氷の下の脈動と、最期の懺悔
永久凍土の森で浴びた凍てつく冷気と、限界を超えた強行軍。さらに帰還後に発症した流感が重なり、ロマリオの容体は日を追うごとに悪化していった。
豪奢な寝室に重苦しい沈黙が満ちる中、ジュリアは感情を閉ざしたまま、人形のように夫の世話を続けていた。
「それが妻として当然の務めだから」――そう繰り返し言い聞かせることで、ジュリアは自分の中に芽生え始めた違和感から目を逸らしていた。
「……あ、あ……ジュリア……」
熱で真っ赤に腫れた瞳で、ロマリオはうわ言のように妻の名を呼ぶ。ジュリアは布巾を絞り、彼の額を拭う。夫の肌に触れるたび、ジュリアの胸の奥では、凍りついたはずの何かが軋み、鈍い痛みを放っていた。
(また胸が痛むわ。……一体、何が起きているの?)
彼女は自分の動揺を必死に理性で塗り潰す。『政略上の義務』という言葉を何度も脳内で唱え、この痛みを気のせいだと結論づけようと足掻く。だが、弱りきったロマリオの姿を見ていると、かつての記憶の断片が強引に意識の隅に割り込んできて、彼女の呼吸を乱した。
その夜、ロマリオの容体が急変した。
呼吸は浅く、胸の鼓動は今にも止まりそうなほどに弱々しい。死の予感に直面した時、ロマリオの中で、ようやく傲慢な自己愛の殻が崩れ去った。
彼はかすかな力を振り絞り、傍らに立つジュリアの細い指先を掴んだ。
「……ジュリア。……ごめん……すまな……かった」
消え入りそうな声だった。
それは、死の淵でようやく吐き出された、過去の自分への悔恨だった。
「……きみを……愛して……いた……。いや、違うな……僕は……愛しているつもりで……自分のこと……ばかり……考えていた……」
ロマリオの瞳から、熱い涙が零れ落ちる。
それは、彼が一生かけても償いきれないほどの後悔と、初めて偽りのない愛情から出た言葉だった。
ジュリアは、彼の手を握り返すこともできず、ただ呆然と立ち尽くした。心臓の奥の痛みが、かつてないほどに激しく脈動する。
「ロマリオ様……?」
彼女が初めて、事務的な義務ではない、震える声で夫の名を呼ぶ。
しかし、ロマリオの瞳からは、急速に光が失われていった。彼は最後の力を振り絞るように、かすかな笑みを浮かべた。
「ロマリオ様?」
ジュリアの呼びかけに、返事はない。
先ほどまで自分の指を掴んでいた手から、少しずつ力が失われていく。その事実を理解できず、ジュリアはただ呆然と彼の顔を見つめていた。
「……奥様?」
異変に気づいた侍女が、恐る恐る声をかける。
しかし、ジュリアは反応しない。ただ冷たくなり始めた夫の手を放すこともできず、その場に立ち尽くしたまま動くことができなかった。
「旦那様……!」
侍女は顔色を変え、すぐさま部屋を飛び出した。
「急いで主治医を! 旦那様の容体が……!」
屋敷中に緊迫した声が響き渡る。
駆けつけた医師が診察を始めるまでの間も、ジュリアはロマリオの手を離せずにいた。
『忘却の雫』を飲んで以来、初めて、ジュリアの頬を熱い涙が伝った。
彼女は、自分が何を失い、何を取り戻してしまったのかを理解するよりも先に、ただ茫然と涙を零し続ける。
あの『忘却の雫』が奪ったのは、感情そのものではなかった。
それはただ、胸の奥底にある熱を凍てつく氷の底へ沈め、二度と自力では掘り起こせないよう分厚い層で蓋をしてしまうだけの、魔女の秘薬だったのだ。
だからこそ、氷が少しでも削れれば、閉じ込めたはずの想いは当時のままの熱を帯びて溢れ出してしまう。
消えゆくロマリオの温もりを前にして、封じられていたはずの想いが再び目を覚ます。
ジュリアが零した一雫の涙は、自らの手で凍らせたはずの心を、取り返しのつかない熱で揺らしていた。
――ピシッ パリンッ
ジュリアの中で、凍りついていたはずの何かが割れる音が響いた。
温もりを失いかけたロマリオの身体を前に、それまで「事務的な義務」として仮面を保っていたジュリアの理性が、音を立てて崩れ去った。
心臓を締め付けていた痛みが絶望へと変わり、彼女は崩れ落ちるようにロマリオの体に縋り付いた。
「ロマリオ様……」
反応はない。それでも彼女は諦めなかった。
「……っ、ロマリオ様……! お願い、目を……開けてよ……!」
完璧だった淑女の面影などどこにもない。
ジュリアは血の気が引いた顔でロマリオの襟元を掴み、その重い体を必死に揺さぶった。何度も何度も、硬い胸を拳で叩く。
「私をこの苦しみの中に置き去りにするなんて許さない! あんなに私を縛り付けておいて、勝手に終わらせるな……! 目を覚ましなさいよ……!」
震える拳で、彼の胸を何度も叩くが、返ってくるのは静寂だけだった。
凍りついていたはずの心に、無理やり熱を注ぎ込まれたようだった。内側から焼かれるような痛みに、ジュリアは息を詰まらせる。
それは、ロマリオを失う悲しみだけではなかった。かつて彼だけを信じ、彼だけを愛していた自分まで失ってしまった――その事実が、何よりも苦しかった。
彼女は髪を振り乱し、声が枯れるほど泣き叫んだ。
「お願い……! 目を覚ましてよ、ロマリオ様……っ!」
ジュリアは彼の身体を抱きしめる。
彼女の慟哭が、静まり返った寝室の天井を叩く。
ジュリアは、もう駄目かもしれないと理解しながらも、彼の肩を掴み、何度も身体を揺さぶった。
「こんな勝手な終わり方、許さない……! 目を覚まして……!」
震える拳で、彼の胸を叩く。一度、二度――それでも返事はない。それでも叫び続けた、
その直後だった。
――ピクリ。
ロマリオの指先が、ほんのわずかに震えた。
「……え?」
ジュリアが息を呑む。
次の瞬間、かすかに胸が上下した。
止まったと思われていた呼吸が、弱々しく、しかし確かに再び始まり、冷え切っていたはずの肌にも、少しずつ血の通った温もりが戻っていった。
死の淵から引き戻されたロマリオと、すべてを曝け出して泣き叫ぶジュリア。二人の止まっていた時間が、狂おしいほどの熱を帯びて再び動き出し始めていた。
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