恋した婚約者の残酷な宣言
ハーマン侯爵家嫡男ロマリオに声をかけられるだけで、ジュリアの胸は幸福で満たされた。春の午後。庭園に吹く風が彼の金色の髪をさらりと揺らす。
「ジュリア、どうかした?」
青い瞳を細めて微笑む彼は、その声までもが優しく、まるで絵本の中から抜け出した王子様そのもの。
けれどジュリアの胸を高鳴らせたのは、その美しさだけではなかった。
彼に見つめられるたび、心の奥が甘く疼き、気づけば視線は彼を追い、名前を聞くだけで頬が熱くなった。
(ああ、ロマリオ様。なんて優しくて素敵な方なのかしら。こんな方と婚約できた私は本当に幸せ者ね)
政略によって結ばれた婚約だった。けれどジュリアにとって、それはいつしか本物の恋へと変わっていた。
二年前、シシリー伯爵家とハーマン侯爵家の間で結ばれた婚約は、実家の葡萄栽培の販路拡大という家同士の政略によるものだった。
甘い囁きに頬を染める一方で、ジュリアは常に焦燥を抱えていた。どれほど努力しても、凡庸な茶色の髪と瞳は変わらない。ならばせめて、彼に相応しい『信頼される次期侯爵夫人』として、知識も教養も誰よりも優秀であり続けなければ――そう自分を追い込み、彼女は血の滲むような努力を重ねてきたのだ。
週末にはハーマン侯爵家を訪れ、ロマリオの母であるイザベル夫人の厳しい指導を受け、次期侯爵夫人としての作法を叩き込まれる日々。すべては、大好きなロマリオの隣に恥じない婚約者になるためだった。
政略によって始まった関係だった。けれど、婚約したばかりの頃、まだ幼さの残るジュリアをロマリオは気遣い、彼女の努力を認めてくれた。
その何気ない優しさが、いつしか彼女にとって何よりも大切なものになっていた。
どれほど心身が疲れても、週に一度のロマリオとの二人きりのお茶会があれば、すべては報われると思えた。
二年間、彼と重ねてきた何気ない時間こそが、ジュリアにとって何よりの支えだった。
その時間のためなら、どんな努力も苦にはならなかった。
――入学式のあの日を迎えるまでは。
◇
華やかな入学式の喧騒から少し離れた、静かな中庭でのことだった。
ロマリオは、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ、まるで『天気がいいね』とでも言うような気軽さで、ジュリアの人生を根底から覆す言葉を口にした。
「今日から僕たちは、この学園という新しい世界の住人だ。ねえ、ジュリア。新しい門出だし、これからの三年間の約束を、最初に済ませておこうと思ってね。僕たちは学園を卒業したら結婚するんだ。だから、在学中だけはお互い自由に恋をしてみないか?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。頭の中が真っ白になり、婚約者であるロマリオの口から出た言葉とは思えず、心臓が嫌な音を立てた。
何かの冗談だと言ってほしいのに、彼の青い瞳はどこまでも真剣だった。
「……えっ? いま、何とおっしゃいましたの?」
「だから、恋だよ。君も知っての通り、僕は昔から女性に好意を向けられることが多くてね。好意を向けられているのに、最初から『婚約者がいるから』と突き放してしまうのは、あまりにも失礼なんじゃないかと最近思うようになってね。この先ずっと君と共に歩むのだから、その前にもっと多くの人と関わり、色々な経験をしておきたいんだ」
(自由に恋をする? 婚約者がいるのに?)
ジュリアが何も言えずにいるのを、ロマリオは肯定と受け取ったのか、さらに言葉を続けた。
「友人たちにもよく言われるんだよ。『学園時代は今しかない』ってね。最初は気にも留めていなかったんだけど、考えてみれば一理あるのかもしれないと思ってね。学園生活なんて一度きりじゃないか。もちろん僕だけじゃない。君だって色々な人と交流したいだろう?」
(つまり、私では……駄目ということ?)
ロマリオは、ジュリアが納得できていないことに気づいたのか、まるで彼女を安心させるように理由を重ねた。
「だから今のうちに、色々な経験をしておきたいんだ。僕は君との結婚を望んでいる。でも、それと恋愛経験は別の話じゃないかな? もちろん、結婚するのはジュリアだよ。なんの心配もいらない。僕の大切なジュリアなら、この程度の提案、笑って許してくれるだろう?」
ロマリオの言葉は、どれも穏やかで、だからこそ、ジュリアには余計に残酷だった。
彼にとってジュリアは、どこか安心して甘えられる存在であると同時に、自分を退屈させないよう絶えず尽くすべき『信頼できる婚約者』でしかなかった。
「そんな……嫌です! 私はロマリオ様だけをお慕いしておりますのに……! 私は、そんなこと……絶対に嫌です!」
ジュリアの目から、こらえきれずに涙が溢れ出した。
どうしてそんな残酷なことが言えるのか。『大切だ』と言いながら、どうして他の誰かと恋愛することを婚約者である自分に強いるのか。
ジュリアはロマリオの上着の袖を握りしめて、「嫌だ!嫌です!」と、泣き縋った。
ロマリオは困ったように眉を下げ、甘えるような視線をジュリアに向ける。まるで、駄々をこねる子供をあやすような態度だった。
「心配しすぎだよ、ジュリア。何も変わらないさ。君は母上お気に入りの婚約者なんだから、将来のハーマン侯爵夫人として、もっとどんと構えていればいいんだ。これはただの、学園時代のお遊び、恋愛ごっこさ。小説みたいな青春を、一度くらい経験してみたいと思わないかい?」
ロマリオには、ジュリアを傷つけているという自覚はなかった。彼にとってその言葉は、涙を流す婚約者を安心させ、納得させるためのものだったのだ。
『母上のお気に入りの婚約者』――その言葉は、ジュリアの胸に小さな棘のように刺さった。
では、あなたは? あなた自身は、私では満足できないということですか? そう問いかけたかった。けれど、その言葉を口にすることはできなかった。
それは、本来なら喜ぶべき言葉だったはずだ。イザベル夫人に認められているという、何よりの証なのだから。けれどその瞬間、ジュリアにはまるで『ロマリオに選ばれた婚約者』ではなく、『母親に気に入られているだけの存在』だと言われたように感じられた。
「でも、世間の方々が、もし……!」
「内緒だよ」
ロマリオは、ジュリアの涙を拭うこともせず、ただ指先で顎をすくい上げた。
その指先は冷たく、そして強引だった。
流れる涙で潤むジュリアの瞳の中で、大好きなロマリオの美しい顔がキラキラと波打っていた。
「母上にも、君のご両親にも知られたら何かと面倒だからね。約束を守ってくれるよね。いつもの優しいジュリアなら、ね?」
念を押すように微笑むと、ゆっくり指を離した。
「ですが、学園には親しい方々も大勢いらっしゃいますわ。もし噂になれば……」
「大丈夫さ」
ロマリオは気楽に笑った。
「僕たちは婚約者なんだ。正式な結婚を控えている以上、最後の青春を楽しむくらい、誰も責めたりしないよ」
「ですが……」
「それに、皆そこまで他人に興味なんてないさ。それに、万が一噂になったとしても……立場的に困るのは僕より君の方だろう?」
ロマリオは言い終えてから、ようやく自分の言葉に気付いたように目を瞬かせた。
「……ああ、ごめん。変な言い方だったかな」
まるで自分の失言に気づいたかのように、彼は優しく微笑むと美しい青い瞳で、悲しみに耐えきれず涙に濡れた瞳を伏せるジュリアの顔を覗き込んだ。
『この方は、ずるい』。そう思っても、ロマリオに嫌われたくないジュリアには逆らえなかった。
この婚約は、ただの恋ではない。シシリー伯爵家とハーマン侯爵家の事業を結ぶ大切な約束でもあった。
もし婚約が破棄されれば、両家の連携は白紙になり、父や母が積み上げてきたものを、自分のわがままで壊してしまうかもしれない。この提案に逆らえば、ロマリオに愛想を尽かされるかもしれない。そして何より、次期侯爵夫人として自分を認め、期待を寄せてくれているイザベル夫人を失望させることが怖かった。
その幾重もの不安が、ジュリアから拒絶する勇気を奪っていた。
ロマリオには分からないのだろう。
自分の何気ない願いが、相手にどれほど重くのしかかるのかを。
彼はジュリアの言葉を待つことさえせず、満足そうに微笑むと、まるで何事もなかったかのように優雅な足取りで学舎へと背を向けた。
「ロマリオ様、お待ちください! ロマリオ様!」
呼び止める声は悲痛に掠れたが、彼の歩みが止まることはない。
取り残された中庭で、ジュリアはただ、自分の濡れた頬を拭うことさえできずに立ち尽くしていた。
遠くから聞こえる新入生たちの歓声。つい先ほどまで、自分もその輪の中にいたはずだった。婚約者と同じ学園に通い、三年後の幸せな結婚を夢見ていた。
けれど今、その賑わいはもう自分とは無関係な世界の音のように聞こえる。
ジュリアはただ立ち尽くすことしかできなかった。
彼女の胸で温かく灯っていたはずの恋心は、容赦のない提案にさらされ、あっけなく消え入りそうに揺れていた。
愛されていると信じていた日々が、少しずつ足元から失われていく。
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