第五章:深き海の呼び声(6)
ルネルが虚空へ手を伸ばし、何かを掴んで引きずり出すような動作をした、その直後だった。
何もないはずの空間から――いや、もっと深く、もっと暗い、別の場所から。
――“何か”が、現れた。
「……くっ!?」
息を呑む。
その瞬間、部屋の空気が変わった――と、最初は思った。
だが違う。
変わったのは空気なんかじゃない。
空間そのものが、ぐっと一段深いところへ引きずり下ろされたような感覚だった。
足の裏はたしかに床を踏んでいる。
それなのに、その感覚が妙に遠い。
水底へ沈んだまま無理やり立たされているような、現実感の薄い足場。
そのくせ、四方八方からは目に見えない圧力が容赦なく押し寄せてくる。
強い。
というより、重い。
その重さそのものが意思を持って、こちらを押し潰そうとしてくるようだった。
「ぐっ……!?」
一人、また一人と、ローブの男たちがその場へ崩れ落ちた。
膝から落ちる者。
そのまま顔面から床へ叩きつけられる者。
白目を剥き、口の端から泡をこぼして痙攣している者までいる。
立っている者も無事ではない。
歯を食いしばりながら膝をつき、肩を震わせ、まともに息もできない様子だった。
「く、くはっ……は、はは……はははははッ!! あれが……あれこそが……ッ!」
その中でただ一人、年嵩の男――おそらくこいつらの頭目だけが、苦悶に顔を歪めながらも、歓喜に打ち震えていた。
目は血走り、頬は上気し、苦しいはずなのに口元だけが笑っている。
まともな人間の顔ではなかった。
当然、俺たちも無事ではない。
「……な、何よ……これ……!」
アンナ先輩がその場へ座り込み、身体を強張らせる。
「す、息が……っ、苦しい……」
アネタ先輩は胸元を押さえ、浅い呼吸を繰り返していた。
イチも顔をしかめ、まともに動かない身体を無理やり支えながら、よろめくアネタ先輩を抱えるようにして踏み止まっている。
「アネタ先輩! くっ……!」
俺は左目を手で覆った。
左目の奥が、焼けるように熱く、内側から裂けるように痛い。
――いや、ただ痛い、なんて言葉ではまるで足りなかった。
初めて味わう種類の痛みだった。
ずっと深い場所に沈んでいた何かが、あれに反応してゆっくりと浮かび上がろうとしている。
そんな感覚があった。
それは単なる痛みではなく、生理的な嫌悪を伴う異質な疼きだった。
目の奥を、知らないものが内側から撫でてくる。
気持ち悪い。
本能が、見てはいけないと告げていた。
それでも、俺は左目をこじ開ける。
――いったい、何なんだあれは。
ルネルの手に引かれるように現れたそれは、小柄だった。
遠目には、痩せた子どものように見えなくもない。
だが、それは決して人ではない。
全身の輪郭が定まらない。
影が人の形を真似ている、と言えばまだ近いかもしれない。
……いや、それすら違う。
形があるように見えるのに、形があると断言できない。
それは“存在”というより、空間そのものが人の輪郭に沿って切り抜かれた“穴”のように見えた。
見つめるほどに焦点がずれる。
目の前にいるはずなのに、距離の感覚が噛み合わない。
輪郭の向こう側に、果てのない暗闇が広がっているような錯覚。
見えているはずなのに、見たものを言葉にしようとすると、その形だけが頭の中からこぼれ落ちていく。
脳が理解を拒んでいるのか、見れば見るほどひどい眩暈と吐き気が込み上げてきた。
左目にだけ映る黒い塊が、一斉にそれへ向かって流れ込んでいく。
吸われている、というより――戻っている。
本来あるべき場所へ、世界の淀みそのものが帰っていくみたいに。
それだけで分かった。
――あれは、この世界の側にいるべきものじゃない。
ルネルはそんな“それ”の手を、静かに握っていた。
横顔を見れば、表情はまだどこか夢の中にいるようにぼんやりとしている。
だが、眼だけは違った。
銀灰の瞳が、薄暗い部屋の中で確かに光を宿していた。
そんなルネルと“それ”へ向かって、頭目の男が一歩、また一歩と無理やり足を進めていく。
「おお……深き者よ……! 真理へ至る唯一の御身よ……!」
その声は震えていた。
苦痛のせいだけじゃない。
渇望だ。
飢えきった人間が、ようやく求め続けたものを目の前にした時の声だった。
俺もまた、ルネルの方へ踏み出そうとした。
その瞬間。
それ――頭目の男が深き者と呼んでいた存在が、こちらを見た。
……見た、と思った。
輪郭は曖昧だ。
顔がどちらを向いたのかも、視線というものが存在するのかも分からない。
それでも確かに、“見られた”と感じた。
次の瞬間。
「がっ……!」
肺が潰れたかと思った。
圧力が、さらに増した。
ただの思い込みじゃない。
足元の石床が、俺を中心に微かに削れ始めていた。
細かな砂のような粉が、きしりと音を立てて散る。
頭目の男も同じだった。
男は地面へ手をつき、這いつくばるような姿勢のまま苦悶の息を漏らしている。
そして、その時。
――コナイデ
声、ではなかった。
音でもない。
なのに、確かに頭の内側へ直接響いた。
意志。
それに近い何か。
意味だけが、いきなり流し込まれてくる。
来るな。
触れるな。
近づくな。
理屈は分からない。
だが、一つだけはっきりしている。
それは明確な拒絶だった。
深き者は、ぼんやりと立ち尽くすルネルへ、そっと身を寄せた。
それを目にして。
頭目の男の顔が、音を立てるように崩れた。
それは苦痛のせいではない。
長年抱き続けた願いが、目の前で無惨に砕け散った時の顔だ。
「……なぜだ」
搾り出すような声だった。
「……なぜ、その娘にだけ……」
呆然。
困惑。
理解不能。
その全てが、次の瞬間には煮え立つような怒りへ変わっていく。
男は血走った眼でルネルを睨みつけた。
「……あの娘だ」
歯を軋ませながら、男は懐へ手を突っ込む。
取り出したのは、小さなガラス瓶だった。
その中には、見覚えのあるものが詰まっていた。
魔獣に寄生していたものとよく似た、醜くねじれた黒い触手。
「貴様のせいだ……! 貴様のせいで、深き者が……!」
男の顔は憎悪に染まっていた。
希望を奪われた、獣のような顔だった。
喚きながら、男は瓶の蓋をねじ開け、その触手を掴む。
そして、そのまま。
「ああ、あああああッ! 許さぬ、許さぬ、許さぬッ!!」
――躊躇なく口の中へ押し込んだ。
「が――ぁ……ッ」
人の喉を通るはずのない大きさだった。
それなのに、触手はぬるりと滑り込むように男の喉を通過していく。
首があり得ないほどに膨れ上がる。
その膨らみが、ゆっくりと喉から胸、胸から腹へと下りていくのが見えた。
一瞬。
男の全身がぴたりと止まった。
次の瞬間、激しく痙攣する。
骨が軋む音がした。
肉が内側から引き裂かれる音も。
そして――
ブチュリ、と嫌な音がして。
男の右手の掌を突き破り、黒い触手が飛び出した。
続けて左脚。
次の瞬間には、全身のあちこちから血飛沫とともに無数の触手が噴き出した。
それはまるで、人間の皮を被っていた何かが内側から孵化してくるような光景だった。
気がつけば、男の身体の大半は触手に侵されていた。
「ひっ……!」
後ろで息を呑む気配がした。
振り返らなくても、仲間たちが衝撃を受けていることが伝わる。
今しがた目にした、寄生された魔獣たちの姿が脳裏を過る。
だが、魔獣の時とは比べものにならない。
人の身体がこうも容易く壊れ、別のものへ作り替えられていく様は、嫌悪を通り越して吐き気を催すほどだった。
それでも。
「……渡、サ……ン……」
男は生きていた。
触手に覆われた顔の奥で、血走った目だけが異様にぎらついている。
男はゆっくりと立ち上がる。
深き者の圧が消えたわけではない。
現に、男の足元の石床もなお削れ続けていた。
それでも立った。
その姿は、もはや執念そのものだった。
「ソ……レ……ハ……ワレラノ……イヤ……私ノモノダァ……!!」
男が床を蹴る。
近づくほどに身体が壊れていくのが見えた。
一歩踏み出すたびに脚の皮膚が裂ける。
腕は不自然な方向へねじれ、眼窩から溢れた血が涙のように頬を伝っていた。
それでも止まらない。
そして。
掌を突き破って伸びた触手が、鞭のようにしなる。
「――ルネル!」
反射的に叫ぶ。
しかし、一瞬遅かった。
触手がルネルの身体を打ち据え、その小さな身体が横へ弾き飛ばされる。
俺は咄嗟に魔素で身体を強化した。
左目の痛みも、押し潰されるような圧も、全部無視して踏み込んだ。
受け止める。
腕の中へ飛び込んできたルネルの身体は、ぐったりとしていた。
外傷は大きくない。
呼吸もある。
規則的に胸が上下している。
だが――冷たい。
ぞっとするほど、その体は冷たかった。
「オオオオオッ!!」
その隙に、男が手を伸ばす。
深き者へ。
触手に侵された指先が、その存在へ――届いた。
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