ノア潜入任務
「ノアさん、潜入任務です。」
「…………。」
ノアは、ゲルムを見る。
「潜入……ですか。」
「はい。」
嫌な言葉だった。
前回。
王城へ潜入してほしいと言われた。
当然、断った。
いくらなんでも無理だ。
だが。
「ある会社へ潜入し、書類を確認していただきたい。」
「書類ですか?」
「はい。こちらです。」
ゲルムが一枚の紙を差し出す。
会社名。
場所。
そして、確認してほしい書類について簡単に書かれている。
「可能であれば、持ち出してください。ただし、無理をする必要はありません。内容を確認するだけでも構いません。」
「…………。」
ノアは紙を見る。
普通の会社だった。
いや。
夜間の警備くらいは当然いる。
だが。
(王城よりは……。)
比較すること自体がおかしい。
王城と普通の会社。
警備体制など、比べるまでもない。
(…………。)
正直。
やりたくない。
自分は潜入の専門家でもない。
だが、一度仕事を断っている。
それでも契約を切られることなく、今も毎月三百万ベルを貰っている。
できる範囲で構わない。
ゲルムは最初からそう言ってくれていた。
なら。
できそうな仕事くらいは、やらなければ。
「……分かりました。」
「受けていただけますか?」
「はい。」
ノアは頷いた。
「やります。」
◇
深夜。
ノアは建物の中を静かに進んでいた。
「…………。」
灯りはない。
人の気配もない。
事前に聞いていた通りなら、目的の部屋は二階。
警備員はいる。
見つかれば、当然まずい。
だから足音を立てないよう、慎重に進む。
廊下の角で一度止まり。
先を見る。
誰もいない。
(……よし。)
そのまま進む。
◇
(ん?)
レイは顔を上げた。
今日は依頼を受け、この会社の夜間警備に入っている。
特に何か起きるとも思っていなかった。
だが。
《センス》の範囲内に、一人。
明らかにおかしな動きをしている人間がいる。
(なんだこいつ?)
社員ではない。
こんな時間に、灯りもつけず廊下を進んでいる。
しかも。
(…………。)
オーラ遮断すらしていない。
魔力にも、特に細工をしている様子はない。
侵入者。
そう考えるのが自然なのだが。
(どういうことだ?)
あまりにも無防備だった。
とりあえず。
確認するか。
◇
「…………。」
ノアは足を止める。
もうすぐだ。
次の角を曲がれば――
「っ!?」
突然。
後ろから腕を取られた。
「――!」
何が起きたのか。
分からなかった。
誰かがいた。
それすら気づかなかった。
反射的に身体を動かそうとする。
だが。
「……え?」
動かない。
腕。
肩。
身体。
完全に押さえられている。
力を入れても。
びくともしない。
(なに、この人……!?)
一方。
レイは、そのまま男の身体を確認する。
《センス》を通して、身体の状態を見る。
多少は鍛えている。
だが。
それだけ。
戦闘を専門にしている身体ではない。
(一般人……?)
ますます意味が分からない。
「こんな時間に、何してるの?」
「…………!」
ノアの頭が回る。
捕まった。
完全に。
逃げられない。
なら。
「あ、す、すみません!」
「……ん?」
「間違って入っちゃってぇ……!」
「…………。」
レイは黙る。
「いや、本当に! なんか道間違えたみたいで!」
「道?」
「あ……建物を……。」
「…………。」
「…………。」
苦しい。
自分でも分かる。
だが。
もうこれしかなかった。
レイは少しだけ考えて。
拘束を解いた。
「え?」
「ここ、入っちゃダメだよ。」
「あ……はい!」
「早くこっちから出て。」
「すみません!」
「こっち。」
「はい!」
ノアは。
素直にレイの後ろを歩いた。
◇
「…………。」
建物の外へ出る。
「もう入っちゃダメだからね。」
「はい。本当にすみませんでした!」
「気をつけて。」
「はい!」
頭を下げ。
ノアはその場を離れる。
角を曲がるまで。
普通に歩く。
そして。
十分に離れてから。
「…………。」
足を止めた。
「…………怖っ。」
何だったんだ。
あの警備員。
後ろに回られたことすら分からなかった。
気づいた時には取り押さえられていた。
抵抗どころか。
身動き一つできなかった。
「…………。」
だが。
逃げられた。
一般人のフリをしたのが、通ったらしい。
(……戻ろう。)
もう一度入る。
そんな選択肢はなかった。
⸻
「申し訳ありません。」
戻ってきたノアは、ゲルムの前で頭を下げた。
「潜入直後、警備員に取り押さえられました。」
「…………。」
ゲルムは僅かに目を細める。
「ノアさんが、ですか?」
「はい。」
「どの程度の相手でした?」
「分かりません。」
「分からない?」
「全く気づけなかったので。」
「…………。」
「気づいた時には後ろを取られていて、そのまま取り押さえられました。身動き一つできませんでした。」
ゲルムは黙る。
ノアが。
接近されたことにすら気づかなかった。
「それで、どうやって?」
「なんとか逃げてきました。」
「…………。」
逃げてきた。
身動き一つ取れない状態から。
ゲルムなら、その時点で潜入の続行を諦める。
そもそも、そこまで接近を許した時点で終わりだ。
だが。
潜入を仕事にする者なら、それぞれ人には明かさない手札の一つや二つは持っている。
ノアにも何かあるのだろう。
「書類は?」
「確認できていません。すみません。」
「いえ。」
ゲルムはすぐに答えた。
「撤退していただいて正解です。」
「…………。」
「少なくとも、これ以上あの会社へ人員を送るのはやめましょう。」
「いいんですか?」
「ノアさんがそこまで一方的に取り押さえられた相手です。」
勝てなかったのか。
あるいは。
その場で戦えば、ビヨンドの動きを悟られると判断したのか。
どちらにせよ。
ノアが撤退を選んだ。
それだけで十分だった。
別の人間を送り込んだところで、結果が良くなるとは思えない。
むしろ。
ノアだったからこそ、戻ってこられた可能性すらある。
「この件はこちらで別の方法を考えます。」
「……分かりました。」
「今日はもう休んでください。」
「はい。ありがとうございます。」
ノアが頭を下げる。
「では、失礼します。」
「お疲れ様でした。」
扉が閉まった。
「…………。」
ゲルムはしばらく、その扉を見ていた。
◇
「ゲルム隊長。」
「どうした?」
「少し、よろしいですか?」
「あぁ。」
部下が資料を持って近づいてくる。
「以前から気になっていたのですが。」
「なんだ?」
「ノアさんは、我々が扱っている案件をある程度把握しているように見えます。」
「…………。」
ゲルムは答えなかった。
だが。
同じことは、以前から感じていた。
「明らかに、こちらの動きを読んでいる節があります。」
「あぁ。私もそれは感じていた。」
「やはり。」
「それだけではない。」
ゲルムは、これまでノアへ依頼した案件を思い返す。
「ノアさんが受けた案件と、断った案件には、明確な特徴がある。」
「特徴、ですか?」
「あぁ。」
断った案件。
あれらは、いずれも他の人間で代替できる仕事だった。
自社の人間でもいい。
外部へ依頼してもいい。
実際。
貴族のパーティーへの潜入も、別の人材へ繋がったことで問題なく完了している。
「諜報の仕事は、実践経験が重要だ。」
「……はい。」
「自分でやれば確実に終わる仕事でも、全て自分で処理してしまえば、他の人間から経験を積む機会を奪う。」
「…………。」
「だから、あえて断っているとも考えられる。」
部下が少し考える。
「では、受けた案件は?」
「逆だ。」
ゲルムは答えた。
「緊急性が高い。」
「…………。」
「時間をかけている余裕がない。自分が動いた方が早い。そう判断したものだけを引き受けているように見える。」
「……確かに。」
そして。
今回。
ノアは仕事を受けた。
だが。
現場を見て撤退した。
その結果。
ビヨンドは、これ以上人員を送り込むという無駄を避けることができた。
「やはり。」
部下が呟く。
「把握している、と考えた方が自然でしょうか。」
「…………。」
「あぁ。」
少なくとも。
こちらが考えている以上に、ビヨンドの動きを把握している可能性は高い。
ならば。
「……毎回、こちらで案件を選んで持っていくのも失礼かもしれんな。」
「と、いいますと?」
「全て渡そう。」
「…………全て?」
「あぁ。」
現在、情報調査部が抱えている案件。
進行中のもの。
調査段階のもの。
外部には一切出していない情報も含めて。
「ですが。」
部下の表情が変わる。
「社外秘の情報もあります。」
「分かっている。」
ノアはビヨンド商会の人間だ。
情報調査部。
調査隊隊長補佐。
正式に役職まで与えられている。
だが。
同時に。
ゲルムたちは、ノアが別の何かに所属していると考えている。
トーリア家で見習いを演じながら続けている、正体すら分からない極秘任務。
その所属も。
目的も。
未だに分かっていない。
そこまで考えれば。
本来なら、会社の機密を全て渡せる相手ではない。
それでも。
「上には、私から話す。」
「許可が出るでしょうか。」
「出してもらう。」
ゲルムは資料を見る。
「こちらが持っている情報まで隠した状態で、ノアさんに判断を求める方が非効率だ。」
「…………。」
「大部分を独自に把握されているとしても、細部まで全てとは限らない。こちらの情報で補完できるものもあるだろう。」
それに。
ノアほどの人材を。
こちらの都合で動きづらくさせる意味がない。
「社長も。」
ゲルムは資料を手に取る。
「彼を逃すくらいなら、認めてくれるだろう。」




