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第五章:深き海の呼び声(9)

「――ルネル!」


反射的に、俺は剣を振り下ろした。


ルネルと深き者を同時に貫いた、その腕ごと斬り落とすために


だが――


「――なっ……!?」


届かない。


刃はたしかに振り抜いたはずなのに、その腕へ触れる寸前でぴたりと止まっていた。


何かに阻まれている感触でもない。


だが、いくら力を入れてもそれ以上進まなかった。


「無駄ですよ。あなた達とは立っている層が違いますから」


何を言っているのかは理解できなかった。


だが、その間に深き者の小さな影が、貫いていた腕へ吸い込まれるようにして消えていた。


「……あ……」


ルネルが、何かを言いかける。


だが、その声は最後まで形にならなかった。


彼女の眼に宿っていた淡い光が、急速に弱まっていく。


銀灰だった瞳から色が消える。


いや、抜けていた。


やがてそれは透き通るような、淡い翡翠色へ変わる。


同時に、ルネルの身体から力が抜けた。


貫いていた腕が、何事もなかったみたいにすっと引き抜かれる。


ルネルの身体がゆっくりと前へ倒れ込む。


「ルネル!」


慌てて受け止める。


貫かれていたはずの箇所へ目を向けて、息を呑んだ。


「……傷が、ない?」


血もない。傷痕もない。服すら破れた様子がなかった。


「……どう、なってる……?」


混乱したまま、顔を上げる。


そこに立っていたのは、ローブを纏った男だった。


ここにいた奴らの一人なのだろうか。


彼の顔は初めて見る。


そのはずなのに、妙な既視感がある。


体格も、立ち方も、どこか見覚えがあった。


その男は、動けずにいる俺を見て、くすりと笑った。


「ああ、失礼しました。この姿だとわからないですよね」


それから、まるで仮面でも外すみたいに、自分の顔を手でなぞる。


「……は……?」


その瞬間、男の顔が一瞬で塗り替わった。


見慣れた中性的な顔立ち。


片眼鏡こそないが、その穏やかな表情は見間違えようがない。


マルヴェルに来てから何度も顔を合わせた男。


「……ハノイル、さん……?」


――ハノイル・ランベルクさんのものだった。


頭の中が、真っ白になる。


理解が追いつかなかった。


何が、どうなっている……?


そんな時。


「……き、さま……」


掠れた声が、床の方から聞こえた。


視線を向ける。


さっきまで触手の塊だった男が、まだ生きていた。


全身から生えていた触手の大半は消え失せ、残っているのはほんのわずか。


身体にはいくつも穴が空き、まともに立つことすらできないらしい。


床を這いずるようにして、辛うじて生へしがみついている。


それでも、その目だけは憎悪で燃えていた。


「どういう……ことだ……その顔……その姿……!」


ハノイルさんは、そんな男を見下ろして、また楽しそうに目を細めた。


「おや。まだ喋れたのですか」


そしてもう一度、自分の顔から首筋へかけて手を滑らせる。


変化は今度、顔だけでは終わらなかった。


骨格が変わる。


身長がわずかに縮む。


肩の線が細くなり、全身の輪郭がするりと女のものへ変わっていく。


中性的だった顔立ちは、今やはっきりと女のそれに変っていた。


さっきまで男だったハノイルさんは、今やどう見ても、女性の姿にしか見えない。


魔素の流れは感じられなかった。


少なくとも、認識阻害の類の魔法とかではないはずだ。


……なら、今俺は目にしているものは、いったい何なんだ?


女性の姿に変ったハノイルさんを見た瞬間、男が目を見開く。


「な……っ、なぜ貴様が……! これはどういうことだ……! 裏切り者ぉぉぉ!!!」


絶叫に近い声とともに、男は無理やり身体を起こした。


残っていた触手が狂ったように蠢き、憎しみだけで動いているみたいにハノイルさんへ襲いかかる。


だけど。


「だから無駄ですって。」


さっき俺の剣が止まったように、男の攻撃はハノイルさんには届かなかった。


その拳も、触手も。


身体へ届く寸前で止まっている。


ハノイルさんは、そんな男の目を真っ直ぐ見つめたまま、楽しげに言う。


「数年もの間、よく働いてくれました。 お陰様で、深き者がいる位相まで、この迷宮を近づけることができましたので」


「……何を……」


自分へ延ばされた触手を指でなぞりながら、ハノイルさんはニッコリと微笑む。


「あなたが飲み込んだものを含め、今まで使っていた種ですが、鍵とは何の関係もありません。 深き者のいる位相へ、この迷宮を近づけるための媒介にすぎないのです」


そして、男の耳元へ顔を寄せ、囁く。


「――要するに、あなたたちの努力は最初から全部無意味だったんですよ」


「……」


男は絶句した顔でかたまってしまった。


経緯は未だに分からないけど、あの男、いや、ここにいるロブの者たちは利用されていたのだと、それだけは理解した。


ハノイルさん――いや、ハノイルはそんな彼の顔を見て心底愉快そうに笑っていた。


「深き者の眼を通して世界の真実に至る? それで死者さえも蘇らせる理にたどり着く? あははは! そんなこと、できるはずがないじゃないですか」


始終その声音は柔らかいものだった。


ハノイルは、わずかに首を傾ける。


「まあ、でもそんな愚かな皆さんだったから――女神に祈っても何も返らず、大切なものを失った人間というものたちを集めるのは、楽でよかったんですけど」


「お、おのれ――!!」


男の口が、何かを叫ぼうと開く。


だが、その言葉は最後まで続かなかった。


「さて。もう用済みではあるけど、どこかに使えるかもしれないし……ついでに種も回収しておきましょうか」


ハノイルが男の頭へ、そっと手を置いた。


声は、出なかった。


男の身体がびくんと跳ねる。


叫んでいるはずなのに、喉からは何の音も漏れない。


次の瞬間、その全身が急速に干からび始めた。


皮膚が縮む。


肉が痩せる。


骨が浮き出る。


ほんの数秒で、そこにはひしゃげた枯れ枝みたいなものしか残っていなかった。


見ているだけで胃の奥が冷える。


俺はルネルを背後へ庇いながら、改めて剣を構えた。


ハノイルはそんな俺を見て、まるで何でもないことのように肩をすくめる。


「安心してください。ルネルさんにはこれ以上何もしませんよ」


まるでギルドで雑談でもしていたころのように軽い口調だった。


だが、その時とは違う、


今、俺の目の前にいるのは得体の知れない存在だ。


本当に、人間なのか?


ずっと疼いていた左目は、今は何ともない。


()()()気味が悪い。


この迷宮に入ってきてからずっと感じられた痛みが今や噓のだったように消えている。


それが、たまらないくらい気味が悪かった。


「後遺症もないでしょう。まあ、少し力を失っただけです」


「……黙れ」


喉の奥から、押し出すように声が漏れた。


ハノイルは気を悪くした様子もなく、むしろ面白そうに一歩近づいてくる。


そして、不意に俺の顔を覗き込むようにして、左目へ視線を止めた。


「……やはり……」


楽しげな声音が、ほんの少しだけ低くなる。


「……魔族の眼、としか見えませんね……」


その呟きに頭の中で、何かが弾けた。


――いま、何ていった?


魔族……だと?


「ああ、すみません。何のことかわからないでしょう。気にしないでく……」


「……知っているのか」


 自分でも驚くほど低い声だった。


「はい?」


「魔族を、知っているのか」


ハノイルが、驚いた顔でこちらを見つめる。


「ほお……」


その目には明らか興味が宿っていた。


それで悟った。


こいつは、何かを知っている。


自然と剣を握る手に力が入る。


「答えろ……お前は何を知ってるんだ!」


叫ぶと同時に、俺は踏み込み、剣を振るった。


当然のように、俺の剣は届かなかった。


やはり、刃はハノイルの首筋へ触れる寸前で止まる。


「これは興味深い。アベルマス君、あなたどこで魔族のことを?」


「先に質問したのはこっちだ!答えろ!!!」


消えっ去った過去の歴史。


誰も覚えていない時代。


俺が、俺たちが生きていた証が否定されている今の時代で――初めて遭遇した手がかり。


その事実に、俺は冷静にはいられなかった。


「知りたいのですか?」


ハノイルは楽しそうに笑った。


「なら、力ずくで聞き出してみてください。できるものならね」


「くっ!」


何度も切り掛かった。


身体強化も、魔素を巡らせた斬撃も、無影一刀流の型も。


試せるものはすべて試した。


それでも届かない。


どの一撃も、あと紙一枚のところで止められる。


まるでこちらの攻撃そのものを、世界の側が拒絶しているみたいだった。


焦りが募るたび、体の奥から何かが湧き上がってきた。


衝動だった。


自分のものではない何かが、体の中を暴れ回るような、不愉快極まりない感覚。


それが血管の内側を掻き回し、骨の隙間を軋ませ、左目の奥で鈍く脈打っている。


「――ああああああああっ!!」


叫ぶと同時に、体中で暴れていたそれを、一点に絞り込む。


切っ先へ、いつもとは違う何かが纏わりついた。


勝手知っている自分の魔素とは別の、もっと異質な、説明のつかない何か。


冷たく、黒く、触れたものの輪郭を曖昧にしてしまうような不吉な気配。


左目の奥が、弾けた。


黒い刀身がかすかに震えた。


ごく微かな、音にならない響き。


まるで俺の内側で目を覚ました何かへ、刀身の奥に沈んでいた何かが応えたみたいだった。


波が打ち返すみたいに、それは繰り返す。


その度、剣から伝わる気配が強くなる。


使い馴染んできたはずの剣の感触が、酷く異質になっていく。


それが何か理解できていない。


ただ、俺はそのまま剣を振り下ろした。



――黒深響。



何かを引き裂く感触。


そして今まで決して届かなかった剣先が――確かに、ハノイルの頬を裂いた。


赤い線が走る。


「……これは」


初めて、ハノイルの目がわずかに見開かれた。


浅い。


だが、確実に届いた。


もう一振りを、と思ったその瞬間。


「――ぐっ……!?」


膝が落ちる。


力が抜けた、というより。


身体の奥に詰まっていた何かを、一瞬で根こそぎ持っていかれたような虚脱感だった。


心臓が一拍、遅れる。


肺がうまく空気を吸えない。


指先から熱が引き、握っているはずの剣さえ急に遠く感じた。


剣を地へ突き立て、それに縋らなければその場へ崩れ落ちそうになる。


「っ、……なんだ、これ……!」


立ち上がろうとしても力が入らない。


全身が鉛のように重いのに、そのくせ中身だけが空っぽになったみたいだった。


ハノイルは指先で頬の傷をなぞった。


それだけで、傷が消える。


「これは、興味深い。 アベルマス君、あなたは……」


その時、通路の奥から複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。


ハノイルは言葉を切り、そちらへ一瞥する。


それから、ふっと小さく笑った。


「……ああ、この顔の方が都合がよさそうですね」


そう呟くと、今度は自分の頬から首筋へかけて指先を滑らせた。


女の輪郭が、するりとほどける。


細くなっていた肩の線が戻り、骨格が変わり、身長がわずかに伸びる。


次の瞬間、そこに立っていたのは、見慣れたハノイル・ランベルクの姿だった。


振り返る間もなく、巨大な影が間に入り込んだ。


――ベルドガルさんだった。


彼はまず、倒れているルネルを見る。


次に、片膝をついた俺を見る。


そして最後に、ハノイルへ視線を固定した。


その目が、一瞬で怒りに染まる。


「……テメェか」


低い声だった。


「ルネルに手を出したのは、テメェか。ハノイル」


ハノイルは肩をすくめ、まるで雑談の続きをするみたいに答えた。


「ええ。その通りです。 まあ、傷は残らないはず……」


ハノイルの言葉を遮るように、鋼鉄のような拳が振り抜かれる。


だが、その拳もまたハノイルへ届く寸前で止まった。


ハノイルの口元が、わずかに緩む。


「無駄ですよ。いくらあなたでも……」


「――黙れ」


怒り狂った、静かで低い声。


空気そのものが、震えた気がした。


ベルドガルさんの額に青筋が浮く。


それだけじゃない。


こめかみから首筋へ。


握りしめた拳の甲から、むき出しの前腕へ。


血管が、まるで内側から押し上げられるみたいに、くっきりと皮膚の上へ浮かび上がっていく。


次の瞬間、その巨大な体から白い熱気が噴き出した。


煮え立つ熱と膨大な魔素が、行き場を失って皮膚の上から煙となって漏れ出しているように見えた。


さらに。


ベルドガルさんの肩が、背が、腕が、ひと回り膨れ上がる。


筋肉そのものが、怒りに呼応するように膨張していた。


上着の縫い目がみしりと軋み、握り込まれた拳の周りで空気がびりびりと震える。


立っているだけのはずなのに、足元の石床がめき、と小さく悲鳴を上げた。


怒りそのものが質量を持って噴き出し、肉体へ無理やり形を与えているみたいだった。


「なめるなよ、このゲスがぁぁぁ!!!」


再び放たれた拳が、今度は――


バキン、と。


何かが砕けるような音とともに、見えない壁ごとハノイルの顔面へ叩き込まれた。


衝撃でハノイルの身体が吹き飛ぶ。


そのまま壁へ激突し、石壁を砕きながらめり込んだ。


常人なら、間違いなく即死していた。


いや、まともな生き物なら、頭蓋ごと潰れるはずの、一撃。


にもかかわらず。


ハノイルは、崩れた石の中から何事もなかったようにゆっくり立ち上がった。


首はあり得ない方向へ曲がっている。


顎も半ば砕け、皮膚が裂けていた。


――それなのに、その歪んだ顔はみるみるうちに元へ戻っていく。


最初から傷などなかったみたいに、元通りの顔だけが残っていた。


「……これは、驚きました」


ハノイルは純粋に感心したような表情だった。


「さすがは鬼腕の覇鯨(オーガ・オルカ)。その異名に相応しい一撃です」


ベルドガルさんは怒りを宿したまま、再び拳を構える。


「何発だって食らわせてやろう。うちの子たちに手を出して生きて帰れると思うなよ」


その時、通路の向こうからいくつもの足音が聞こえてきた。


ハノイルはその音に耳を傾けるようにして、ふっと笑った。


「潮時……ですね。まあ、目的は果たせましたし、お暇させていただきましょう」


芝居がかった優雅さで、一礼する。


「それでは、いずれまた。」


次の瞬間、その姿がふっと揺らいだ。


輪郭が薄れ、霧へ溶けるようにほどけていく。


必死に体を起こして手を伸ばす。


「待て――!」


だが、その手は何もつかめなかった。


俺は荒い息を吐きながら、消えた場所を睨みつける。


――魔族の眼。


あいつは、何かを知っていた。


だが、その答えは何ひとつ得られていない。


やっと見つけた手がかりが、あっけなく途絶えた。


その事実に、俺はただ叫ぶしかなかった。


「くっそぉぉぉぉぉ――!!!!」

面白いと感じていただけましたら、反応をいただけますと励みになります。

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