第五章:深き海の呼び声(3)
先ほど扉の向こうで見た光景が、まだ頭から離れない。
あれは間違いなく、人の死体だった。
しかも、ただ魔獣に襲われた結果だとは思えなかった。
魔大鼠は、第一等級迷宮で頻繁に目撃される、ごくありふれた弱い魔獣だ。
授業でも聞いたことがある。
第一等級迷宮とは、一般人であっても、十分な準備さえ整えていれば無理なく探索できる程度の危険度しかない場所だと。
そんな場所で、あれほどの死体が積み上がる。
どう考えても、おかしい。
加えて気になったのは、死体ごとに腐敗の進み方が違っていたことだ。
人の死体がどう朽ちていくかなど、千年前の時代で嫌というほど見てきた。
人は死ねばすぐに腐るわけではない。
気温や湿度、環境によって進み方は変わるが、それでも、あの部屋にあった死体たちの状態はあまりにばらばらだった。
まだ形を留めているもの。
腐敗臭を放つもの。
そして、とうに肉を失い、白骨と化していたもの。
あれほど古い死体が、偶然ひとつの部屋に残されているとは思えない。
ならば、ああやって“作られた”のだ。
そう考えた瞬間、自分が何に衝撃を受けたのかがようやく分かった。
――この時代で初めて、人の悪意が形になったものを見たのだ。
「アベル、大丈夫か? さっきの部屋で、いったい何を見たんだよ」
イチが心配そうにこちらを覗き込む。
答えられるはずがない。
「……いや、なんでもない。今はルネルを探すことに集中しよう」
それはイチへの返答であると同時に、自分へ言い聞かせるための言葉でもあった。
……あの部屋は気になる。
だが、それ以上に問題なのは、あんな死体を生み出すような何者かが、この迷宮に今もいるかもしれないということだ。
それは、俺たちだけじゃない。
ルネルの命も脅かしているという意味でもある。
ならば、優先すべきは決まっていた。
この迷宮は普通じゃない。
その事実を噛み締めながら、俺たちは先へ進んだ。
イチはひとつ大きく息を吐き、いつになく静かな足取りで後ろをついてくる。
アンナ先輩とアネタ先輩も、不安げに視線を巡らせながら、それでも無言で続いた。
・ ・ ・
二層へ降りた。
今までの迷宮では、入り組んだ分岐や曲がり角が続き、地図でもなければすぐに方角を見失いそうな構造だった。
だが、ここは違う。
分かれ道があっても、少し進めば行き止まりにぶつかる。
拍子抜けするほど単純で、まともに地図を残す必要すら薄い。
一階も同じだった。
二階に降りてから変ったことを挙げるなら――人の手が入った痕跡は、さらに露骨になっていることだ。
壁際に寄せられた木箱。
誰かが削ったような岩棚。
床に残る擦れた跡。
打ち込まれた鉄釘。
そして、微かに漂う煙と薬品のような臭い。
迷宮そのものより、後からここに住み着いた人間の存在感の方が強くなってきている。
途中で遭遇した魔獣は、その都度片付けながら進んだ。
大半は第一等級迷宮に出る、弱い魔獣ばかりだ。
だが、その中には妙なものも混じっていた。
灰狩犬。
灰色の毛並みをした猟犬型の魔獣で、本来なら第一等級迷宮で時折見かける程度の、さほど強くはないはずの相手だ。
今、目の前にいる群れも、見た目だけなら大きな違いはない。
――その群れの、一部を除いて。
ここにも、先ほど見た異形な魔獣がいた。
「っ……また、いる……!」
アンナ先輩が低く声を漏らす。
群れの中でも一際大きい個体。
その灰色の毛皮の下で、何かが蠢いていた。
爪先から肩口へかけて、不自然な膨らみが波打っている。
そして、イチがその一体へ斬りつけた瞬間、それははっきり形を見せた。
裂けた傷口の奥から、細長い触手じみたものがぬらりと顔を出したのだ。
「うわっ、なんだよそれ……!」
イチが眉をひそめる。
見た目は灰狩犬。
だが、中身は明らかに別物だ。
左目に映る黒い塊も、そいつらへ纏わりつくように濃く貼りついていた。
黒い霧の魔獣とは違う。
だが、異質さという意味では同じか、それ以上だ。
「普通の魔獣じゃない……!」
アネタ先輩が杖を握る手に力を込める。
「見れば分かる! 気持ち悪っ!」
アンナ先輩の護身具が乾いた音を立て、灰狩犬の一体の額を撃ち抜いた。
イチが正面から大剣で二体をまとめて薙ぎ払う。
飛び散る青い粒子。
その奥から覗く触手めいたもの。
俺も一歩踏み込み、横合いから飛びかかってきた一体の首を断った。
だが、倒れた魔獣の腹が、びくり、と震える。
次の瞬間、裂けた腹部から何本もの細い触手が突き出し、地面を探るように蠢いた。
「……っ」
反射的にもう一閃。
触手ごと胴を断つと、灰狩犬だったものはようやく青い粒子へ崩れていった。
不快感だけが後に残る。
――そんな時だった。
視界の隅で、何かが動いた。
通路の先。
岩陰の向こうから、こちらを窺うように立っている人影がある。
頭から足先まで、ローブで全身を隠した数人の男たち。
「――あっ」
アンナ先輩の顔色が変わった。
アネタ先輩も、びくりと肩を震わせる。
「……あの格好……」
「まさか……この前の……」
知り合いなのか、と一瞬思ったが、二人の表情はそんな類のものではなかった。
俺の視線に気づいたアンナ先輩が呟く。
「この前、一緒に夕食した後にぶつかった人が丁度ああいう格好していたの。その時、落としたものがさっきアネタが持っている……」
アネタ先輩が懐から金属片を取り出した。
さっき、迷宮の入り口を隠すようになっていた壁の偽装を破った金属片。
それを持っていた者と同じ格好のものたち。
どう考えても、それは繋がっている。
そう思うのに十分な、材料がそろっていた。
「おい、お前ら――!」
イチが声を張り上げる。
だが、ローブの男たちはびくりとしたように一瞬身を引き、そのまま慌てて通路の奥へ駆け出した。
「待て!」
イチが即座に追う。
俺も、アンナ先輩たちも、その後に続いた。
あいつらは何かを知っている。
そう、確信して。
――だが、追っても追っても、距離が縮まらない。
向こうの足が特別速いわけじゃない。
そう見えるのに、角を曲がったと思えば、もう次の角へその背中が消えている。
それが一度や二度じゃない。
「……なんなんだよ、あいつら……!」
焦れたイチが速度を上げる。
俺も遅れないように駆けながら、それでも全力にはしない。
どうにも、おかしかった。
速さじゃない。
何か別の仕掛けで、こっちを誘導しているような。
そして、その嫌な予感は次の瞬間、確信へ変わった。
またローブの男たちが、通路の向こうへ消える。
だが今度は、その途中――通路の中央付近にだけ、黒い塊が異様に濃く沈んでいる場所があった。
黄砂の遺廊での経験が、即座に脳裏をよぎる。
ああいう場所には、罠があった。
あの時はルネルが解体し、無力化してくれた。
だが、今はそんな余裕はない。
避ければいい、という考えも一瞬よぎる。
だが、黄砂の遺廊では本命の床とは別の場所まで連動して罠が発動した例もあった。
いまそれを試すには、余りにも分が悪い。
……なら、踏み込んで見切るしかない。
俺は無影一刀流の歩法――無踏で一気に前へ出ると、イチを追い越して、あえてその場所へ踏み込んだ。
直後。
天井が割れた。
「っ!」
頭上から、無数の石塊が降り注ぐ。
しかも、ただの石じゃない。表面には鋭い棘が何本も打ち込まれていた。
無踏の勢いを殺さず、そのまま落下の隙間をすり抜ける。
背後で、イチたちの悲鳴が上がった。
「うおっ!?」
「きゃっ!? な、なにこれ!」
「わ、わわっ!?」
轟音とともに石塊が床を打つ。
最後の一つが落ちた時には、通路の一角がそれだけで埋まりかけていた。
俺は着地し、そのうちの一つへ目をやる。
棘の先端に、どろりとした液体が溜まっていた。
「……毒、か」
黄砂の遺廊で見た罠よりずっと粗雑だ。
だが、そのくせ意図は露骨だった。
侵入者を確実に殺すためだけに作られた罠。
つまり――あいつらは、最初からこちらを殺すつもりでいたのだと、嫌でも思い知らされた。
同じ人間から向けられる、露骨な殺意。
その事実に、一瞬だけ胸の奥がざわついた。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
あいつらがこの迷宮で何かをしている。
それだけは、もう疑いようがなかった。
「……慎重に追うぞ」
振り返って言うと、イチも先輩たちも、さっきより明らかに硬い表情で頷いた。
俺たちは棘石を避けながら、再び通路の奥へ進んだ。
・ ・ ・
「なんなんだ、あの連中は……!」
秘密通路の中で、ローブの男が顔を歪めた。
侵入者たちが何度も曲がり角で姿を見失ったのは、偶然ではない。
この迷宮には、彼らだけが知る細い抜け道が蟻の巣のように走っている。
だからこそ、奴らを罠のある通路へ誘い込むのは簡単だった。
しかし……
「平然と避けやがった……」
「どう考えても、ただの小僧どもではないな……」
仲間の声も震えている。
男は苛立ちを押し殺すように歯噛みした。
灰狩犬も、変じた個体も、まともな足止めにならなかった。
罠も、一瞬で見抜かれた。
少なくとも、単なるガキどもではない。
「……どうする?」
問われ、男は腕を組んで短く考え込んだ。
「平凡な実験体では、もう足止めにもならん。ならば――」
そこで、男は何かを決めたように顔を上げた。
「奴らを“あそこ”へ誘導するしかない。誘い役は私がやる」
「待て、それでは君が……!」
「構わん」
男は、ぎらつく眼で仲間を見据えた。
「我らの宿願のためだ。この偽りに満ちた世の、覆いを裂くために……ここで足を止めるわけにはいかん!」
その異様な熱を孕んだ声音に、仲間は息を呑む。
男はさらに一歩踏み出し、静かに、だが確信に満ちた口調で続けた。
「全ては深き視線の果てにある真実のために」
仲間は一瞬だけ悲痛な顔をした。
それでも、やがて覚悟を飲み下すように、深く頷いた。
「……ああ。幸運を祈る。君に、深き者の御眼の加護を」
それだけ言って、男は秘密通路を抜け出した。
自分たちが生み出したくせに、自分たちですら制御できず、隔離するしかなかった怪物たちがいる区画へ――侵入者たちを導くために。
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