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第五章:深き海の呼び声(4)

罠を越えた先は、しばらく一本道が続いていた。


それが終わると左右の分かれ道。


一瞬どちらへ行くべきかと、足を止めた時。


左手の通路の角。


その向こうへ、布の裾のようなものがひらりと消えるのが見えた。


「……」


――おそらく……いや、間違いなく俺たちを誘っている。


さっきの罠だけでも十分思い知った。


あれは明らかに、こちらを殺すつもりで作られていた。


なら、この先にも何かを仕掛けてくるだろう。


その先にも、さっきと同じ明白な殺意が待っているはずだ。


――それでも、行かないわけにはいかない。


俺たちはこの迷宮について何も知らない。


ただ確かなのは、この迷宮に足を踏み入れた時点で、俺たちを殺すつもりの連中がいるということだ。


この迷宮の様子を見る限り、ここが連中の根城であることは間違いない。


なら、ルネルの居場所を知っているかもしれない。


そうでなくてもあいつらを放っておけばルネルが危ないかもしれない。


……頭の端っこで、既に手遅れかもしれない、という可能性が一瞬過ぎる。


だが、すぐにその可能性を否定した。


今はルネルが無事だと信じるしかない。


言葉にはしてないけど、それはみんな理解しているはずだった。


――危険だと分かっていても、追うしかない。


「……左に行こう」


短く告げると、イチも先輩たちも無言で頷いた。


俺たちは駆けるのではなく、あくまで慎重に、何が起きても対処できるよう意識を張り詰めたまま通路を進んだ。


角を曲がる。


すると、またしても通路の向こう、分かれ道の先で人影が左へ消えるのが見えた。


やはり間違いない。


完全に、こちらを誘っている。


それでも追う。


それを何度か繰り返した頃、通路の先に今までとは明らかに違う広い空間が見えてきた。


そこへ進入する。


部屋はかなり広かった。


その部屋の壁には、ところどころ鉄板のようなもので補強された跡があった。


しかも、その鉄板は外側へ膨らんだように歪んでいる。


――まるで、内側から何かが全力で破ろうとしたかのように。


「あいつ、何やっているんだ?」


イチが低く呟く。


部屋の中央には、ローブを纏った男が一人、ただ突っ立っていた。


少なくとも、何かをしているようには見えない。


……いや、待って。


一人?


さっきは、確かに二人いたはずだ。


――もう一人はどこへ消えた。


そう思った、その瞬間だった。


背後で、重々しい轟音が響いた。


振り返る。


今しがた俺たちが通ってきた通路の入口を、巨大な壁が塞いでいた。


「……っ、閉じ込められた!?」


アンナ先輩の声が強張る。


やはり、罠だった。


だが――だとしたら、あの男自身もここから出られないのではないか?


そんな疑問が浮かぶ。


しかし、ローブの男は逃げ道を失った人間の顔ではなかった。


頬を上気させ、どこか陶酔したような眼で、俺たちを見ている。


「君たちに個人的な恨みはない」


男が、独り言のように口を開いた。


「だが、この場所を見た以上、生かして帰すわけにはいかない。すべては、深き者の御眼の先にある理のために」


どこか熱に浮かされたような声音だった。


まともな人のようにはとても思えない。


「この身をもって、理への礎とならんことを!」


そう言うと、男は懐から小さな四角い箱を取り出した。


手のひらに収まる程度の大きさ。


上部には、押し込み式の突起がついている。


その突起へ指がかかった瞬間、部屋を囲む鋼鉄の壁が一斉に低く振動し始めた。


「何を……」


しようとしている?


と、聞くよりも早く、男はそれを押し込んだ。


次の瞬間。


壁のあちこちに並ぶ鉄板が、重い音を立てて横へずれた。


それはただの補強ではなかった。


扉だったのだ。


そして、その開いた暗闇の中から、何かが飛び出した。


長い。


ぬめる。


節も爪もない、ただひたすら粘ついた巨大な触手。


「おお――」


それは真っ先に、中央に立っていたローブの男へ向かった。


男が何かを言う暇もない。


何本もの触手が一瞬でその全身へ巻きつき、そのまま鋼鉄扉の向こうへ引きずり込む。


「が、ぁ――っ!?」


短い悲鳴。


直後、湿った肉を引き裂くような音と、硬いものがへし折れる嫌な音が重なった。


何度も。


――何度も。


音だけが鮮明に部屋の中で響く。


そして、しばらくして静寂が落ちた。


イチも、アンナ先輩も、アネタ先輩も、理解できないまま固まっていた。


俺も、似たようなものだった。


だが、呆けている場合じゃない。


ゾワリと背筋を撫でるような危機感に、俺は反射的に剣を構え直した。


開いた扉の一つから、それが這い出てきた。


「……っ!」


誰かが息を吞む音がした。


もしかすると俺だったのかもしれない。


現れた姿は、さっきまで遭遇していた怪物どもに似ている。


もともとは四足歩行型の魔獣だったのだろう。


だが、今やその原型は半ば失われていた。


前脚と胴の半分以上を、蠢く触手の束が侵食している。


顔の片側は崩れ落ち、そこからも細い触手が何本も垂れ下がっていた。


眼はあっても焦点が合っていない。


ただ、何かに突き動かされるように身体を揺らしているだけだ。


そして、その触手の一部は鮮明な赤に染まっていた。


まだ、乾いてもいない――血の痕跡。


部屋の中で黒い塊が急速に濃度を増やす。


ズッキリ――と、左目にもう何度目かわからないほどの痛みが走る。


だけど、ただ痛みだけではない。


もっと別の違和感が左目に残る。


不愉快、もしくは嫌悪感としか表現できない何かが。


「……なんだよ、あれ……!」


イチが歯を食いしばる。


それだけでは終わらなかった。


別の扉。


さらに別の扉。


そこからも、似たような“何か”が次々と姿を現す。


大きさも、もとの種もばらばらだ。


犬に近いものもいれば、爬虫類めいた這い方をするものもいる。


だが共通しているのは、どれも身体の大半を触手のようなものに侵されていることだった。


それらが一斉に、こちらへ触手を伸ばしてくる。


速さ自体は、そこまででもない。


背後は壁で塞がれているが、少なくとも今は挟み撃ちにはならない。


正面から来るなら、対処はできる。


「イチ! 先輩たちを頼む!」


「分かってる!」


イチがすぐに前へ出る。


その立ち位置は、自然とアンナ先輩とアネタ先輩を庇う形になっていた。


俺も踏み込む。


真っ先に伸びてきた触手を、剣で横薙ぎに断つ。


斬れた。


だが、終わらない。


切り落とされたはずの触手が、床の上でしばらくのたうつ。


しかも、その間にも本体の胴から別の触手が這い出ようとしていた。


「ちっ……!」


どうやら、一撃で終わる相手じゃないみたいだ。


正面の個体へさらに踏み込み、四足のうち残っていた脚を斬り払う。


巨体が傾ぐ。


そこへ首元――いや、まだ首と呼べる部分が残っている箇所へ刃を突き立てる。


切れた部分は青い粒子と変わり消えていく。


だが、残った触手が一気に迫る。


目の前の奴だけでなく、他の怪物どもも触手を伸ばしてきた。


それを躱しながら触手を切り落とした。


ただ斬るだけでは足りない。


そもそもこいつらは何だ?


切れた触手は青い粒子へ変わっていく。


魔獣、あるいは魔族に近い性質だ。


だが、そのどちらにも該当しないように見える。


改めて見る。


魔獣の身体を、触手が喰い潰しているように見えた。


――寄生、しているのか。


なら、本体の魔素核を断てばどうなる?


この時代の魔獣はみな魔素核をもって形成されている。


当然、魔素核が消えれば、体を維持できず消える。


そこまで思考が回るよりも早く、俺は魔素核ごとそいつの体を両断した。


触手が寄生していたせいか本来なら見えないはずの魔素核が露になっていたから狙うのは容易い。


ようやく、そいつは青い粒子へ崩れた。


だが、その直後だった。


仲間をやられて危険を察したのか、別の怪物どもが互いの触手を絡ませ始めたのだ。


その異様な光景につい目を見開く。


「……は?」


理解が追いつかない。


触手と触手が絡み、結びつき、肉の境目が曖昧になっていく。


まるで、もともとそうなるのが当然だったみたいに。


異形の怪物どもは、軋むような音を立てながら、ひとつの巨大な肉塊へと溶け合っていった。


「おい、冗談だろ……!」


イチが吐き捨てるように叫ぶ。


その巨大な塊から、まとめて何本もの触手が叩きつけられる。


俺とイチは左右へ跳んでかわした。


床へ打ちつけられた触手の先端が砕け、ぬめる液体が飛び散る。


石床がじゅう、と音を立てて溶けた。


さっきのローブ男の末路が脳裏をよぎる。


捕まれば終わりだ。


「アンナ先輩! 右側の根元を狙えるか!」


「やってみるわ!」


乾いた破裂音。


アンナ先輩の放つ光条が、次々と触手の束の根元へ突き刺さる。


それだけでその根本に繋がっていた触手たちが動かなくなった。


そこへ、アネタ先輩が杖を掲げた。


凍てついて(フロスト)……!」


床一面へ薄く氷が走る。


巨体そのものは止まりきらない。


だが、触手の動きが一瞬だけ鈍った。


十分だった。


「イチ!」


「おうッ!」


イチが正面から大剣を叩き込む。


俺は側面から駆け込み、触手の束ごと、まだ辛うじて元の魔獣の骨格を残していた部分へ斬り上げた。


肉と触手の塊が、ぐしゃりと崩れる。


それでも一瞬だけ動いたが、アネタ先輩の追加の氷の錐が深く突き刺さった。


怒りを感じているかのように触手が一斉に降りかかる。


その隙間を、縫う。


無影一刀流――




【第四式・間縫(まぬい)




隙間を縫うように踏み込み、まとめて斬り落とす。


触手に隠れていた複数の魔素核が見えた。


それを、切る。


閃光が走り、怪物は動きを止めた。


ようやく全体が青い粒子となってほどけていく。


「……ふう……」


息を整えながら、周囲を見渡す。


まだ動くものはあるか。


だが、今ので最後だったらしい。


鋼鉄扉の向こうから新たな気配はない。


「なんとか……なった、のか……?」


イチが大剣を下ろしながら、荒い息を吐く。


「今の、あれ……くっついた……わよね……?」


アンナ先輩が顔を引きつらせる。


「……見間違いじゃ、ないと……思う」


アネタ先輩の声も震えていた。


俺は答えず、視線を部屋の奥へ向けた。


さっきまでは異形の群れと、その鋼鉄扉ばかりが目に入っていた。


だが、戦いが終わった今、そのさらに奥に続くものが見える。


下へ続く通路。


いや、階段か。


しかも、左目に映る黒い塊は、そこへ向かうほど濃くなっていた。


またしても左目が痛む。


だが、さっきまでとは少し違う。


もっとはっきりと、下を指しているような痛みだった。


「下に通じている階段だ」


思わず口から漏れる。


イチたちも、俺の視線の先を見た。


鋼鉄壁の向こう。


異形の怪物たちが隔離されていた、そのさらに奥。


この先に、まだ何かがある。


俺たちは無言のまま、その下り階段へ足を向けた。


黒い塊はなおも下へ、下へと濃く続いている。


まるで、この先にこそ本当の地獄があると示すように。

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