揺らぐ婚約者と、明かされる真実
昼下がり、賑やかな食堂を後にしたロマリオは、友人たちと連れ立って回廊を歩いていた。その時、ふと視線の先に、ひさしぶりにジュリアの姿を見つけた。
思えば、ここ二週間ほど、学園で彼女の姿を見かけることはなかった。それどころか、先週末の侯爵家での定例のお茶会にもジュリアは姿を見せず、侍従からは「シシリー伯爵令嬢様は体調不良のため欠席された」との報告を受けていた。
その報告を聞いた際も、自身で見舞いの品を手配することもなく、ロマリオは特に気にも留めなかった。友人との観劇や気晴らしに忙しかったこともあり、「週明けに学園で会った時にでも声をかければ、いつも通りに戻るだろう」――その程度にしか考えていなかったのだ。
だが、今こうして回廊を歩いてくるジュリアの姿は、記憶の中の彼女とはどこか決定的に違って見えた。
ロマリオが目にしたのは、自身の取り巻きの令嬢の一人が、ジュリアの足を引っ掛けようと足を伸ばす、その瞬間だった。彼女たちは回廊の中ほどにいた。
かつてのジュリアであれば、驚いてよろけたり、悲しげに瞳を揺らしたりしたはずの場面だ。
しかし、今日のジュリアは違った。
彼女は、令嬢が仕掛けた罠をまるで事前に予想していたかのような滑らかな動作で回避し、そのまますれ違いざまに冷ややかな視線を一瞥だけ向けた。
そこには、怒りも、動揺もない。ただ、そこに障害物があったから避けた――それだけの動きだった。
ジュリアはそのままこちらへと歩いてくる。
こちらに気づいているはずなのに、彼女の瞳には、かつて自分へ向けられていた恋慕も、慈しみも映っていない。ただ静かな硝子のような瞳が、彼をその他大勢の生徒の一人として通り過ぎていく。
すれ違いざま、ジュリアは一瞬だけ足を止め、美しい姿勢で会釈をした。
「……ごきげんよう、ロマリオ様」
それは、教科書通りの完璧な挨拶だった。
声にも、表情にも、非の打ちどころはない。だが、そこには婚約者へ向ける温もりが欠片も存在しない。
そう言い終えると、ジュリアは何事もなかったかのように歩き去ろうとした。
「ジュリア!」
たまらずロマリオは、去りゆく背中を追いかけるように手を伸ばし、呼び止めた。
(僕が呼び止めたのに、どうしてすぐに足を止めないんだ? いつものように頬を染めて僕を見つめるんじゃないのか?)
無意識のうちに名前を呼んでいた。
ジュリアは数歩進んでから、ゆっくりと立ち止まり、こちらを振り返った。
「……何か、私に御用でしょうか、ロマリオ様」
ただのクラスメイトに向けるような、あまりにも事務的な問いかけ。ロマリオの胸には、言いようのない焦りと困惑が湧き上がった。
(なんだ……? どうしてそんな目で僕を見るんだ)
ロマリオは、その日はそれ以上言葉が出てこなかった。ジュリアは静かに去っていった。
この日だけは、たまたまだと思いたかった。だが、それからというもの、学園で会うたびにジュリアの態度は変わらなかった。美しい姿勢で挨拶はする。しかし、そこには熱も、かつて自分に向けられていた愛おしげな眼差しも、微塵も存在しなかった。
胸騒ぎが確信へと変わり、焦りを覚えたロマリオは、入学以来初めて学園でジュリアをランチに誘うことにした。これまで誘われる側だった自分が、わざわざ声をかけてやったのだ。彼女なら、嬉しそうに頷くはずだ――そんな傲慢な期待が、まだ心のどこかに残っていた。
「ジュリア、今日のランチタイムは一緒に食べようか?」
ロマリオは、彼女を虜にしているはずの甘い笑みを浮かべ、確信を持ってジュリアの瞳を見つめた。これまで何度も彼からの誘いを心待ちにしていた彼女なら、いつも通り、顔を真っ赤にして喜ぶはずだ。
「ありがとうございます。ですが、あいにく本日は先約がございますので。どうぞ、いつも通り、他の方とごゆっくりお過ごしくださいませ」
そこには相手を気遣うような遠回しな言い回しも、断ることへの躊躇いも一切ない。ただ予定があるという事実を告げているだけだ。
「……どうぞ、お連れ様方と楽しいランチタイムをお過ごしくださいませ」
美しい所作で会釈を残し、ジュリアはその場を去ろうとする。
彼女の言葉には、自分を繋ぎ止めようとする熱も、怒りさえも含まれていない。ただその淡々とした態度だけが、ロマリオの胸を冷たく刺した。
(え……? 今、僕の誘いを、断ったのか……?)
ロマリオは、頭を殴られたような衝撃を覚えた。彼女の言葉には、自分を繋ぎ止めるための熱も、あるいは怒りさえも含まれていない。ただ「関心がない」という事実だけが、冷たく突きつけられた。
その後も、何度も話しかけても、ジュリアは微笑みながら丁寧に応じるだけだった。
「おはよう、ジュリア」
「おはようございます、ロマリオ様」
「今日の授業が終わったら、たまには一緒に帰ろうか」
「申し訳ありません。本日は図書室へ参りますので」
その笑顔は昔と変わらないはずなのに、どこにも自分への温度がなかった。まるで社交辞令を交わすだけの相手を見るような視線だった。
ロマリオは、これまでの立場が逆転したかのように、ジュリアを見かけるたびに偶然を装って近づき、何度も話しかけた。
「ジュリア、今週のお茶会だけど――」
「申し訳ございません。ハーマン侯爵夫人と共にお茶会へと出席する予定がございますので」
「……。そう、じゃあ、晩餐は?」
「夜は、難しゅうございます」
返ってくるのは、非の打ちどころのない礼儀正しさだけだった。
嫌味も、怒りも、拗ねた様子もない。ただ、他人へ向けるような距離だけが、そこにはあった。
ロマリオの自惚れていたプライドは無惨にも砕かれ、得体の知れない恐怖が、ゆっくりと彼の心を侵食していく。
(……嘘だろ、そんな冷めた目を僕に向けるなんて。君は僕のことが好きなはずなのにっ……!)
ロマリオは、ジュリアの親友であるマリアンヌの姿を回廊の端に見つけると、周囲に他の生徒がいないことを確認し、早足で彼女の元へ歩み寄った。高位貴族たる自分が人前で取り乱すわけにはいかないという理性だけが、かろうじて彼を突き動かしていた。
「マリアンヌ侯爵令嬢、少し時間をくれないか」
声をかけたのは小声だったが、その響きには切迫した色が隠しきれていない。ロマリオは周囲を牽制するように一瞥してから、縋るような視線をマリアンヌへ向けた。
「君なら知っているはずだ。ジュリアに何があったんだ? 彼女は……一体、どうしてあんな他人行儀な態度をとるんだ!」
マリアンヌは、ロマリオの無自覚な問いかけに冷ややかな溜息をついた。彼女は、ジュリアが北の辺境へ向かった理由、そして彼女が何を願ったのかを知っていた。
「……あなたが、彼女をそこまで追い詰めたからでしょう」
ロマリオは目を見開いた。
その反応を見て、マリアンヌは静かに続けた。
「ジュリアは、本当に北の辺境へ向かったのよ。永久凍土の森には『北の魔女』が暮らし、感情を凍らせる『忘却の雫』があると伝えられているわ。彼女は、あなたのせいで抱えきれなくなった絶望を、その雫で凍らせてしまったのよ」
『感情を凍らせる』『忘却の雫』――その言葉が、ロマリオの胸を激しく揺さぶった。
自分を深く愛しているはずのジュリアが、自分への想いを凍りつかせるはずがない。そんなはずはない、とロマリオは首を振った。
(そんなものが本当にあるはずがない。僕が態度を改めれば、ジュリアはきっと……きっと、また僕を愛してくれる)
衝撃を受けながらも、ロマリオはまだ「自分が微笑めば、ジュリアは再び笑ってくれる」という、傲慢な自信を捨てることはできなかった。それが、自ら地獄への扉を開いた瞬間だとも知らずに。
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