第五章:深き海の呼び声(10)
暗い路地裏を、一人の人影がゆっくりと歩いていた。
石畳の上へ落ちる足音は軽い。
夜の湿った空気すら楽しんでいるみたいな足取り。
口元には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
『今回の回収は……あれこれ十年かかりましたが』
それを長いと思ったことはなかった。
ギルドの副ギルド長として過ごした時間も。
絶望した者たちを集め、救いを求めて足掻く姿を眺めていた時間も。
どれも退屈とは程遠かった。
むしろ、十分に刺激的で、十分に愉快だったと言っていい。
「――海の欠片回収、お疲れ」
唐突に、声がした。
子どものように無邪気で。
そのくせ、爪で金属を掻くような、妙に耳の奥へ不快感を残す声だった。
ハノイルは足を止めた。
視線を落とせば、いつの間にか、黒猫が路地の真ん中へ座っていた。
しなやかな尾をゆったりと揺らしながら、こちらを見上げている。
猫科動物特有のその目だけが、暗闇の中で光っていた。
「これはこれは。 お耳が早いことで」
ハノイルが軽く肩を竦めると。
「うん。 だって“見て”たし」
同じ声が、今度は別の場所から返ってきた。
いつの間に現れたのか、小さな鼠が彼の肩へちょこんと乗っていた。
ハノイルは苦笑する。
「覗き見とは、相変わらず頂けませんね」
「僕だって嫌だよ。 みんな自分勝手やらかすし」
また同じ声が別の場所から聞こえた。
今度は頭上だった。
いつの間にか、鳥が彼の真上へ降りてきていた。
優雅な仕草で羽繕いをしながら、まるで世間話でもするような調子で言葉を続ける。
「ああ、今日は“あの子”も一緒に見てたよ。 ずいぶん楽しんでたみたいじゃない。 あとで怒られるのは覚悟しておいた方がいいよ」
「……それは、できればご勘弁願いたいところですね」
苦笑いが浮かんだ。
それから、ふと思い出したように口もとを緩めた。
「そうそう。 見ておられたのでしたら、気になる少年が一人いたのもご存じでしょう。 眼の色もそうですが、ほんの一瞬とはいえ、あれは紛れもなく――」
「そのことだけど」
言葉を遮るように、猫がにゃあと小さく欠伸をした。
「“あの子”から伝言。 あの少年には、絶対に手を出してはいけない、だって」
「……ほう?」
ハノイルの目が、わずかに細まる。
しばし考え込むような沈黙。
やがて、何かに思い至ったように、彼は目を輝かせた。
「――なるほど。 そういうことでしたか」
その笑みは、先ほどまでよりもずっと深い。
「……くくっ。 いやはや、長生きはしてみるものですね」
肩の上の鼠が、彼の頬を小さな前足でぺちぺちと叩く。
「僕はちゃんと伝えたからね。 余計なことしないでよ?」
「ええ、それはもちろん。 少なくとも、私の方から手を出すことはありませんとも」
そう言って笑いながら。
心の中だけで、彼はそっと付け足す。
『――あくまで、私の方からは、ね』
ハノイルの上に乗った鳥が不満げに頭を突いた。
「絶対なにかする気でしょ。 何でこうも“あの子”に心配かけるバカばかりなの」
「……はて。 何のことやら」
ハノイルは満面の笑みで知らん顔を貫きながらゆっくりと歩き出した。
その後ろを猫が気だるそうに続く。
やがて、小さな動物を連れて歩く奇妙な姿は夜の闇へ溶け込むみたいに消えていった。
・ ・ ・
悪夢のようだった祝祭の日の夜から、かなりの時間が過ぎた。
最初の数日は、ルネルも俺もまともに動けなかった。
アンナ先輩とアネタ先輩も、事情聴取や最低限の協力を終えると、ほどなくしてマルヴェルを離れた。
もともと長く滞在する予定ではなかったらしく、あの一件のあとまでこの街に残っていたこと自体が、むしろ予定外だったのだろう。
その間にマルヴェルの治安維持部隊と蒼海の銀翼での共同調査により色々なことが明らかになった。
まず、隠されていた迷宮は女神を否定する異端教団が根城にして、何かしらの実験や儀式を行っていたらしい。
彼らは7年にわたって該当迷宮を拠点として、マルヴェルの貧民や質の悪い観光客を拉致し、その犠牲としてきた。
女神が作り上げた今の世界の姿は偽りであり、真実の眼をもって理を成す。
という、よくわからない教理のもとで行われた数々の人間性を捨てた行いは王国全体に相当な衝撃を与えた。
だが、首謀者格だった男はあの日死亡した。
残った残党も逮捕され、狂った異教徒の悪事も終わりを告げることになった。
――表向きには。
「……そう、ですか。 やはり彼のことは……」
「ああ。 何も残っていなかった。 痕跡どころかハノイルという男がいたという記録を含め、全てが綺麗に消されている」
ギルド長室でベルドガルさんと向かい合って、机に置かれている調査報告書の内容はベルドガルさんの言葉と大差ないものだった。
今回の一件、裏で糸を引いていたはずの副ギルド長のハノイル・ランベルクについての全ての情報が綺麗に消えていた、ということ。
まるで、ハノイルという人物は初めから存在していなかったかのように。
「思えば7年前、失踪されていたルネルを連れてきた時からあいつには不審なところが多かった」
ベルドガルさんはそういいながら視線を机の端に置かれていた色付きの眼鏡を見つめる。
「戻ってきてから普通の人には見えないものを見るようになって苦しんでいるルネルのためにこの眼鏡を作った言っていたが……それにしては余りにも短時間だった」
最初からそうなることを予見していたかのように。
「あの時はルネルの助けになったことへの感謝の気持ちしかなかったが……クッソが!」
ベルドガルさんは怒りで顔を歪ませ深いため息をついた。
ルネルは今療養中だ。
体の方は特段問題はない。
むしろ体に問題があったのは俺の方だった。
あの時、ハノイルを攻撃した際に感じた異様な力の対象なのかは未だによくわからないが、俺は数日ベッドの上で世話になるしかなかった。
傷はないのに体に力がうまく入らない感覚がずっと続いていたから。
その感覚には見覚えがある。
そう。
まるで白の地下聖堂での一件の後、目覚めてから味わったあの感覚と全く同じだった。
ルネルの場合、そういう問題ではない。
本人曰く、見えていたものが急に見えなくなったり、見える景色が違いすぎて長く活動すると頭が痛くなるらしい。
「……ルネルの、あの目は……」
「捕まえた奴らは鍵とかで呼んでいたが、正直なところこちらもよく知らん。 どうやってルネルの眼がああなったか、どうやって元の状態に戻ったかも」
そこでベルドガルさんは一つため息を挟んだ。
「ただ、確かに言えるのはあの目になってからルネルはろくに生活できなくなっていたことくらいだ。 むしろ、俺としては元に戻って安心している」
それは心からそう思っていることは伝わってきた。
ルネルと接触していた際に見えた景色。
それがルネルが見ている景色なのかはわからないが、確かにあの光景は異常だった。
そんなものを考えていると。
「アベルマス。 お前には、ルネルのことも含めてかなりの世話になった。 現地実習は今日で最後だが、やることはない。 今のうちにやり残したことがあれば済ませておけ」
「……はい。 こちらこそ、色々と勉強になりました」
最後に、世話になった人たちに挨拶をするのも悪くないかもしれない。
俺はベルドガルさんの言葉に甘えることにした。
イチの家族や、依頼で知り合った人たち、ギルドの皆さんに挨拶に回った。
――そうして、俺の現地実習、マルヴェルでの最後の日は穏やかに過ぎていた。
・ ・ ・
蒼月第六巡二十二日、月曜日。
帰りの日がやってきた。
朝の空気は思ったよりも涼しかった。
港へ向かう道も、最初にこの街へ来た時よりずっと静かに感じる。
俺の視線は見送りに来ている面々に向かった。
ベルドガルさんや一部のギルドの人、イチ、そしてルネル。
ルネルは今では色付き眼鏡をかけていない。
そのためルネルの淡い翡翠色の瞳がよく見えていた。
改めて、綺麗な色だと思った。
見送りに来た人たちと他愛ない会話をしているうちに魔素列車の出発する時間が迫ってきた。
またあれに乗らないといけないか、と思うとどうしても鬱な気分になるが、だからと言ってこの時代の別の乗り物など知らないから我慢するしかない。
「――それじゃ、そろそろ行きます」
「おう! それじゃアベル、またグロリスでな!」
いつも通りに笑うイチの横で、俺はルネルを見る。
ルネルもまた、こちらを見ていた。
「気を付けて」
ルネルが、小さく言う。
それだけだった。
まあ、ルネルらしいと言えばルネルらしいが。
「ああ。 ルネルも元気で」
とはいえ、俺の態度もそう変わらない。
そんな短い挨拶の後、見送りの面々に頭を下げて俺は駅の中に入った。
切符は予め買っておいたから、後は乗るだけだ。
魔素列車に乗り込む人達に紛れて、黒くて大きいそれに足を踏み入れて席に着く。
ほどなくして列車は動き出した。
規則的な振動。
僅かな浮遊感。
そして、すぐにやってくる嫌な予感。
「……うっ」
案の定、早々に気分が悪くなってきた。
窓の外へ視線を向ける。
港町マルヴェルの街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
マルヴェルに来ておおよそ3週間が過ぎた。
思い返せばかなり濃く、刺激的な時間だったが、それも今日で終わる。
改めてマルヴェルでの日々が頭を過る。
初日のこと。
依頼のため迷宮に入ったこと。
海岸警備のこと。
祭りのこと。
隠された迷宮での遭遇のこと。
そして――
「――魔族の眼、か」
思わず左目を手で被せた。
ハノイルは確かに何かを知っていたはずだ。
その意味で収穫はあったのかも知れない。
だが、それ以上に謎は深まってしまっている。
それを知るための力が、今の俺には圧倒的に足りない。
――もっと強くなってやる。
それこそ、かつて勇者だった自分にも劣らないほど、強く。
遠ざかっていくマルヴェルの姿を目に焼き付けながら、俺は一人そう誓った。
・ ・ ・
アベルマスがマルヴェルを去った後、蒼海の銀翼のギルド長室。
「――それで、話というのはなんだ、ルネル」
向かい合った愛娘を見つめベルドガルが問いかける。
帰り道に珍しくルネルから話があると言われていた。
ルネルはいつもの無表情のまましばし沈黙した後口を開けた。
「お父様。 お願いがあるの」
そしてルネルの口から出てきた言葉を聞いてベルドガルは目を見開いた。
「ル、ルネル! 急にどうしたんだ! なぜそんなことを……」
「ずっと考えたこと」
慌てるベルドガルの言葉を遮るようにルネルは静かに、でも確かな意思を込めて言った。
「今までは目のことがあったからできなかったことを、 やってみたい。それに――」
ルネルは窓の外を見つめた。
まるで、何かを目で追うように。
「助けてもらってばかりで、ちゃんと返せていない」
「ルネルのその気持ちは分かった。だがしかし、だからと言って……」
「――あら、いいじゃない。 可愛い我が娘には旅をさせろ、ってね」
その時、涼しい声と共に扉が開いた。
入ってきたのは銀髪の綺麗な女性と、背の小さい老人。
「お爺様、お母様」
ルネルは席を立った。
そして、部屋へ入ってきた銀髪の女性のもとへ迷いなく歩み寄ると、そのまま静かに抱きついた。
女性はやわらかく目を細めて娘を抱き返す。
「ただいま、ルネル」
「……おかえりなさい、お母様」
その様子を見て、ベルドガルはようやく我に返ったように声を上げた。
「アイラ、親父! もう戻っていたのか!」
「愛する娘が大変な目にあったとなれば駆けつけるのが母親ってものだよ、あなた」
銀髪の女性――アイラ・オルカはどこか楽しそうに微笑んだ。
その隣では、小柄な老人がふむ、と顎髭を撫でながら頷いた。
「話は聞いておる。まさかハノイルのやつがあんなことをしたとはな」
「……それについては、俺の至らぬところである。 いや、そんなことより……」
「もう、あなた。 せっかくルネルがやる気を出しているのに水をさすなんて父親としてどうなの?」
ルネルの頭を撫でながらアイラが夫を睨むように見つめる。
その視線だけでベルドガルという男は小さくなった。
「い、いや……それはだな」
ルネルは母の腕の中から静かに身を離した。
そして改めて、真っ直ぐベルドガルを見つめる。
「お父様。お願い」
短い言葉だった。
けれど、その声音にははっきりとした意志が滲んでいた。
「ぐっ……!」
そのまっすぐな視線を受け、ベルドガルは唸るしかなかった。
「ルネルが心配なのは分かるが、いい加減見守る方法も覚えろ、未熟者が」
ルネルの祖父であるライチェンの呆れた言葉に更にベルドガルの顔が渋くなった。
三対一。
明らかにベルドガルが不利な状況。
それでもなお諦めきれず唸っていたベルドガルは静かに自分を見つめる娘の眼を見る。
こうと決めたルネルが、簡単に考えを曲げる子ではないことは、ベルドガルもよく知っていた。
だが、それでも思わずにはいられない。
今までろくに外の人間と関わってこなかったルネルが、いきなりあんな場所へ行って、本当にやっていけるのか。
今度こそ守れなかったら――
「大丈夫」
不意に、ルネルが一歩だけ近づいた。
翡翠色の瞳が、真っ直ぐベルドガルを見上げている。
「ちゃんと、頑張るから」
飾り気のない、短い言葉だった。
けれど、それが子どもじみた強がりではなく、ルネルなりの精一杯の決意だということだけは、痛いほど伝わってきた。
結局、折れたのはベルドガルの方だった。
「……はあ――分かった。ルネルの好きなようにしなさい」
これ以上ないほど渋々といった様子ではあったけれど、確かにベルドガルは娘の意思を尊重することを選んだ。
ルネルは静かに父へ歩み寄ると、その巨体をそっと抱きしめた。
「ありがとう、お父様」
「くうぅぅぅ……!」
ベルドガルは今にも泣き出しそうな顔で天を仰ぐ。
その腕は一瞬迷ったあと、壊れものに触れるみたいに、そっとルネルの背へ回された。
ルネルは目を閉じる。
ほんのわずかに、その表情がやわらいだように見えた。
ルネルは改めて窓の外をじっと見つめた。
『――待ってて』
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