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第五章:深き海の呼び声(8)

触手の塊は、すぐには動かなかった。


それでも、背中へ預かる体温が、さっきより近くなったように感じた。


広間の空気は静まり返っているはずなのに、あの肉塊が脈打つたび、ぬめった水音のようなものが耳の奥で嫌に大きく反響した。


俺は剣を構えたまま、一歩も動かない。


先に動いたのは向こうだった。


触手の束の一部が不意に膨らんだかと思うと、次の瞬間には黒い鞭のようにしなり、一直線にルネルへと伸びる。


「ちっ!」


反射で踏み込む。


黒き刃を振るい、伸びてきた触手を途中から断ち切った。


斬れた。


手応えもある。


切断された先端は、青い粒子へ変わりながら霧のように崩れていく。


だが。


「……これは……」


本体側に残った触手の断面が、ぬるりと盛り上がる。


肉が寄り集まるというより、そこにあった形を思い出すみたいに、切れたはずの先が瞬く間に元へ戻っていく。


次は右。


その次は床下。


さらに天井からも、壁沿いからも、別の触手が一斉にルネルだけを狙って伸びてきた。


「くそっ……!」


避ける。


斬る。


また避ける。


そして、また斬る。


切り落とした部分は青い粒子へ変わって消える。


だが、本体に繋がった側は少しも衰えた様子を見せない。


ただ元へ戻る。


何度でも。

 

白の地下聖堂(ホワイト・カテドラル)で対峙した、黒い霧の魔獣が脳裏をよぎる。


あれも傷を負うと、体を修復していた。


だが、あれの修復は無尽蔵ではない。


黒い霧を消費し、それごとに身体が小さくなっていく、対象があった。


けれど、こいつは違う。


修復ではない。


補っているのでもない。


斬られたものが、初めからそうであったみたいに元へ戻っている。


しかも再生のたび、何かが減っているようにも見えない。


正面、左、足元、頭上。


四方から迫る触手を切りながら考え続ける。


こうやってただ迫ってくる触手の群れを切るだけなら、しばらくはできるかもしれない。


だが、その先にあるのは、体力を削られ続けて押し切られる結末だけ。


それに――


俺はちらりと触手の塊を見る。


あの中にいる。


ルネルが助けてくれと言った“あの子”が。


ただ斬って終わりにはできない。


「……ルネル」


背後の気配へ声をかける。


ルネルはまだふらつきながらも、俺のすぐ後ろでどうにか立っていた。


その銀灰の瞳は、薄暗い広間の中でかすかに光を帯びている。


「しっかり掴まっていてくれ」


短く告げる。


ルネルは一瞬だけきょとんとしたあと、小さく頷いた。


次の瞬間、俺はルネルの身体を引き寄せるようにして、無踏(むとう)で一気に踏み込んだ。


そのまま触手の束の脇を抜けようとした、その時だった。


「――なん、だ……」


左目に映る景色が、急に変わった。


――いや、変わったというより。


別の何かが重なった、と言った方が近い。


深く、暗い世界。


左目にだけ見えていた、底知れない闇の中の異形。


その中心にある黒い巨大な淀み。


そこへもう一つ、淡く光る線が流れ込んでくる。


細い。


澄んでいるようにも見えた。


だが、それが何なのかは一目では分からなかった。


線、のようなものだった。


黒くうごめく塊の奥で、糸のように細い何かがいくつも走っている。


触手とも違う。


光とも違う。


斬り結ぶ最中だというのに、左目にだけ別の景色が差し込んできたようで、一瞬ひどく気が散った。


「……何だ、これ……」


次の瞬間、腕の中のルネルが小さく身じろぎし、俺の肩へ触れていた指先が離れた。


途端に、その細い線は消えた。


残ったのは、いつもの左目に映る深く暗い歪みだけ。


触手の塊はなおもそこにある。


だが、その奥に見えていたはずの“何か”は、跡形もなく消えていた。


「……消えた?」


見間違いだったのか。


そう思いかけた、その時。


よろめいたルネルを支え直した拍子に、再び彼女の手が俺の腕へ触れる。


――また、見えた。


今度ははっきりと分かる。


見間違いとか、偶然じゃない。


ルネルと触れている時だけ、左目の奥に別の情報が流れ込んでくる。


細い線。


幾筋も走る、澄んだ流れ。


しかもそれはでたらめに漂っているわけじゃない。


どこか一定の法則で繋がり、結ばれ、重なっているように見えた。


――また、見えた。


今度ははっきりと分かる。


見間違いでも偶然でもない。


ルネルに触れている時だけ、左目の奥へ別の情報が流れ込んでくる。


黒い塊の奥を、細く澄んだ何かが一定の法則で走っていた。


試しに、目の前へ伸びてきた触手を斬ってみる。


触手そのものは、いつも通り青い粒子となって崩れた。


それと同時に、見えていた細い線もまた断ち切られ――いや、切れたというより、弾けるように散った。


淡い粒子と、よく似た消え方だった。


「……まさか……」


そこでようやく、一つの考えが浮かぶ。


魔素の流れ。


あるいは、それに近い何か。


まだ断言はできない。


だが、ただの幻にしては、動きに法則がありすぎた。


その時、不意に背中越しにルネルの声がした。


「……上」


「っ!」


反射的に身体を捻る。


次の瞬間、左目に見えていた細い線が、天井の継ぎ目へ向かって一気に走った。


そこへ黒が集まり、触手が突き破るように飛び出してくる。


紙一重で躱す。


着地した瞬間、今度は。


「……下」


掠れた声。


視線を落とせば、床の下を這うように、同じ細い線がこちらへ伸びてきていた。


咄嗟に無踏(むとう)で踏み込みをずらす。


直後、さっきまで立っていた場所を、地面の下から触手が貫いた。


「……見えてるのか」


思わず呟く。


返事はない。


だが、背中越しに触れるルネルの指先が、びくりと小さく震えた。


その反応に、胸の奥がわずかに引っかかる。


今のは、ただ触手に怯えた動きとは少し違った。


また触手が来る。


天井。


床。


左右。


見えている細い線の先を追うようにして身体をずらし、飛び出してきた触手を紙一重で避ける。


着地と同時に、短く息を吐いた。


「……細い線みたいなものが見える」


自分でも、何を言っているのか少し曖昧だった。


「光じゃない。触手とも違う。天井とか床を、這うみたいに走ってる」


言いながら、もう一度左目で追う。


黒い塊の奥で、澄んだ何かが結ばれ、重なり、流れている。


そう呟くと、背中越しにルネルがもう一度はっきりと身を強張らせた。


今度の反応は、さっきよりずっと分かりやすかった。


沈黙が、ほんの一拍だけ落ちる。


それから。


「……アベルマスにも、見えるの?」


掠れた声だった。


けれど、さっきまでの焦りだけじゃない。


その奥に、確かめるような響きが混じっていた。


ルネルの言葉になんとなく、彼女にも何かが見えているということを察した。


「……ああ。正体までは分からない。でも、さっき触手を斬った時、一緒に切れて弾けた。たぶん……魔素の流れに近い何かだ。 ルネルに触れている時にしか見えないようだが」


まだ、そこまで分かったわけではない。


そのため我ながら随分と曖昧な言葉になっていた。


だが、それを聞いたルネルは小さく息を呑んだ。


次いで、俺の服を掴む指先に、ほんの少しだけ力がこもる。


気のせいかもしれない。


それでも、背中へ預かる体温が、さっきより近くなったように感じた。


「……そっか」


ひどく小さな声だった。


けれど、その声音はわずかに柔らかかった。


俺に見えているものと、ルネルに見えているものがまったく同じかどうかは分からない。


だが少なくとも、こいつもまた、俺には見えない何かを捉えていた。


そして今、その一端が俺にも見えている。


なら――


触手の束の奥。


黒い塊の中心付近。


無数の眼と蠢く肉に隠されて、普段なら決して見えない場所。


そこにひとつだけ、異様に色の違う箇所がある。


澄んだ流れの上へ、無理やり黒を縫い込んだような歪な継ぎ目。


傷跡。


あるいは、異物同士を無理やり縫い合わせた醜い縫合。


――多分、あれだ。


深き者と、この触手の塊を繋いでいるのは。


背中越しに、ルネルの指先がまた小さく震えた。


「……そこ……」


掠れた声だった。


「そこだけ……ちがう……」


また触手が来る。


だが、さっきまでとは違う。


もう、迷う必要はなかった。


どこを斬るべきか。


どこへ届かせればいいのか。


それだけ分かれば、十分だ。


目を閉じる。


闇の中に浮かぶ黒い巨塊。


その奥で、ただひとつ不自然に歪んだ継ぎ目。


余計なものはいらない。


厚い触手も。


蠢く眼も。


再生する肉も。


全部、邪魔なだけだ。


斬るべきは、ひとつだけ。


「……いける」


小さく息を吐く。


それはルネルに聞かせるための言葉だったのか、自分に言い聞かせるためのものだったのか、自分でも分からない。


ただ一つだけ確かなのは、この瞬間だけは確信があったということだ。


この時代で目を覚ましてから、こんなにも“届く”と確信できたことがあっただろうか。


触手の束が迫る。


視界を覆い隠すほどの黒が、一斉に押し寄せてくる。


その向こうへ。


俺は剣を振るった。


大きく斬り裂いたわけじゃない。


分厚い壁を両断したわけでもない。


刃はただ、最短の軌道でその一点へと滑り込んだ。


厚い触手の壁を越え。


ルネルの眼を借りて見えた、あの歪な継ぎ目へ。



無影一刀流――





【第六式・綻境破岸(たんかいはがん)






振り抜いた感触は、奇妙なほど薄かった。


肉を裂く感覚ではない。


骨を断つ感覚でもない。


ただ、固く噛み合っていた何かが、たしかに外れた。


――その瞬間。


すべての触手の動きが、ぴたりと止まった。


次いで。


広間いっぱいに、耳障りな音が響き渡る。


悲鳴に似ている。


だが、人の喉から出る音では到底ない。


言葉にならない何かが、空間そのものを震わせながら絶叫していた。


「――ッ!」


思わず顔をしかめる。


触手の塊が内側から崩れ始めた。


巨大な肉塊のあちこちに亀裂が走り、そこから青い光が漏れ出す。


やがてその全体が、青い粒子へ還元されるみたいに、端から順にほどけていった。


触手が消える。


眼が消える。


蠢きが消える。


そして、その中心から。


小さな影が、ゆっくりと落ちてきた。


「……!」


ルネルが俺の背から離れ、ふらつきながらもその影へ両腕を伸ばす。


落ちてきた“それ”を、今度はきちんと抱き留めた。


ルネルの腕の中にいる深き者は、最初に見た時よりずっと存在が薄れていた。


あの時みたいに、見ただけで吐き気が込み上げることはない。


今はただ、子どもほどの大きさの黒い影にしか見えなかった。


ルネルは、ようやく取り戻した何かを抱きしめるみたいに、その影をそっと胸へ寄せる。


「……よかった」


小さく息を吐く。


その声音には、心の底から安堵しているのが滲んでいた。


それからルネルは顔を上げる。


「アベルマス」


マルヴェルへ来てから、ルネルはずっと無表情だった。


けれど、その時だけは違った。


「ありがとう」


――俺は、そこで初めてルネルの笑顔を見た。


静かな夜空にかかる月みたいな、澄んでいて、けれどどこか吸い込まれそうになる微笑だった。


強引に魔素を回し、限界近くまで集中した反動で、もう身体は鉛みたいに重い。


息も浅い。


膝も笑いそうだった。


それでも、返事くらいはできる。


なぜかその笑顔を正面から見続けることができなくて、少しだけ視線を逸らしながら答えた。


「……どういたしまして」


それで、全部終わったのだと。


ほんの一瞬だけ、そう思った。


だから。





「私も、感謝を申し上げるべきでしょう」


――唐突に響いた、どこか聞き覚えがあるようで聞いたことのない声。


その声のことを考える間もなかった。


次の瞬間、視界へ飛び込んできた光景に、俺は凍りつく。


「……え?」


ルネルが僅かな声を漏らし視線を下に落とす。


――腕、だった。


いつの間にかルネルの背後へ立っていた、誰かの腕。


「皆さんのおかげで、今回はずいぶん楽に回収できました」


歌うように楽しげな声でそう告げながら、その腕は。


「本当に、ありがとうございます」


――ルネルと、深き者を、まとめて貫いていた。

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