氷の人形令嬢の帰還
ジュリアがシシリー伯爵邸の門前に辿り着いたのは、姿を消してから二週間後のことだった。
北の辺境にある永久凍土の森。命を落としていても不思議ではない場所から戻ったというのに、彼女の姿には不思議なほど旅の疲れが見えなかった。
「旦那様! お嬢様が……ジュリアお嬢様が、お戻りになりました!」
家令の叫びが屋敷に響き渡る。その瞬間、死に瀕したかのように沈黙していた屋敷は、爆発するような騒ぎに包まれた。廊下を走る足音、安堵の涙をこぼす使用人たちの声。そこには、この二週間の焦燥と恐怖を裏打ちするほどの、狂おしいほどの人間味に溢れた熱があった。
しかし、そんな喧騒の只中に立つジュリアの心には、さざ波一つ立たなかった。ただ、周囲の動向に合わせて足を進め、求められるであろう「反省と微笑み」の表情を浮かべる。彼女の瞳はかつての柔らかな光を失い、まるで磨き上げられた硝子玉のように、ただ静かに現実を映し出していた。
至急、マリアンヌ侯爵令嬢へ使いを走らせ、ジュリアの帰還が伝えられた。
急いでシシリー伯爵邸へと駆けつけたマリアンヌは、応接室へと案内される。ほどなくして現れたジュリアの姿に、マリアンヌは思わず息を呑んだ。
一見して、少し痩せたような印象は受けるが、大きな怪我は見当たらない。けれど、何かが決定的に違っていた。いつもなら親愛を込めて向けられるはずの柔らかな笑みがなく、その瞳は酷く冷たかった。
「ジュリア! 良かったわ! 無事に帰ってきてくれて。ご家族の皆様も、どんなに心配したことか! もう二度とこんな真似はやめてね。毎日、本当に心配したのよ」
恐る恐る歩み寄り、抱きしめようとしたマリアンヌの腕を、ジュリアはまるで自然な動作でスッと躱した。そして、おざなりな笑みを張り付けたまま、淡々とした声を紡ぐ。
「ごめんなさい、マリアンヌ。でも、もう大丈夫よ。二度といなくなったりしないわ。安心してちょうだい」
「……えっ、ええ。本当に、約束してね」
「ええ。大丈夫よ」
ジュリアは、微笑んでいた。それは完璧な令嬢の微笑みだ。
淑女のお手本のようなその微笑みは、口角が上がり、目元が細められている。けれど、そこには「親友を想う温かみ」が一切存在しない。まるで、精巧に作られた人形が、誰かの指示通りに動いているかのような違和感があった。マリアンヌの背筋には、冷たいものが駆け抜けた。
◇
結局、二週間の『体調不良での欠席』を経て、ジュリアは学園への通学を再開した。
周囲には、今回の欠席は「たちの悪い流感」によるものだと説明されている。お見舞いに行こうとした友人たちの申し出も、『万が一、風邪がうつっては一大事だから』と、シシリー伯爵家側によってすべて丁重に断られていた。
二週間の旅を経て少し痩せたジュリアの姿は、周囲の目には、二週間も病床に臥していた結果だと自然に受け入れられた。
「ご心配をおかけして、ごめんなさいね」
そう言って微笑むジュリアに、クラスメイトたちは『病み上がりだから、少し雰囲気が変わったのかしら』と首を傾げる程度で、深く追及する者はいない。
だが、ジュリアの一番近くにいるマリアンヌだけは、背筋が粟立つような違和感を拭えずにいた。視線を向けるたび、ジュリアの表情はまるで「微笑みの仮面」のように、人間味の欠片もない完璧な人形のように整えられているからだ。
昼休みの高位貴族用のテラスで、マリアンヌは意を決したように切り出した。
「ねえ、ジュリア。……あなたのあの馬鹿な婚約者、ロマリオ様からは、何か連絡はあったの?」
かつてならば、その名前を出すだけでジュリアの頬は紅潮するか、あるいは悲しげに翳ったはずだ。
マリアンヌは身構えた。だが、返ってきた答えは予想を大きく裏切るものだった。
「ロマリオ様? いいえ、特に何も」
ジュリアは、まるで天気の話をするかのような平坦な声で答えた。彼女の瞳は空を向き、そこにはかつてのような執着も、怒りも、未練すらも存在しない。
「……そういえば、私には婚約者がいらしたわね。すっかり忘れていたわ」
ジュリアは、何でもないことのように微笑んだ。
かつてのジュリアが、ロマリオへの執着でどれほど心を砕いていたかを知るマリアンヌにとって、あれほど一途だった彼女の記憶が根こそぎ消え去ったかのようなその態度は、何よりも恐ろしい響きを持って耳に届いた。
「ジュリア……。あなた、ロマリオ様を諦めたの?」
思わず口から零れ落ちた問いかけに、マリアンヌは自分の鼓動が速まるのを感じた。しかし、返ってきた言葉は、かつての友人からは想像もできないほど冷ややかなものだった。
「え? 『諦める』? どうして、そんなことを言うの?」
ジュリアは不思議そうに小首を傾げ、淡々と告げる。
「私とロマリオ様は両家の合意に基づく政略的な婚約よ。卒業後の婚姻は決定事項だわ。感情とは別の、家としての契約にすぎないもの。あの方が私のことをどう思っていようと、婚姻には何ら影響はないし、諦めるという選択肢の意味が理解できないわ」
その言葉はあまりに整然としていて、かつてのジュリアが抱いていた恋心や、すれ違いに心を痛めていた日々を、まるで最初から存在しなかったかのように全否定していた。
マリアンヌは言葉を失い、ただ目の前の『ジュリアの姿をした別人』を見つめ返すのが精一杯だった。
(これは、誰? 本当にあの優しかったジュリアなの……?)
目の前でランチを口に運ぶジュリアの所作は、淑女の教科書のように美しく、完璧だ。
しかし、その瞳には光が宿っていない。マリアンヌは、自分が知っているはずの親友が、得体の知れない人形にすり替わってしまったような恐怖に、じっとりと冷や汗をかいた。
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