不実なる日々
学園の入学から一ヶ月が過ぎようとしていた。
麗らかな春の陽気とは裏腹に、ジュリアの胸の内は、すっかり冷え切っていた。
入学式の日、中庭での約束――「在学中の三年間だけ、お互い自由に恋をしないか」という、ロマリオのあまりにも残酷で、あまりにも無邪気な提案。あれ以来、ジュリアの日常は一変した。
いや、正確には「変えさせられた」のだ。
ロマリオは周囲に、婚約者であるジュリアも学園生活を楽しむことを望んでいる、と穏やかな笑顔で語っていた。
その言葉が、ジュリアを深く傷つける結果になることにも気づかずに。
「見てられないわ、ジュリア! あんな男、あなたに相応しくないわよ!」
放課後の静かな図書室で、親友のマリアンヌが突然、眉を吊り上げた。彼女は窓際へ足早に向かうと、階下の中庭を見下ろし、窓枠をバンと叩いた。
「本当に、腹が立つわ!」
彼女の鋭い視線の先、中庭のベンチには、金髪を陽光に輝かせながら談笑するロマリオの姿があった。数名の令嬢たちに囲まれ、彼がその中の一人に甘い微笑みを向けるたび、周囲は花が咲いたように華やいでいく。
彼が甘く微笑むたび、女子生徒たちは頬を染め、楽しそうに笑い合う。その光景は、ジュリアの胸に嫉妬と焦りを静かに積み重ねていった。
「マリアンヌ、そんなに大きな声を出さないで。……彼は学園生活を楽しんでいるだけよ」
ジュリアは弱々しい声で呟いた。言葉とは裏腹に、指先まで震えるほど動揺していた。
――わかっているわ。彼が楽しんでいるのは、学生らしい交流なんかではない。私以外の誰かに心を向けることなのだと。
けれど、彼を手放すという選択を、ジュリアはどうしても受け入れられなかった。イザベル夫人の期待、両家の政略的連携、そして何より……どんなに酷いことをされても、彼の美しい瞳を向けられると、胸の奥が熱を帯びてしまう自分自身への怒り。
「……彼には、学園生活でしか得られない経験が必要なのよ。私は、彼が将来ハーマン侯爵家を継ぐための、一番の理解者でいたいから」
そう口にするたび、自分の心に嘘を積み重ねていく。それが、ロマリオに愛されるための唯一の道だと、そう自分自身に信じ込ませていた。
ジュリアは努めて平然と、手元の教科書に視線を落とした。マリアンヌに震える指先を見咎められないよう、そっと手を机の下へ下ろし、スカートの上で硬く握りしめた。
「楽しんでいるだけだなんて、限度があるでしょう! 婚約者がいながら、あまりにも無遠慮に他の令嬢たちと親しくするなんて。しかも彼の周りの女性たちは、あなたが彼の婚約者だってことも知っているはずよ!」
マリアンヌの言葉は正論であり、ジュリアの心に鋭く突き刺さる。
なぜ婚約破棄を申し出ないのか。なぜ両親に相談しないのか。
そんな問いが聞こえてきそうだった。ジュリアも一度は考えた。しかし、喉元まで出かかった言葉を呑み込む。
婚約当初、両家の結びつきは葡萄事業の更なる発展を目的としたものだった。しかし、その後シシリー伯爵家は相次ぐ不作に見舞われ、状況は一変した。
ハーマン侯爵家との婚約は、いわば我が家の生命線だ。ジュリアが「婚約者失格」という烙印を押されれば、両家の提携は白紙に戻り、父と母が積み上げてきたすべてが灰になる。
そして何より、ロマリオの母であるイザベル夫人の存在が重くのしかかる。厳格で完璧を求める夫人は、ジュリアの努力を誰よりも評価してくれていた。その期待を裏切ることは、ジュリアにとって何よりも恐ろしいことだった。
「……婚約は、家同士の契約なの。それに、彼が言ったのよ。これはあくまで、在学中だけのお遊びだからって」
「お遊び!? あなたを泣かせておいて、それがお遊びですって?」
マリアンヌは呆れたように溜息をついた。
「……あなたは本当に、健気すぎるわ。そんなにあの男が好きなの?」
問いかけられ、ジュリアは言葉を詰まらせた。答えようとしても、声にならない。
そこには、先ほどまでと変わらず、令嬢たちに囲まれて笑うロマリオの姿があった。
彼を目にしただけで、胸の奥が甘く痛んだ。彼が笑えば、それだけで世界が明るく見えた。彼が誰かと楽しそうに話すだけで、胸が締めつけられるほど苦しくなる。ただ「好き」という言葉では、この想いは表せない。ロマリオはジュリアにとって、ただ恋する相手ではなかった。彼との未来こそが、これまで努力を重ねてきた理由そのものだった。
◇
翌日の昼休み。ジュリアは勇気を出して、食堂で他の女子生徒たちと談笑していたロマリオの元へと向かった。
(やめて! 他の女性を見つめないで。笑いかけないで。私をひとりにしないで!)
近づくごとに心臓が早鐘を打ち、緊張で息苦しく感じる。それでも、次期侯爵夫人としての矜持と『彼の婚約者は私』という切実な思いが、ジュリアの背中を押し続けた。
「ロマリオ様」
呼びかけると、ロマリオはいつもと変わらぬ、日だまりのような微笑を向けた。
「やあ、ジュリア。どうしたんだい?」
女子生徒たちの視線が、一斉にジュリアへ集まる。好奇心、嫉妬、そして値踏み──さまざまな感情が入り混じったその眼差しに、胸が締めつけられた。
それでもジュリアは、微笑みを絶やさなかった。
「もしお時間が空いていれば、今日はご一緒にランチを……」
淡い期待。もしかしたら、彼は「もちろん」と笑ってくれるかもしれない。そう願ったのも束の間。
「ごめんね、ジュリア。今日は他の子に誘われていてね」
ロマリオは困ったように眉を下げた。そこに悪意など微塵もなかった。ただ、本当に何がジュリアを傷つけているのか分かっていないのだ。
喉の奥がキュッと引きつり、目の奥が熱を帯びる。
今にも零れそうな感情を、ジュリアは奥歯を強く噛み締めて押し込めた。ここで取り乱せば、これまで必死に積み上げてきた「理想の婚約者」の仮面が崩れてしまう。
(だめ……ここで涙を見せたら、彼を困らせてしまう)
彼女はスカートを握る手に力を込めた。指先に爪が食い込み、鋭い痛みが走る。その痛みだけを頼りに、胸の奥で暴れ出しそうな感情を必死に抑えつけた。
「君も僕にばかり構っていないで、もっと色々な子と交流すべきだよ。それが学生生活というものだろ? いろんな経験をして広い視野を持たなきゃ。……分かってくれるね?」
『分かってくれるね』と同意を求めるその言葉は、ジュリアが必死に守っていた何かを、静かに傷つけた。
ジュリアの表情がわずかに曇ったことに、ロマリオは気づいた。
「……君がそんな顔をする理由が、僕には分からないよ」
責めるでもなく、その整った顔で、困ったように首を傾げる。
その無邪気な仕草が、かえってジュリアの胸を締めつけた。
ロマリオは、ジュリアを特別な存在だと言う。未来の妻となる婚約者として、優しい笑顔で何度も言葉をかけてくれる。
けれど、その優しさは本当に、ジュリアの悲しみや痛みまで見てくれているものなのだろうか。
彼にとってジュリアは、いつでも笑顔で、どんな言葉も受け止めてくれる存在なのかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
「……ええ。仰る通りですね」
ジュリアは精一杯の微笑みを浮かべた。
涙など一滴も流さない。彼の前では、いつだって完璧でいなければならない。
「うん、分かってくれて嬉しいよ。やっぱり君は、僕の自慢の婚約者だ」
ジュリアは彼から離れるように身を翻した。しかし、歩き出してすぐに足を止める。未練を断ち切れず、もう一度だけ彼を振り返った。
陽光に照らされたロマリオたちは、楽しげに笑い合っている。その光景はどこまでも眩しい。けれど、その輪の中に、今のジュリアの居場所はなかった。
涼しい風が吹き抜け、胸の奥で大切に守ってきた想いが、ふっと揺らいだ。
(大丈夫……そう、大丈夫。私は婚約者なのだから。彼女たちがロマリオ様の隣にいられるのは、この学園にいる三年間だけ。私とは違う……私は、ずっと彼の隣にいるのだから)
どれほど悲しくても、どんなに惨めな思いをしても、美しい微笑みを浮かべ、磨き抜かれた知性と淑やかな振る舞いで彼を支え続けなければならない。
シシリー伯爵家の長女。そして、未来のハーマン侯爵夫人となる自分には、果たさなければならない役目があるのだから。
ジュリアは背を向け、一人で食堂を後にした。
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