第五章:深き海の呼び声(5)
ルネルは歩いていた。
自分が今どこにいるのか。
どうやってここまで来たのか。
それは、よく分からなかった。
周囲の風景は一定の形を保っていない。
ある瞬間には深い海の底にいるように見え、次の瞬間には湿った洞窟の中を歩いているようにも見える。
暗い水の底に揺らぐ月明かり。
濡れた岩肌を伝う雫。
どこまでも沈んでいくような圧迫感と、息が詰まりそうな閉塞感。
それらが、まるで最初から同じ場所に重なっていたかのように、曖昧に混ざり合っていた。
色付き眼鏡のない今、ルネルの目には多くのものが見えすぎていた。
景色そのものよりも先に、そこを流れる根源魔素の筋が映る。
普段から人より過敏なその感覚は、今や暴力的ですらあった。
流れが一つではない。
幾重にも重なり、絡まり、海と洞窟と闇の境界さえ曖昧にしている。
見えている、というより。
流れの方から、無理やり目の奥へ流れ込んでくるようだった。
だが、今のルネルにはそれらを一つずつ捌くだけの明瞭な意識がない。
押し寄せる情報の洪水を、ただ受け流すことしかできなかった。
そもそも、彼女の意識そのものがひどく曖昧だった。
夢の中を歩いているような感覚。
足は地面を踏んでいるはずなのに、踏みしめている実感が薄い。
何かを考えようとしても、思考は水に溶けるようにほどけていく。
それでも。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
彼女は今、どこかへ向かっている。
――キテ
『……うん……』
頭の中へ直接響くような声だった。
声、というより。
今にも消えそうな灯火のような、か細い意志。
それでも、その呼びかけだけは不思議なほどはっきりと届いていた。
――ダレカ
『……今……行くから……』
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
この感情は何だろう。
悲しみ。
怒り。
懐かしさ。
どれも違うようで、どれも当てはまるような気がした。
あるいは、その全部が混ざっているのかもしれない。
――ダシテ
ただ一つだけ確かなのは、それがひどく痛ましいものだということだった。
『……会いに……行くから……』
どうしてか、頭の奥に誰かがうずくまっている姿が浮かぶ。
膝を抱え、必死に泣くのを堪えている小さな影。
暗い場所の隅で、誰にも届かないまま助けを待っているような――そんな姿。
夢の中のような危うい足取りで、ルネルは歩き続ける。
周囲の景色が海へ変わろうと、洞窟へ変わろうと関係ない。
身体が時折ふっと軽くなり、逆に次の瞬間には別の場所へ押し出されるような違和感があっても、彼女は立ち止まらなかった。
何かに導かれるように。
何かに引かれるように。
ただ、その場所へ向かうためだけに。
・ ・ ・
階段を下り、四層へ足を踏み入れた瞬間、俺は思わず顔をしかめた。
空気が重い。
今までの階層とは比較にもならないほどだ。
単に湿度が高いとか、空気が淀んでいるとか、そういう話じゃない。
見えない何かが、四方からじわじわと身体を押し潰そうとしてくるような圧迫感があった。
しかも、左目にだけ映る黒い塊は、もはや通路全体を満たしている。
壁も床も天井も、その隙間という隙間に黒い淀みが滲んでいた。
「……息苦しいな」
イチが顔をしかめる。
「な、なんだか……胸が重い、わね……」
アンナ先輩も低く呟いた。
アネタ先輩は小さな杖を胸元で握りしめながら、こくりと頷く。
どうやらこの異様な圧迫感は、俺だけでなく三人にも感じ取れているらしい。
俺たちは自然と歩みを緩めた。
足を前へ出すたび、水の底を歩いているような妙な抵抗感がある。
通路は静まり返っているのに、耳の奥ではどこか遠くの水音にも似たざわめきが途切れなかった。
その時だった。
通路の先、何もなかったはずの場所で、左目に映る黒い淀みが薄膜のように裂けた。
「……え?」
何もない空間から、押し出されるように銀色の後ろ姿が滲み出る。
見間違えるはずがない。
特徴的な銀髪。
細い背中。
不安定な足取り。
――ルネルだ。
一瞬、俺たちは全員その場で固まった。
そして次の瞬間には、誰もがほっと息をつく。
「おい! ルネル! お前こんなところに――」
イチが叫びながら駆け出そうとした、その瞬間だった。
ルネルの輪郭がぶれた。
右目には、ただ一瞬で姿が消えたようにしか見えない。
だが、左目には違った。
黒い塊がルネルの足元から這い上がり、背景そのものへ同化するように、その輪郭が溶け込んでいく。
「……は?」
走り出しかけた姿勢のまま、イチが間の抜けた声を漏らした。
俺も、先輩たちも、似たような顔をしていたと思う。
今のは何だ。
幻だったのか。
いや、違う。
少なくとも、俺だけが見たわけじゃない。
全員がルネルを見た。
それに、単なる幻にしては、さっきのルネルにはあまりにもはっきりとした実体感があった。
困惑のまま互いの顔を見合わせた、その時だった。
「あ……! ルネルさん!」
アネタ先輩の声が響く。
再び、ルネルが現れた。
今度はさっきよりも明らかに遠い。
通路の先、薄暗い角の向こうに、あの銀髪が一瞬だけ揺れた。
左目の奥が、ズキリと脈打つ。
今度は、彼女の背後にほんの一瞬だけ通路ではない何かが見えた気がした。
底の見えない、深く暗い空間。
まるでルネル自身がそこから零れ落ちてきたみたいに。
「追うぞ!」
考えるより早く、俺は駆け出していた。
イチたちも慌てて後に続く。
ルネルの背へ手を伸ばす。
届く――そう思った、その直前でまた彼女の姿が揺らいだ。
「また消えた!?」
イチが叫ぶ。
「な、何なのよ、これ……!」
アンナ先輩の声にも焦りが滲む。
「ゆ、幽霊……じゃ、ないよね……?」
アネタ先輩の声は震えていた。
当然だ。
俺だって理解できていない。
一度だけなら、目の錯覚だったと誤魔化せたかもしれない。
だが、二度も続けばそうもいかない。
そして――二度あることは三度ある、というべきか。
ほどなくして、今度は分かれ道の右奥で、またルネルが姿を見せた。
イチと先輩たちは、追うべきか迷ったように一瞬足を止める。
だが、俺は止まらなかった。
何が起きているのかは分からない。
それでも、あれがルネル本人だという妙な確信だけはあった。
「アベル!」
「追うぞ!」
短く答え、その後を追う。
何度目かの出現と消失を繰り返しながら、俺たちは迷宮の奥へ引きずられていった。
――やがて通路が開け、広い空間へ出た。
そこには十数人ほどのローブ姿の集団がいた。
木箱。
鉄製の器具。
何かの液体が入った瓶。
布に包まれた細長い荷。
床には雑に引かれた魔法陣のような線と、使い終えたらしい蝋燭の残骸。
どう見ても、戦闘のために待ち構えていた連中ではない。
まるで何かの準備をしていたように見える。
そしてそいつらは、こちらを見るなり動きを止めた。
まるで、ここに俺たちが現れるはずがないとでも言うように。
「なっ……」
「どうして……!」
ざわめきが走る。
その中の一人――年嵩の男が、怒りに歪んだ声を上げた。
「どういうことだ! なぜあいつらがここまで来ている! 隔離区画に誘導して処理したのではなかったのか!」
その隣にいた男が、狼狽えながら答える。
「し、しかし! たしかに隔離区画へ閉じ込めました! どうしてここに……!」
その言葉で悟る。
こいつらは、俺たちがあの部屋で死んだと思っていたのだ。
自然と剣を握り直す。
相手が何者か、今さら説明を受ける必要もない。
ここまでの罠と、この迷宮の有様を見れば十分だ。
こいつらを放っておけば、ルネルも危ない。
無力化しなければ。
「……イチ」
「ああ、分かってる」
イチが低く応じる。
アンナ先輩も護身具を構え、アネタ先輩は杖を胸元で握りしめた。
その時だった。
またしても、空間がぶれた。
広間の奥。
他よりも厳重に鉄扉で封じられた通路の前に、ルネルが立っていた。
「……っ!」
息を呑む。
さっきまでそこには何もなかった。
それなのに今は、当たり前みたいにルネルがいる。
そんなルネルを、ローブの男たちも気づいた。
年嵩の男の視線がルネルへ向いた瞬間、その表情が段々と変わっていく。
最初は戸惑い。
次には驚き。
そして――ぞっとするほどの歓喜。
「お、おお……!」
男は熱に浮かされたような声を漏らした。
「その眼……! あの眼……光る眼差し……! 正に、深き者と繋がる者の証……!」
男の顔はもはや恍惚としていた。
「――鍵が、来た!」
その叫びに、周囲のローブ姿たちがざわめく。
だがルネルは、そんな声をまるで聞いていないようだった。
焦点の合わない目のまま、ゆっくりと鉄扉へ手を伸ばす。
・ ・ ・
この先だ。
ルネルは、ぼんやりとした意識の中で確かにそう感じていた。
この先に、助けを求める気配がある。
ゆっくりと、鉄扉へ手を伸ばす。
万物に宿る魔素の流れは、無機物であっても例外ではない。
今のルネルの目には、その流れの継ぎ目が痛いほど明瞭に見えていた。
金属を繋ぎ止め、扉として保っている連なり。
そこに走る細い筋。
重なり合い、噛み合い、固定し合っている流れ。
指先が触れた瞬間、それらがほどけた。
重いはずの鉄扉は、まるで最初から噛み合っていなかったかのように、左右へ音を立てて裂ける。
その奥にあるのは、小さな空間だった。
何もない。
少なくとも、普通の目にはそう見える。
だが、ルネルには見えていた。
この空間に重なる、別の場所が。
薄く、ずれたもう一つの層が。
そこに、“それ”はいた。
小さくうずくまり、深く、深く沈んでいる何か。
まるで泣くことすら諦めかけている子どものように、ただそこに蹲っている。
――ダシテ
ルネルはゆっくりと手を伸ばす。
その“何か”を包み込み、同時に閉じ込めていた薄膜のような境界が、指先の触れた瞬間に裂けた。
向こう側で、それが顔を上げる気配がした。
そして。
恐る恐る差し出されたその手が、ルネルの手を掴んだ瞬間。
――世界の綻びから、何かが零れ落ちた。
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