旅立ちの準備
学園生活も三年目を迎え、ジュリアの心はすでに限界に達していた。
入学式の日、ロマリオから告げられたあの提案は、二年という歳月の中で、少しずつ形を変えていった。
一年生の終わり頃には、ロマリオが他の令嬢との時間を優先することも、ジュリアにとっては珍しいことではなくなっていた。「君は理想の婚約者だよ」と笑う彼は、悪びれることなく別の令嬢との約束へ向かう。ジュリアは唇を噛み締め、何も言えないまま一人、図書室で勉学に励んだ。
二年生の半ば。ロマリオは、別の令嬢から贈られた刺繍入りのハンカチを見せ、「君の方が刺繍は上手だね」と、いつもの優しい笑顔で囁いた。その無邪気な言葉が、ジュリアの胸を深く傷つけた。
(どうして……? どうして、そんな優しい顔で、こんなに残酷なことを言えるの……? そんなハンカチなんて見たくない。捨てて……。お願いだから、私があなたのために心を込めて縫ったハンカチだけを使って……)
胸の奥で小さく悲鳴を上げながらも、ジュリアは何も言えなかった。ただ微笑みを浮かべたまま、「そうですか」と頷くことしかできなかった。
その夜、ジュリアは鏡の前に立ち、崩れた表情を整えるように、何度も笑顔を作った。何度涙を流したのか、もう数えることもできない。それでも翌朝には、何事もなかったように彼の前で微笑まなければならなかった。
ジュリアの胸に深い傷を残す出来事は、一度や二度では終わらなかった。
学園での噂、ダンスパーティーでの不在、彼が他の令嬢に向けるあからさまな熱視線。それら全てを、ジュリアは「婚約者としての務め」という冷たい鎧で受け止めてきた。
泣いた夜の数だけ、ジュリアの瞳から輝きが消えていった。
ジュリアは、ただひたすらにロマリオを愛していた。入学式のあの冷酷な提案を聞かされてなお、彼の手を振り払うことができなかったのは、心の奥底で彼がいつか以前のような「優しいロマリオ」に戻ってくれると信じているからに他ならない。
彼に捨てられることを恐れているのではない。――これほど傷つけられてもなお、彼の笑顔ひとつで心が熱をもち、胸が高鳴ってしまう、そんな自分自身が情けなくてたまらないのだ。
彼のために積み上げてきた努力も、次期侯爵夫人としての教養も、すべては彼に「愛されたい」という一心によるもの。だからこそ、彼が自分を蔑ろにするたびに、ジュリアは「自分がもっと完璧であれば、彼は戻ってくるはずだ」と、自分の心に嘘をつき続けなければならなかった。
どれほど彼を求めても、彼は遠ざかる。
どれほど尽くしても、彼は自分を見てはくれない。
……それでも、心は彼を愛することをやめられない。その矛盾こそが、ジュリアの心をもっとも深く、容赦なく削り取っていた。
あのカフェで耳にした『忘却の雫』という言葉が、ジュリアの胸に残り続けていた。そして、苦しみに耐える日々の中で、いつしかその噂を確かめずにはいられなくなっていた。
それからの日々、放課後は学園の図書室で勉学に励んだ。
休日も、本来なら侯爵邸での教育やロマリオとのお茶会があるはずだった。しかし、ロマリオは「用事ができた」「友人との約束がある」と理由をつけて姿を見せなくなる日が増え、いつしか二人のお茶会は自然消滅していた。
空いた時間、ジュリアは一人で王宮図書館へ足を運ぶようになった。そして、いつしか禁忌とされる『北の魔女』の伝承を追い求めるようになっていた。
最初は、ただの噂話だと思っていた。けれど、苦しみに耐える日々の中で、いつしかその噂に縋らずにはいられなくなっていた。
数多の古書を読み漁る中で、ジュリアはある一節を何度も読み返した。
『北の果て、永久凍土の森に住まう魔女は、人間の悲嘆を糧とする。願いを叶えた者は、気付けば森の外へ送り返されている』。
その不吉な伝承は、本来なら恐れるべきものだった。けれど今のジュリアにとって、その言葉は救いにも似た響きを持っていた。
「忘却の雫」に繋がる確かな手がかりは、未だ見つからない。
それでも、この苦しみから解放される方法があるのなら――その代償がどれほど大きなものであろうと、もう構わなかった。
三年生に進級して間もなく、ジュリアの弟ヘンリーとロマリオの弟フレデリックが新入生として入学してきた。二人は兄姉の不穏な関係をいち早く察知していた。
「姉上、またあの男が別の女と……」
「兄上、ジュリア嬢を蔑ろにしすぎです。侯爵家としても、これ以上看過できません」
二人の弟から報告されるロマリオの醜聞――複数の女性を侍らせ、ジュリアとの婚約など存在しないかのように振る舞う姿。そのたびにジュリアは穏やかに微笑み、弟たちを宥めてきた。だが、その心には確実に亀裂が広がっていた。
婚約当初、両家の結びつきは、シシリー伯爵家の葡萄事業をさらに発展させるためのものだった。しかし婚約後、幾年にもわたる不作によって葡萄事業は次第に苦境へ追い込まれ、領地経営は悪化していった。
それでも、学園でのロマリオの不誠実な振る舞いを知った両親は、娘を犠牲にしてまで家を守ることはできないと覚悟を決めた。何度もハーマン侯爵家との協議を重ねた末、ついに婚約解消を申し出る決意を固めた。
当初はロマリオを理想の婚約者だと信じていた両親も、積み重なった噂と現実を前に、ついに考えを改めていた。
「あのような不誠実な男と添い遂げる必要はない。ジュリア、お前を地獄へやるような真似はさせない!」
しかし、ジュリアはそのたびに、『私はロマリオ様を慕っております。きっと彼は分かってくださるはずです。私がもっと努力すれば、きっと……』と微笑みながら首を横に振り、婚約解消を固辞し続けた。
あまりにも健気な娘の姿に、両親はそれ以上強く言うことができず、苦悩を抱えたまま事態を見守るしかなかった。
ハーマン侯爵家でも問題は深刻だった。
ジュリアの弟ヘンリーと、ロマリオの弟フレデリックが同時に入学したことで、ロマリオの振る舞いは、すぐに侯爵夫妻の耳にも届いた。弟フレデリックは、何度も兄ロマリオに対して苦言を繰り返した。
「兄上、ジュリア嬢を蔑ろにしすぎです! これ以上は見過ごせません! ジュリア嬢ほど兄上を想ってくださる方はいないのですよ!」
「……お前に関係ないだろう」
「いいえ。あんな素晴らしい令嬢は他にいない。もし今、ジュリア嬢を失えば、兄上は必ず後悔することになりますよ!」
弟の警告も、両親からの叱責も、ロマリオの胸には深く届かなかった。
彼は自分がどれほど愚かなことをしているのか理解しないまま、「卒業すれば、すべて以前のように戻る」と信じていた。
(卒業すれば、僕はジュリアと結婚する。それは最初から決まっていることだ。ならば、今くらい自由に学園生活を楽しんでも構わないじゃないか)
彼にとって、婚約も未来の結婚も揺るぎないものだった。だからこそ、今この瞬間、目の前の少女が少しずつ心をすり減らしていることに気づくことができなかった。
◇
ジャクソン侯爵家が主催する夜会まで、あと数時間。ロマリオの親しい友人であるマイケルの実家が開く夜会ということもあり、ジュリアは念入りに身支度を整えていた。
薄い桜色のシルクが、まるで今の彼女の心のように儚く揺れる。三年生になった今、ロマリオの隣に立つ資格を失わないために、誰よりも立派な婚約者でいようとしていた。
コン、コン、と控えめなノックの音が響く。
ジュリアが自室でドレスの最終確認をしていると、控えめなノックと共に、メイドのエルザが扉越しに声をかけてきた。
「お嬢様、ハーマン侯爵家より使いの侍従が見えております。ロマリオ様より伝言があるそうで、一階の応接室でお待ちです」
ジュリアは淡い期待を胸に、急いで部屋を出た。一階の応接室に入ると、そこには見慣れたハーマン侯爵家の侍従トーマスが控えていた。
期待に満ちていた表情は、次第に不安へと変わっていった。
「ロマリオ様は、どうかなさったの?」
我が家へ迎えに来る手はずになっていたはずなのに、なぜわざわざ伝言を寄越したのか。ジュリアの問いかけに、トーマスは言葉を選ぶように視線を伏せた。その表情には、隠しきれない困惑が滲んでいる。
「……いえ。実は、ロマリオ様に急なご予定が入りまして……。誠に申し上げにくいのですが、本日は別の令嬢をエスコートなさることになりました。つきましては、ジュリア様にはお一人で会場へ向かっていただきたいとのことです」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。心臓がトクリと大きく脈打ち、次の瞬間には、冷水を浴びせられたように全身の感覚が麻痺していく。
「……別の、令嬢?」
「はい。男爵家のメリッサ様を迎えに行かなければならないので、本日のお迎えは難しいと……」
その瞬間、すべてが繋がった。
ジュリアは驚きもしなかった。ただ、今まで胸の奥でかろうじて繋ぎ止めていた細い糸が、ぷつりと切れる音を聞いた。
怒りではない。悲しみでもない。ただ、呆れるほどに静かな虚無感が、彼女の心を白く塗り潰していく。
「……そうですか。承知いたしました」
ジュリアはそれだけを告げ、侍従の顔すら見ずに背を向けた。もはや、相手が誰であろうと、丁寧な労いの言葉をかける気力すら残っていなかった。
応接室を足早に出ると、ジュリアはふう、と深く息を吐き出す。
喉が引きつることもない。涙も出ない。ただ、自分の中で何かが決定的に終わったことだけがわかった。
彼女は自室へと戻ると、ゆっくりと鏡台の前に歩み寄り、そこに映る「貞淑そうに見える令嬢」を見つめた。
もう、この仮面を被り続ける必要はない。
「……ごめんなさい、お父様、お母様」
独り言が、静かな部屋に溶ける。
彼女は、かねてからクローゼットの奥に隠していた旅支度を取り出した。
(まさか、本当に使う日が来るなんてね)
初めは、ただ『忘却の雫』という存在を知るために、古い文献を調べていただけだった。まさか、自分がこの場所を去る日が来るなど、考えたこともなかった。
けれど、ロマリオに傷つけられる日々を重ねるうちに、いつしか彼女は「もしもの時」のための準備を始めていた。誰にも気づかれないよう、必要なものを少しずつ、少しずつ集めていたのだ。
最初は、ただの備えだった。いつか心が壊れてしまった時、自分自身を守るための小さな逃げ道。それがまさか、本当にこの屋敷を去るための旅支度になるとは――その時のジュリアには、想像もできなかった。
彼女はドレスを脱ぎ、厚手の旅装へ着替えた。
動きやすい長袖のワンピースに、丈夫な革のブーツ。その上から普段使いの長い外套を羽織れば、外見だけではいつもの外出姿と変わらない。
小さな手提げ鞄には、旅に必要な最低限の荷物だけを詰めていた。遠目には、夜の外出をする令嬢にしか見えない。
伯爵家の御者には、「ロマリオ様のお迎えがなくなりましたので、今夜の夜会は欠席いたします。以前から約束していた知人との食事へ予定を変更しました」と告げ、貴族街のレストランまで送らせた。
「遅くなると思いますので、あなたは先に屋敷へ戻ってください」
「ですが、お嬢様。お帰りの際の馬車は……」
「心配はいりません。店の者に手配を頼みますから」
御者は不安そうな顔をしたが、ジュリアの言葉を拒むことはできず、やがて頭を下げた。
馬車が夜の街へ消えたのを確認すると、ジュリアは裏口から店を抜け、人目を避けながら乗合馬車乗り場へ向かった。
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