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【完結】『恋心を凍らせる薬を飲みました』。婚約者様、残りの学園生活、どうぞご自由にお遊びください。  作者: 恋せよ恋


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心惹かれる魔女の噂

 放課後。図書室を出たジュリアとマリアンヌは、気分転換に貴族街のカフェへ立ち寄った。西に傾き始めた陽射しが窓から差し込み、店内を琥珀色に染めている。


 店内には焼きたてのスコーンの甘い香りと、選び抜かれた茶葉が蒸らされる芳醇な香りが漂っている。客層は落ち着いた雰囲気の貴族が多く、柔らかなピアノの旋律が流れ、隣席の会話さえも包み込むような静かな空間だった。


 ジュリアとマリアンヌが案内されたのは、店の奥まった場所にある席だった。隣席との間には凝った装飾の木製衝立が立てられており、向こう側に誰が座っているのか、その表情や素性までは窺い知ることができない。ただ、時折こぼれる笑い声や、椅子を引く微かな音が、そこに「誰か」がいるという気配を伝えてくるだけだった。



「ジュリア、少しは顔色が良くなったわね。無理は禁物よ」


 マリアンヌが心配そうに紅茶を勧める。ジュリアは静かに微笑んでカップに口をつけた。


 その時だった。店内に流れるピアノの音の隙間を縫うようにして、衝立の向こうからひそひそと囁き合う女性たちの会話が、不意にジュリアの耳に飛び込んできた。



「ねえ、聞いた? 『北の魔女』の話」


 その言葉を聞いた瞬間、ジュリアの鼓動がわずかに乱れた。


「ええ、聞いたわ。なんでも、どうしても消せない苦しみを魔法の薬で消し去ってくれるんですって。……『忘却の雫』っていうらしいわよ」


(忘却の雫……)


 ジュリアの指先が、カップの縁で小さく震えた。

 胸の奥で渦巻く嫉妬と苦しみ。ロマリオの無邪気な残酷さを前にしても、婚約者として微笑んで受け入れなければならないという重圧。その全てを消し去ってくれるなら、たとえそれがどんな魔術であろうと――そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。



 ふと衝立の先に視線を向けると、姿こそ見えなかったが、潜められた女性たちの声はさらに続いた。


「私の友人がね、夫の心変わりに苦しんで毎日泣いていたの。でも、その薬を飲んでからは驚くほど変わったわ。夫への情も、裏切られた恨みも、全部すっと消えてしまったんですって」


 ジュリアは息を呑んだ。


(全部、消えるの?)


「あら、そんなお伽話みたいな話、本気にするの?」


 話を聞いていたマリアンヌが鼻で笑い、カップをソーサーに戻した。


「そんな薬があったら、世の中の貴族なんて全員、悩みを忘れて笑って過ごしているわよ。魔女の噂なんて、社交界の退屈しのぎに過ぎないわ。ねえ、ジュリア?」


 マリアンヌの真っ直ぐな視線が突き刺さる。ジュリアは慌てて仮面の微笑みを貼り付けた。


「……えっ、そうね、その通りだわ」


 マリアンヌは満足げに頷き、話題を変えた。ジュリアは心ここにあらずで、紅茶のカップを見つめていた。頭の中では「忘却の雫」という甘美な言葉が、何度も繰り返し響いていた。


◇ 


 その夜。シシリー伯爵家の食卓は、父の無邪気な期待に支配されていた。燭台の明かりの下、父は貴重になった自領産の熟成赤ワインを満足そうに口にする。


「ジュリア、学園生活には慣れたかい? ロマリオ侯爵令息とは順調かい?」


 父の隣で、母も優しい眼差しを向けてくる。


「ええ。淑女科と領地経営科で授業は別ですが、廊下や休憩時間にはお姿を拝見することもあります」


 嘘ではない。廊下ですれ違うことはある。だが、彼が他の令嬢たちに囲まれて楽しげに笑い、自分を一瞥もしないだけだ。



「学園では、昼食くらいはご一緒できているのだろう? ロマリオ様との絆を深める絶好の機会だからね」


 父の問いに、ジュリアは喉の奥が引きつるのを感じた。


「……ええ、そうですね」


 娘の返事に頷くと、父は赤ワインをもう一口嗜んだ。


「ハーマン侯爵家との縁は、我が家にとって何より大切なものだ。ロマリオ様ほど素晴らしい方と結ばれるお前を、父は誇りに思っているよ」


 ジュリアはただ静かに微笑むしかなかった。


 本当のことを言えば、入学してからこの方、二人きりで昼食を共にしたことは一度もなかった。ロマリオ様はいつも「他の令嬢との約束があるから」と穏やかに笑い、まるでそれが当然のことのように、ジュリアとの時間を後回しにしていた。

 けれど、そんな残酷な現実を口にすることは、両親の抱く希望を自らの手で粉々に砕く宣告に等しかった。


 ジュリアは完璧な令嬢としての微笑みを浮かべた。その表情の裏で、彼女は「忘却の雫」の噂を思い出していた。



 淑女科の授業で磨いた淑やかな微笑み。領地経営科で学ぶ彼と、いつか肩を並べるために積み上げてきた研鑽。それら全てが、今の自分を縛り付けている。


(あの雫さえあれば、この惨めな嘘をつく苦しみからも解放されるのかしら。忘れたい。……でも、忘れてしまえば、私は私ではなくなるかもしれない)


 ジュリアは皿の上の料理を小さく切り分け、口に運んだ。味などしなかった。冷え切った心には、どんな食事も砂を噛むようなものだった。


 父の期待に満ちた眼差しを真っ直ぐに見つめながら、ジュリアは胸の奥に芽生えてしまった『忘れたい』という願いを、誰にも知られないよう静かに隠した。


 『忘却の雫』


(もし、本当にそんなものがあるのなら……)


 そんな考えが、初めてジュリアの心に根を下ろした。


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