永久凍土の森と、北の魔女
調べておいた通りの手順で、まだ夜明け前の街道を、ジュリアを乗せた一台の馬車だけが北の辺境へ向かって進んでいた。
婚約者であるロマリオには、あちらから問い合わせがあるまで知らせない。ロマリオから連絡が来ることなどない。そんな確信が、いつの間にかジュリアの中にはあった。だからこそ、彼に宛てて手紙は残さなかった。
一方で、親友のマリアンヌにだけは、短い手紙を残した。それは別れを告げるためだけのものではなかった。これまで支えてくれた友人への感謝と、そして自分が長い間追い求めてきた『忘却の雫』について記したものだった。
北の辺境に伝わる「北の魔女」の伝承。人の悲嘆を糧とし、願いを叶える代わりに、何かを奪う存在。その魔女が与えるという『忘却の雫』こそが、自分をこの苦しみから解放してくれる唯一の方法なのだと。
もし自分が戻らなかったとしても、マリアンヌだけには真実を知っていてほしかった。
けれど、ジュリアはそれ以上のことは書かなかった。引き止められる言葉を耳にすれば、きっと決意が揺らいでしまうと分かっていたから。
その頃、シシリー伯爵家では、ジュリアが屋敷から姿を消したことが発覚し、騒然となっていた。彼女が出て行ってから、まだそれほど時間は経っていなかった。
しかし、伯爵夫妻は混乱に流されることなく、すぐさま事態の収拾へと動いた。何より、ジュリアが追い詰められた末に姿を消したなどと知られれば、彼女自身がどれほど傷つけられるか分からない。夫妻は娘を守るためにも、事実を伏せる決断をした。
そのため、学園には「体調を崩したため、しばらく静養する」と届けを出し、使用人たちにも固く口止めを命じた。ジュリアが自らの意思で姿を消したという事実を、外へ漏らさないためである。
過酷な北の辺境への道のりを進むこと一週間。幾度も休息を挟みながら、ようやく辿り着いたのは、地図の端に記された「永久凍土の森」の入り口だった。
(寒い……。ここが、書物に記されていた『北の魔女』が棲まうという『永久凍土の森』なのね……。ついに、来てしまった)
吹き荒れる冷たい雪が、容赦なく馬車を揺らす。それでもジュリアは、目の前に広がる白銀の森を静かに見つめていた。
ここへ来るまでの間、何度も迷いが生まれた。本当にこの先へ進んでいいのか。すべてを捨てる覚悟が、自分にあるのか。
けれど、そのたびに脳裏に浮かぶのは、ロマリオの優しい笑顔と、その裏で何度も傷つけられた日々だった。
もう戻りたくない。あの苦しい嫉妬の日々には、戻りたくないのだ。
ここまで案内してくれた年老いた御者は、あたりを漂う異様な冷気に身を震わせ、心配そうに眉を寄せながら、荷物を抱えたジュリアを引き止めた。
「お嬢さん。あんたも『北の魔女』に会いに行くのかい? 時々、あんたのような若い旅人がやってくるが……見たところ、質素な身なりをしているが、貴族のお嬢さんだろう。この先の雪道は、お前さんのような華奢な体じゃそうとう骨が折れる。危険だから、やめておいた方がええ」
親切そうな老人の言葉には、純粋な気遣いが滲んでいた。ジュリアは冷たい風にさらされながらも、凛とした微笑みを浮かべる。
「ご心配いただきありがとうございます。でも……どうしても、お会いしてお願いしたいことがございますの。ですから、行かせてくださいませ」
自分を案じてくれる御者の優しさに、ジュリアの胸が温かくなる。
こんな自分を気遣ってくれる人がいることが、今はただありがたかった。
やがて、永久凍土の森の入り口で、馬車はゆっくりと停まった。
「馬車が入れるのはここまでだ。あとは自分の足で進むしかねえ……。それでも、本当に行くのかい?」
老御者の声には、隠しきれない心配が滲んでいた。
「はい。……ありがとうございました」
ジュリアは感謝を告げて、多めの代金を差し出す。
「どうか雪道にお気をつけてお帰りくださいませ」
馬車から降りたジュリアは、一度だけ振り返った。
そして、静かに微笑むと、雪を踏みしめながら一人、魔女の住まう永久凍土の森へと足を踏み入れていった。
吹き荒れる吹雪の中、深い雪に足を取られながら進むその小さな背中を、老御者はいつまでも心配げに見送っていた。
永久凍土の森は、あらゆる生命の音を吸い込む、雪と氷の墓標だった。
吹き荒れる吹雪がジュリアの視界を遮り、容赦なく体温を奪っていく。心許ない旅装束では到底防ぎきれない寒さが、指先から感覚を凍らせ、彼女を真っ白な雪原へと崩れ落とさせようとする。
(もし、ここで立ち止まれば、きっと死んでしまうわね)
何度も意識が遠のきかけた。ロマリオへの未練も、学園での屈辱も、雪の冷たさの中に溶けていく。それでもジュリアは、雪に足を取られながらも、ただ一心に北を目指した。自分を縛り付けていた恋心の鎖を、自らの手で焼き切るために。
数時間の死線を彷徨い、ジュリアはついに歩みを止めた。体温を奪われ、疲労の極みに達した彼女の体は、抵抗も空しく雪の上に崩れ落ちる。意識が途切れる直前、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。
(ああ、ここで最期を迎えるのね。……ロマリオ様、愛しておりました)
その名が、最後の吐息となって零れ落ちた瞬間だった。
吹き荒れていた吹雪の音が嘘のように途絶え、静寂が訪れる。恐る恐る瞼を上げると、そこには歪な形をした、氷に覆われた黒い館が建っていた。
重い体をようやく持ち上げ、ジュリアは扉の前に立った。凍傷になりかけ感覚を失った指先で鉄の輪を掴み、弱々しく扉板へ打ちつける。
ガン! ガン!
返事はない。気力を振り絞って再び扉を叩いたが、屋敷の中からは何の反応も返ってこなかった。試しに手をかけると、扉は音もなく開き、彼女を奥へと飲み込んだ。
そこは凍てつく外気とは対照的に、暖かな空気に満ちたエントランスだった。だが、漂う静寂は、どこか異質な空気を感じた。暖炉では妖しい青い炎が揺らめき、壁一面を埋め尽くす書棚には、無数の硝子瓶が整然と並べられていた。
「ここへ辿り着く者は、そう滅多にいないわ。……ねえ、その心には何が巣食っているの? 随分と深くて、ひどく歪な願い……。貴女、一体何に追い詰められて、ここまで来たのかしら」
暖炉の傍らに座っていた女は、ジュリアを見ても驚く様子はなかった。ただ退屈そうに口角を上げると、ゆっくりと立ち上がった。
長い白髪が揺れ、暖炉の青い炎の光を受けて淡く輝く。真紅の瞳を持つその女性は、若くも老いても見える、不思議な美しさを纏っていた。
――この方が、「北の魔女」なのだろうか。
「あなたが、『北の魔女』様ですか……?」
「ふふふ。ええ。そう呼ばれているわ、可愛らしいお嬢さん。それで? わざわざ死地に足を踏み入れてまで、私に何を求めているのかしら」
ジュリアは青ざめた顔で、凍てついた唇をかすかに震わせた。それでも、歯を食いしばるようにしてその震えを抑え込むと、魔女の真紅の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
瞳の奥に恐怖が渦巻いているのは隠せなかったが、その声には一切の迷いがなかった。
「……私は、忘れたいのです。愛し、尽くし、最後には踏みにじられた、この三年間のすべてを。どうか、『忘却の雫』をくださいませ」
北の魔女はふわりと浮かび上がり、ジュリアの目の前まで近寄る。その冷たい指先が、ジュリアの頬に触れた。
「いいわ。けれど、代償は大きいわよ。恋心を消すだけでは足りない。あなたの『感情』そのものを頂戴。悲しみだけではないわ。苦しみも、喜びも……誰かを愛しいと思うその温もりさえも。あなたが抱くすべての感情を、私に差し出しなさい」
魔女の言葉は、甘美な誘惑でありながら、同時に逃れられない呪いのようにジュリアの心へ響いた。
すべてを失うことは、人としての自分を捨てることと同義だった。だが、ジュリアは迷わなかった。
「……構いません。差し上げます!」
ジュリアの返答に、魔女は恍惚とした笑みを浮かべた。その右手の指先からジュリアの左胸へと光が流れ込む。
鮮やかな記憶の色が、少しずつ彼女の内側から抜け落ち、魔女の左掌へと集まっていく。
それは、忘れたいと願うほど強く刻まれた記憶。ロマリオへの愛しさと苦しみが絡み合った、心の奥深くに沈んでいた感情の残滓だった。
魔女の左掌には、直径二センチほどの青い結晶が浮かんでいた。
「あら……随分と純粋な想いね。ふふ、これは希少だわ」
魔女はその結晶を眺め、満足げに微笑む。
そのガラス細工のように美しい青い結晶を指で摘み口元へと運んだかと思うと、甘く、そしてどこか生々しい痛みの混じった熱を、魔女は愛おしそうに舌の上で転してから、ゴクリと飲み込んだ。
「ああ、美味しい。ご馳走様。これでしばらくは大人しくできるわ」
魔女はハンカチで口元を拭うと、今度は棚から小さな硝子瓶を取り出し、ジュリアの目の前へと差し出した。中には、澄んだ青色の『忘却の雫』が揺らめいている。
「さあ、お飲みなさい。これを飲むことで契約が成立し、貴女は願い通りに苦しみから解放されるわ。これまで、契約が破綻した者はいなかったわ。……まあ、あなたほど強い想いを抱えた人間は珍しいけれど」
ジュリアは、差し出された掌ほどの大きさの、美しい硝子瓶を受け取った。かじかんだ指先に、ひやりとした異様な冷たさが伝わる。迷いはなかった。彼女はそのまま一気に、その雫を喉へと流し込んだ。無味無臭の冷たい液体が喉を通り、胃の腑へと落ちていく。
凍えるような冷たさや、全身を刺す痛みは確かにそこにあった。だが、それらを「怖い」「辛い」と感じる心だけが、どこかへ消えてしまった。
ジュリアという人間を彩っていた感情だけが、音もなく剥がれ落ちていく。恐怖も、戸惑いも、胸を締め付けていた執着さえも、今はもうどこにもない。彼女はただ、真っ白な静寂の中に佇んでいた。
「さあ、お帰りなさい。あなたを苦しめていた世界へ。目を瞑りなさい、次に目を開けた時には、永久凍土の森の入り口に立っているわ」
魔女の指示の通りに目を瞑ると、足元がぐらつくほどの強い風が吹き抜けると、次の瞬間には、馬車を降りた永久凍土の森の入り口に立っていた。
ジュリアはゆっくりと目を開け、周囲を見渡した。一面の雪、雪を被った針葉樹。どれも馬車を降りた時と変わっていない。まるで何もなかったかのような雪景色に、彼女は少しだけ眉を寄せた。……なぜ眉を寄せたのか、自分でも理由はわからなかった。
その時、木から積もった雪が落ちる音が響き、木の陰から一台の馬車が現れた。
御者はすぐには帰ることができなかった。あんな酷い吹雪の中へ一人で消えていった少女が、無事に戻ってくるかどうか、ずっと気がかりで仕方がなかったのだ。
「良かった! 無事だったんだね! もしかしたら戻ってくるんじゃないかと思って待っとったんだ。本当に良かったよ!」
年老いた御者が涙を浮かべて喜んでいる。以前のジュリアならば、この厚意に心を揺らし、涙を流して感謝を伝えたことだろう。
だが、今の彼女には、胸の奥で何かが震えるような感覚は一切なかった。ただ、社交辞令として求められるであろう「適切な返答」を口にするだけだった。
「ありがとうございます。ご心配をおかけしました」
礼儀正しく微笑むその瞳には、かつて宿っていたはずの熱も、あるいは苦悩の色も、もう何も映っていなかった。
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