解けた呪縛、蘇る棘
奇跡的に息を吹き返し、一命を取り留めたロマリオ。その生還を境に、ジュリアの凍りついていた『感情』は完全に氷解した。
冷たい人形のようだった面影は消え失せ、彼女の表情は驚くほど豊かになっていた。
美しい花を見つけると庭師に優しい声をかけ、食卓に好物が並べばシェフに心からの感謝を告げ、屋敷の侍女や侍従たちにも柔らかな笑顔を向ける。
心を凍らせる前の『ジュリア・シシリー伯爵令嬢』が、そこにいた。
「ねえ、最近の若奥様って、すごく変わられたわね」
「ええ、本当ね。以前は真面目で堅苦しくてちょっと怖い雰囲気だったけど、今はお優しい雰囲気よね」
「ご夫婦で過ごされる時間も増えたそうよ」
「本当に仲睦まじいご様子ね」
屋敷の使用人たちの間でそんな噂が囁かれるほど、邸内には明るく穏やかな空気が満ちていた。
かつての冷たさが消え、本来の素直で心優しい感情を取り戻したジュリアは、穏やかな毎日を楽しんでいた。
「君の『感情』と笑顔が戻ったことを、きっと伯爵夫妻も……君の両親や弟も、ずっと心配していたからね。近いうちに実家に顔を見せて、元気になった姿を見せてあげなさい」
その優しい気遣いに、ジュリアは胸を打たれ、嬉しそうに微笑んだ。
(ロマリオ様は、いつも私を一番に考えてくださる。……なのに)
夫の背中を見送りながら、ジュリアの胸の奥で、氷が溶け出すような不気味な感触が広がる。感情を取り戻してしまったからこそ、優しい夫の言葉の裏を、無意識に勘繰ってしまう自分がいた。
(本当に、私のため……? もしかして、私がいない間に、どこかのご夫人方と会う口実にしたいわけじゃないわよね……?)
そんな黒い疑念が頭をかすめた瞬間、ジュリアは呼吸ができなくなるほどの激しい動悸に襲われた。愛する夫に対して、こんな汚らわしい疑いを抱いてしまったことへの自己嫌悪。以前の凍てついた人形のままであれば、こんな苦しみを味わわずに済んだのに。
(やめて、そんなこと考えないで……! 今のロマリオ様はそんな方じゃないわ。なのに、どうして私は……!)
自分の醜い独占欲と、次々とあふれ出す負の感情に耐え切れず、ジュリアは両手で顔を覆い、ひとり震えるしかなかった。
そうして久しぶりに実家に帰省した際、両親は娘の生き生きとした笑顔を見て涙を流し、弟のヘンリーは「……まあ、あの義兄上が、まさに命をかけたってことか。だからって、昔のことが帳消しになるわけじゃないけどさ」と冷やかした。
また、かつては社交辞令の延長だった型通りの義理の両親や義弟とも、温かな家族の時間を重ねるようになった。
そして、何より大きかったのは親友マリアンヌの存在だった。
かつて纏っていた人形の仮面を脱ぎ捨て、表情を取り戻したジュリアは、自らの言葉でマリアンヌへ宛てた手紙を書いた。
『久しぶりに、お茶を一緒にいかが? あなたにどうしても話したいことがあるの』
手紙を受け取ったマリアンヌは、親友からの思いがけない誘いに胸を躍らせ、喜んでハーマン侯爵邸を訪ねてくれた。
侍女に案内された侯爵邸のサロンは、温かみのある壁紙に、淡い色合いの花々が飾られる居心地の良い――マリアンヌの知る『本当のジュリア』らしい柔らかい空気に満ちていた。案内されたソファに腰を下ろし、マリアンヌはふっと肩の力を抜く。
テーブルに置かれたティーカップから立ち上る湯気に目を細めると、いつの間にか緊張していた心がゆっくりと解きほぐされていくのを感じた。
しばらくして扉が開き、ジュリアが姿を見せた。その表情を見た瞬間、マリアンヌは息を呑んだ。
かつての、氷のように冷たくてどこか虚ろだった人形の面影は綺麗になくなり、ジュリアは心からの穏やかな笑みを浮かべていたからだ。
「……ジュリア?」
驚きに目を見張るマリアンヌの前に歩み寄り、ジュリアは柔らかく微笑んで彼女の両手をそっと包み込んだ。じんわりと温かい、生きた人間の熱が伝わってくる。
「マリアンヌ、驚かせてごめんなさいね。あなたにどうしても、自分の口で伝えたいことがあったの……」
その声のトーン、そして目の輝きに、マリアンヌはようやくすべてを悟った。自ら望んで凍りついていた親友の心が、やっと本当の意味で『戻った』のだということを。
「よかった……! 本当に、本当によかったわ、ジュリア!」
「ありがとう、マリアンヌ。私、なんだかやっと、本当の意味で生きている心地がするの」
「当たり前よ! これからはたくさんお洒落をして、美味しいものを食べて……幸せになってね」
瞳を潤ませて安堵の言葉を口にする親友の声に、ジュリアは嬉しそうに頷いた。
まばゆい太陽の光の下で、愛する家族や友人に囲まれ、花を愛でる。それはまさに、ジュリアがずっと夢見ていた『穏やかな幸せ』そのものだった。
しかし、その平穏の裏で、彼女の心にはもう一つの顔――あの『忘却の雫』がもたらした、生々しい影が確実に根を張っていた。
感情を取り戻したということは、喜びや優しさだけでなく、かつて彼女を悩ませていた『激しい嫉妬』までもが、目を覚ましたことを意味していたのだ。
夜、静まり返った寝室。
仄かな灯りの下で、ロマリオは眠れぬ様子で何度も身じろいでいるジュリアを背後からそっと抱きしめる。彼の腕の中に収まっている間だけは、ジュリアは穏やかな妻でいられた――そう思おうと必死だった。
(もし、ロマリオ様がまた私以外の女性に目を向けたら……?)
想像しただけで、心臓が痛いほど締め付けられる。
高潔で純粋に夫を愛する自分と、女性たちの影に怯え、狂おしいほどの独占欲に身を焦がす自分。二つの相反する感情が、ジュリアの中で同居し始めていた。
◇
――その頃、遠く離れた北の辺境、永久凍土の森に建つ氷に覆われた黒い館では。
パリンッ、と。
静まり返った『北の魔女』の館に、何かが割れるような鋭い音が響いた。
暖炉の前に座る北の魔女は、その音に眉をひそめ、音の聞こえた側へと顔を向けた。
視線の先にある壁には、まるで装飾品のように、無数の硝子瓶が幾段にも整然と並べられている。その壁一面の硝子瓶の中で、ただ一つの瓶にだけ、ピキリと痛々しい亀裂が走っていた。
「おやおや、これは珍しいこともあるものだわね……」
魔女は小さくクスクスと笑い、揺らめく暖炉の炎から視線を外した。
「せっかくきれいに凍らせてあげたのにねえ。はてさて、再び絶望の苦しみの中に戻されるとは……本人にとって、はたしてどちらが幸福なことだか」
独り言をつぶやくと、魔女は面白そうに唇の端を持ち上げた。
パチパチと乾いた音を立てて燃え盛る暖炉の炎が、彼女の真紅の瞳と、亀裂を走らせた硝子瓶を赤々と照らし出す。静かな部屋には再び不気味な静けさが戻り、ただ静かに、新たな絶望の始まりを待つように時が流れていった。
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