して。
王都を後にした。
◇
一方。
そんなことがあったとも知らず。
ノアは今日も、公爵家でいつもどおり働いていた。
そして仕事を終えれば。
ビヨンド商会から渡された案件に目を通し、必要な情報を整理する。
(これは急いだ方がいいな。)
担当できそうな人間を考え。
資料の端に、その名前を書き加える。
(こっちは……まだ新人でも大丈夫そうだ。)
少し経験を積ませるには、ちょうどいい。
必要な情報だけ補足しておけば、問題なく達成できるだろう。
「よし。」
ノアは次の資料を手に取った。
自分では。
ようやく、給料の十分の一くらいは働けるようになってきた。
そう思いながら。
今日も真面目に。
隊長補佐の仕事を続けていた。




