政略結婚と、侯爵家の冷たい夜
ロマリオは、晴れて結婚した今こそ、かつてジュリアが自分に向けていた愛情を、もう一度取り戻せると信じていた。
彼は暇さえあればジュリアのもとを訪れ、甘い言葉を囁いた。かつて自分だけに向けられていた愛情の証――彼女の瞳に宿る熱を、必死に取り戻そうとしていた。
「ジュリア。今夜は、二人きりで……ワインでも飲みながら昔話でもしようよ」
ロマリオが背後から彼女の肩に手を置く。ジュリアは羽ペンを置き、ゆっくりと振り返った。その所作はあまりに優雅で、完璧な淑女のそれだった。しかし、その瞳にはロマリオの姿が映っているようでいて、まるで遠くの風景を見るような空虚さが漂っている。
「……承知いたしました。侯爵家夫人としての職務ですので、ご意向に沿うことはやぶさかではありませんわ」
それは温かな愛の言葉ではなかった。彼女にとってロマリオの愛は、喜びも痛みも伴わない、ただ確認すべき一つの事実に過ぎなかった。
ジュリアは「妻」としての務めを果たすことに一切の妥協を見せない。しかし、そのすべてが「義務」として処理されていた。ロマリオがどれほど愛の囁きを重ねても、彼女はそこに何一つ感情をのせない。彼女にとって、ロマリオの愛はただの「報告事項」と同じ価値しかなかった。
「……ジュリア、なぜそんな目をするんだい! 僕は君を愛しているんだよ!」
ロマリオが焦燥に駆られて声を荒らげても、彼女は穏やかに、しかし断固とした距離を保ったまま微塵も揺らぐことはない。
「ロマリオ様、わたくしたちは侯爵家の繁栄と、家同士の契約のために結ばれました。感情のやり取りは、政略を遂行する上では不要なことかと存じますわ」
ロマリオの胸に、鋭い痛みが走った。それは、誰よりも自分がよく知っている言葉だった。
かつて学園で、自分が彼女へ何度も投げつけた言葉。『愛など必要ない』、『これは政略なのだから』。そう言って、彼女の想いを何度も踏みにじった。
今、その言葉がそのまま自分へ返ってきている。
「……違うんだ。僕は……そんなつもりじゃ……」
けれど、どれだけ否定しても遅かった。
ジュリアが流した涙も、見せていた諦めの笑顔も、彼が気付かなかった彼女の痛みも、今になって彼自身を締め付けていた。
目の前にいるのは、確かに自分が愛しているはずの女性なのに、もう昔のようには笑ってくれない。手に入れたはずの花嫁は、彼の腕の中にいながら、遠い場所にいるようだった。
(違う。ジュリアはただ、恥ずかしがっているだけだ。僕があんなにも酷い扱いをしてしまったのだから、彼女が殻に閉じこもるのも無理はない。彼女の心はまだ、僕への愛で満たされているはずなんだ。……そう、時間が解決してくれる。僕がもっと誠実さを証明すれば、必ず昔のような甘い眼差しを向けてくれるはずだ)
ロマリオは、自身の胸に湧き上がる焦燥を『ジュリアの恥じらい』という都合の良い思い込みで包み隠し、無理やりにでも微笑みを貼り付けた。
それからは、ロマリオは精一杯、ジュリアの愛情を取り戻そうとした。
朝はジュリアを抱きしめて目覚め、微笑みながら愛を囁き、その額に目覚めの口付けを落とす。
「おはよう、僕の可愛い奥さん。今朝の目覚めはどうかな? 愛しているよ」
朝食を一緒に摂りながら、その日の予定を逐一、報告する。ジュリアに浮気を疑われるようなことは絶対にしない。
「今日は午前中は執務室で書類の処理をするから、昼食は一緒に摂ろう。午後は商会の会合で貴族街へ出る予定だけれど、トーマスが付き添うから心配しないでほしい。どこへ行くのか、誰と会うのかも、彼に聞けばすぐ分かるようにしておく。夕方までには戻れると思うから……少し待たせてしまうかもしれないけれど、夕食は一緒に摂りたいんだ。待っていてくれるかな」
ロマリオは、我ながら完璧な夫だと思った。学園時代とは違い、今は他の令嬢に目移りすることもなく、ジュリアだけを求めている。この誠実な愛と努力が伝わらないはずがない。今の彼女の冷淡さは、かつて自分が与えた苦しみの『反動』に過ぎず、僕の変わらぬ愛が、彼女の冷え切った心を必ず温め直すはずだ――そう信じ切っていた。
しかし、そんな彼の努力は、ジュリアの瞳には一度も映ることはなかった。
「ロマリオ様。たまには学園時代からの親しいご友人たちと外食されても構いませんわよ。無理に自宅に戻らなくとも私は構いませんから」
ジュリアは、夫の献身をまるで社交辞令のように事務的に受け流す。
その言葉は、ロマリオが必死に守っていた幻想に、また一つ亀裂を刻んだ。
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