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第五章:深き海の呼び声(7)

触手に侵された指先が、届いた。


その瞬間だった。


深き者の輪郭が激しく揺らいだ。


もともと曖昧だった形が、さらに不安定になる。


子どものように見えていた小さな影が、水面へ落とされた月の像みたいにぶれて、崩れ、歪み、それでもなお“そこにいる”という感覚だけを残して揺れていた。


男の全身を侵していた触手が、一斉にざわりと波打つ。


まるで待ち焦がれていたものを見つけたみたいに。


あるいは、飢えきった獣がようやく餌へ辿り着いたみたいに。


無数の触手が深き者へと群がった。


「おお!これが……あ……?」


さっきまで狂気と歓喜に満ちていた男の顔が、初めて別のものに歪む。


困惑。


それも一瞬だった。


「……あ、ああああああッ!?」


次の瞬間には、男は両手で頭を抱え、その場へ崩れ落ちていた。


それでも触手だけは止まらない。


男の意志とは無関係に、いや、男自身すら置き去りにして、深き者へ、深き者へと集まっていく。


「――アアアアアアアアアアアアアッ!!」


獣じみた絶叫が、広間いっぱいに響き渡った。


――その一連を、少し離れた暗がりの中で眺めていたものがいた。


『本当に、愚かな男ですね。』


面白がるように、自然と微笑みが浮かぶ。


『資格もなく、鍵でもない者が、あれに触れるなど』


心底、愉快そうに。


『自殺行為だったとしても、救いのないやり方なのがまた面白い』


もっとも。


あそこまで執着し、壊れると分かってなお手を伸ばしたその妄執だけは、少しばかり感心に値するのかもしれない。


どうせ壊れるのなら、せめて最後くらいは場を盛り上げてもらいたいものだ。


暗がりの中の視線が、ゆっくりと別の方向へ滑る。


黒い髪の少年。


その腕の中には、意識を失った銀髪の少女。


『――さて』


静かな興味だけを滲ませて、その気配はなおも成り行きを見守っていた。


『お手並み拝見と行きましょう』




・ ・ ・




男の絶叫と同時に、深き者へまとわりついていた触手が一斉に膨れ上がった。


ブクリ、と。


肉の塊が内側から腐りながら膨張するみたいに、醜く脈打つ。


次の瞬間には、男の全身を覆い隠すほどの勢いで爆発的に触手が噴き上がっていた。


「……っ」


思わず息を呑む。


触手の束はなおも成長を続ける。


四アルト、いや五アルト近くはあるだろうか。


黒くぬめった塊が、さっきまで人間だったものの上に異様な速度で積み重なり、絡まり、脈動しながらひとつの巨大な肉塊じみた形を成していく。


その表面で、何かが蠢いた。


小さな、細い裂け目。


それが一本、また一本と、黒い触手の表面に走る。


そして。




――ギラリ。




そこから目が開いた。


ひとつではない。


十でも足りない。


数えきれないほどの眼球が、触手の表面という表面からぬらりと覗き、勝手気ままに周囲を見回し始める。


あるものは天井を。


あるものは床を。


あるものは何もない壁を見つめ、あるものは俺たちを見た。


統一感などまるでない。


それなのに、そのばらばらな視線が集まって存在しているという事実そのものが、ぞっとするほど気味が悪かった。


全身に鳥肌が立つ。


恐怖、とは少し違う。


もっと生理に近い。


人間という生き物の根っこの部分が、これは見てはいけないものだと拒絶しているような、そんな嫌悪感だった。


この迷宮へ入ってから理解できないことばかり起きている。


だが、この第四層へ降りてからの出来事は、そのどれとも質が違った。


異常とか、異形とか、そんな言葉では足りない。


これは、どこか世界の法則そのものがひしゃげて見える類の気持ち悪さだ。


「……くっ……!」


左目の奥で、また何かが蠢いた。


焼けるような熱。


だがそれだけじゃない。


深く沈んでいた何かが、さっきよりももっと強く刺激されている。


左目に映る世界は、ひたすらに深く、ひたすらに暗かった。


その深淵みたいな景色の真ん中で、あの触手の塊だけが、右目で見るよりもずっと巨大に見える。


右目では広間でうずくまる異形の怪物。


左目では、底知れない闇の真ん中に膨れ上がる巨大な淀み。


その食い違いに、ひどい眩暈がした。


だが、その一方で――さっきまで全身を押し潰すかのようだった圧迫感そのものは、完全に消えていた。


普通に動ける。


今なら、走れる。


俺は腕の中のルネルを抱え直し、そのままイチたちの方へ一気に下がった。


アンナ先輩もアネタ先輩も、目の前の触手の塊を警戒しながらこっちへ寄ってくる。


だが三人の顔に浮かんでいるのは、警戒だけじゃない。


混乱、そして困惑。


理解の追いつかない現実への戸惑いが強く見られる


それは俺も同じだった。


何が起きたのか。


男が何をしようとしていたのか。


なぜ、今はあんな状態になっているのか。


分からないことだらけだ。


――けれど、そんなものは関係ない。


もともと、俺たちはこの迷宮を調べに来たわけではない。


ルネルを探すために、ここまで来た。


そしてそれは、既に達成した。


なら、もうここでとどまる理由はない。


ここの事は気になるが、それは俺たちの領分ではない。


ギルドか、治安維持部隊か、とにかく外へ知らせるべきだろう。


そう思って辺りを見る。


最初に入ってきた階段へ戻った所で、あの隔離区画と呼ばれたところに戻るだけだ。


そしてあの道は隔離区画に入った時点で塞がれている。


別の道を探すしかない。


幸いに、広間では繋がっている別の通路がいくつか見えていた。


迷っている暇はない。


「とりあえずここから退こう。 あっちに行こう」


短く告げると、イチたちが頷く。


三人は俺たちを庇うようにしながら、別の通路へ向けて走り出した。


俺もその後に続いた。


三人が通路へ踏み込んだ、その瞬間だった。


腕の中で、かすかにルネルが身じろぎした。


「……っ……」


視線を落とす。


閉じられていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。


「……ここ、は……」


夢から引き戻されたばかりみたいな、ぼんやりした声だった。


だが、その眼を見て、俺は息を止めた。


やはり見間違いじゃない。


ルネルの銀灰の瞳は、かすかな光を放っていた。


一瞬足が止まる。


それが、致命的な失敗となった。


触手の塊に無数に生えた眼が、ぴたりと動きを止める。


次の瞬間、すべてが一斉にこちらを向いた。


一瞬、静寂が落ちた。


――いや、違う。


俺ではない。


――ルネルだ。


あの眼のすべてが、ルネルだけを見ている。


同時に、足元で何かが動くような振動が感じられた。


反射的に無踏(むとう)で後ろに下がった。


直後、今まで立っていた場所を突き破るように、黒い触手が地面の下から噴き出した。


それで終わりではなかった。


広間へ繋がる全ての通路へ、同じように触手が伸びる。


壁から、床から、天井から。


黒い束が一気にうねり、俺たちと出口の間を塞いでいく。


「アベル! ルネル! くそっ、斬ってもすぐ戻る!」


通路の向こうからイチの叫びが飛んだ。


炎よ貫け(フレイム・ランス)……! ……だ、だめ……! この杖で使える魔法じゃ……!」


アネタ先輩の焦った声も続く。


「そっちは無事!? 返事して!」


アンナ先輩の声が、触手の向こうから響いた。


「こっちは無事です!」


叫び返す。


どうやら、完全に分断されたらしい。


触手の壁にも、あの肉塊と同じ眼がいくつも生えていた。


そのすべてが、まばたきひとつせずルネルを凝視している。


まるで悪夢だ。


あいつはルネルを逃がす気なんかないようだった。


その時、腕の中のルネルが自分で身体を起こした。


ふらつきながらも、どうにか立つ。


足元はおぼつかない。


だが、その目には確かに意志が戻っていた。


ルネルは触手の塊を見た瞬間、はっきりと目を見開いた。


「……だめ……」


ひどく小さな声だった。


だが、その声には今までになかった焦りが滲んでいる。


そして次の瞬間、ルネルはそのまま触手の塊へ歩き出そうとした。


「待て、ルネル!」


咄嗟に腕を掴む。


ルネルはそこでようやく、自分を止めた相手が誰なのか認識したみたいに、俺の手と顔を交互に見た。


ぱち、と一度。


それからもう一度、ゆっくりと瞬きをする。


「……アベルマス……?」


その声には、わずかな戸惑いと確認の響きがあった。


次の瞬間。


ルネルは不意に、縋るように俺へ抱きついた。


「――っ」


一瞬、何が起きたのか分からなかった。


身体が固まる。


自分でも間の抜けた顔をしている自覚があった。


ルネルはそんな俺を見上げる。


薄暗い広間の中で、その瞳の端に、別の光るものが見えた。


――涙だった。


そこでようやく、俺は本当に動けなくなった。


ルネルが泣く。


そんな光景を、少なくともマルヴェルへ来てから一度も見たことがない。


「……お願い」


掠れた声だった。


それでも、その一言だけは妙にはっきりと耳に届く。


続く言葉は、もっと俺を止めた。


「……あの子を、助けて」


「……は?」


思わず、間の抜けた声が漏れた。


助ける?


今、ルネルは確かにそう言った。


視線が自然と、広間の中央にうごめく巨大な触手の塊へ向く。


あれを?


いや、多分――違う。


ルネルが見ているのは、あの怪物そのものじゃない。


あの中へ呑み込まれた、深き者の方だ。


理解はできない。


できないが、ルネルの目は冗談や錯乱で言っているようには見えなかった。


あれは本気だ。


あの怪物を倒して終わりではなく、その中にいる“何か”を救けてと、ルネルは俺に頼んでいる。


背後で、触手の壁を斬りつける音がした。


「アベル! 聞こえるか! そっちに戻れねえ!」


イチだ。


その声には、苛立ちと焦りが混ざっている。


俺はすぐには答えられなかった。


ルネルはまだ俺の服を掴んだまま、小さく震えている。


広間では、あの触手の塊が、まるでこちらがどう出るのかを窺うみたいに蠢いていた。


眼のいくつかがゆっくりと動き、俺とルネルの動きを確かめるようにじっと止まる。


「……イチ」


ようやく口を開く。


自分でも、声が妙に低くなっているのが分かった。


「先輩たちを連れて、先に出口を探してくれ」


「はあ!?」


即座に返ってきた声には、明確な拒絶があった。


「何言ってんだ! お前、まさかここに残る気か!?」


「……ああ」


「ふざけんな! ルネルは見つかったんだぞ! だったら今は戻るのが先だろ!?」


正論だった。


俺だって、ついさっきまでそう思っていた。


だが。


「……少し、野暮用ができた。」


短くそう返す。


「は?」


通路の向こうで、イチが絶句した気配がした。


「……いや、意味が分かんねえぞ」


「俺にも分からない」


それは本心だった。


何がどうなっているのか、本当に分からない。


だが、それでも。


「でも、やらない手はないようだ」


その一言だけは、妙にはっきりしていた。


しばらく返事がない。


触手の壁の向こうで、重い沈黙だけが続く。


やがて。


「……っ、くそ……!」


押し殺したような声がして。


「死ぬなよ」


イチが、低く吐き捨てるように言った。


それが、こいつなりの承諾だった。


「先輩たちを連れて先に行く! でも、必ず戻って来るからな!」


「……ああ」


短く返す。


その直後、通路の向こうで足音が鳴った。


最初はその場に踏みとどまるような迷いを含んでいた音が、やがてはっきりと遠ざかっていく。


アンナ先輩が何か言う声。


アネタ先輩のか細い返事。


そしてイチの足音だけが、最後まで少しだけ残って――それもやがて、聞こえなくなった。


完全に、静かになる。


残ったのは、俺とルネル。


そして、触手の塊と化したあの異形だけだ。


異形はすぐには動かなかった。


無数の眼が、相変わらずこちらを見ている。


俺はルネルを背後へ庇うように一歩前へ出た。


ゆっくりと、腰の剣へ手をかける。


鯉口を切る音が、やけに大きく響いた。


引き抜く。


黒き刃が、薄暗い広間の中で鈍く光る。


目の前の怪物はまだ動かない。


ただ無数の眼だけが、じっとこちらを見ていた。


こちらもすぐには踏み込まない。


あの中にいる深き者を助ける。


そう決めた以上、ただ斬ればいいわけじゃない。


見極める必要がある。


どうすればいいのかは、まだ分からない。


「でも、やるしかない」


俺は剣を構えたまま、目の前の異形を睨み据えた。


あの中にいる“あの子”を助けるために。

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