第五章:深き海の呼び声(2)
入口をくぐった先に広がっていたのは、洞窟じみた迷宮だった。
壁も床も荒々しい岩肌のままで、ところどころに青い光を放つ結晶が突き出している。
その淡い明かりが、湿った通路全体をぼんやりと照らしていた。
「……こんなところに迷宮があるなんて、全然知らなかったぞ」
イチが周囲を見回しながら呟く。
マルヴェル生まれのイチですら知らない迷宮。
その事実だけでも妙な不穏さがあった。
だが、それ以上に気になるのは、ここに満ちる空気の重さだった。
湿っている。
それだけではない。
肺の奥へ張りつくような息苦しさと、どこか淀んだ気配がある。
歩き出してすぐ、その違和感の正体の一端に気づいた。
壁の一部。
床の削れ方。
岩肌へ打ち込まれた金具。
粗末に組まれた棚の跡のようなもの。
迷宮そのものとは明らかに異質な、人工的な痕跡がそこかしこに残っていたのだ。
まるで、誰かがここで暮らしていたかのように。
「……なんか、嫌な感じだな」
イチが珍しく声を潜める。
俺も無言で頷いた。
そして、最も異質なもの。
左目に映る黒い塊だ。
この迷宮に漂うそれは、今まで見てきたどの場所よりも濃かった。
ただ“ある”のではない。
淀み、沈殿し、こびりつくように空間のあちこちへ滲んでいる。
ずきり、と左目が痛む。
これほど強く疼くのは、あの黒い霧の魔獣と対峙した時以来だった。
俺たちは自然と足音を殺し、慎重に先へ進んだ。
やがて、通路が少し開けた場所へ出る。
その瞬間だった。
「……っ、な、なにあれ……魔獣? 気持ち悪い……!」
アンナ先輩が露骨に顔をしかめ、小型のクロスボウに似た護身具を握りしめた。
視線の先には、鼠の群れがいた。
魔大鼠。
毛並みの悪い大型の鼠型魔獣で、サイズは大きくても四十セルトに届くかどうか、といったところだろう。
低等級迷宮に生息する、比較的ありふれた魔獣だと聞いたことがある。
だが、その群れの中に一体だけ、明らかに異質なものが混ざっていた。
「……なんだ、あれ」
イチが眉をひそめる。
一見すれば同じ魔大鼠。
けれど、その体躯は他の個体の数倍はあった。
二アルトに届きそうなほど膨れ上がった身体。
不自然に盛り上がった背。
片脚や胴の一部は、ただ巨大化したというより、何か別のものを無理やり継ぎ足したような歪さがある。
表皮の下で、何かが蠢いていた。
皮膚の内側から押し返すたび、形が変わる。鼠の骨格では説明のつかない膨らみ方だった。
まるで身体の中に、別の生き物でも押し込められているみたいに。
そして――黒い塊が、特にその異形の部分へ濃くまとわりついていた。
ぞくり、と嫌なものが背を這う。
自然と、白の地下聖堂で見た“あれ”が脳裏をよぎった。
左目の痛みが強まる。
思わず顔をしかめるほどに。
……だが、今はルネルの方が優先だ。
あの気味の悪い個体が気にならないわけではない。
それでも、ここで足を止めている暇はない。
その時、こちらへ気づいた魔大鼠の群れが一斉に走り出した。
だが、異形の個体だけは一歩遅れていた。
いや、あえて動いていないのかもしれない。
黒く濁った眼で、ただじっとこちらを見ている。
「こっちはお前らに付き合ってる暇なんかないんだよ!」
イチが大剣を抜き放ち、先頭の二体をまとめて薙ぎ払った。
甲高い悲鳴とともに、魔大鼠の身体が青い粒子へ崩れていく。
「こうなるなら、もっとちゃんとした武器を持ってくればよかったんだけど……!」
アンナ先輩が舌打ち混じりに構えた護身具の溝へ、淡い光が集まる。
矢はない。
だが次の瞬間、溝の上に形成された短い光条が鋭く弾け、一体の魔大鼠の頭部を撃ち抜いた。
軽く乾いた破裂音。
貫かれた個体はそのまま痙攣し、青い粒子となって散った。
間髪入れず、アネタ先輩が杖を握りしめた。
「氷の錐よ、貫け……!」
放たれた五本の氷の錐が、駆け寄ってきた魔大鼠たちの身体を正確に穿つ。
見事な手際だった。
怯えがちに見えても、魔法の手並みは立派なものだ。
その隙に、俺は異形の魔大鼠へと駆けた。
奴は大きく口を開き、異様に発達した前歯で俺の胴に噛みつこうとする。
だが――遅い。
巨体のせいか、動きそのものは驚くほど鈍重だった。
半歩ずれてそれをかわし、そのまま剣を振るう。
刃は抵抗なく首を断ち切った。
頭部が飛ぶ。
普通なら、それで終わりのはずだった。
だが、終わらなかった。
首を失った胴体が、なおも立っていた。
「……っ!?」
次の瞬間、断たれた首の根元から、いや、身体の内側から何かが暴れ始める。
異形化していた部分が激しく膨れ上がり、皮膚の下で蠢くものがより激しく暴れた。
そのうえで――
脚の付け根が裂けるように弾けた。
中から、骨とも肉ともつかない異様なものが突き破るように飛び出してくる。
まるで、最初から体内に潜んでいた別の生き物が、殻を破って出てこようとしているかのような光景だった。
咄嗟に身を引く。
飛び散った体液めいたものが岩床を焼くように音を立てた。
「おいおい、なんだよそれ……!」
イチの引きつった声が飛ぶ。
俺は答えず、再び踏み込んだ。
今度は脚ごと斬り払う。
切り落とされた異形の脚は、床の上でしばらく痙攣するように激しくのたうち回った。
だが、やがて青い光の粒へと崩れ、消えていく。
頭を失い、脚も砕かれた巨大鼠が、ようやくその場へ崩れ落ちた。
残った黒い塊は、まだその死骸の上にまとわりついている。
だが、黒い霧の魔獣の時のように、傷を塞いだり肉を繋ぎ直したりはしない。
ただそこに濃く淀み、沈殿しているだけだ。
やがてそれも青い光へと変わって崩れ落ち、まとわりついていた黒い塊も、あとを追うように霧散した。
周囲を見回すと、他の魔大鼠はすでに片付いていた。
「……なんだったんだよ、今の気持ち悪いの……」
アンナ先輩が青ざめた顔で呟く。
だが、その問いに答えられる者はいなかった。
俺たちはしばらく無言で顔を見合わせた後、再び歩き出した。
・ ・ ・
どれくらい進んだだろうか。
通路の先に、何かが見えた。
「……ん? 扉か? でも、なんか変じゃないか?」
イチの言う通りだった。
通路の行き止まりに、一枚の扉がある。
だが、それは迷宮で見てきたものとは異なる。
迷宮の一部として存在していたものには見えなかった。
岩壁へ無理やり埋め込んだような、不格好で歪な扉だ。
あえて言葉で表現するなら――人が後から無理やり設えた扉。
そんな印象が一番近い。
左目が、また疼く。
扉の周囲へ滲む黒い塊は、ここまで見てきたどの場所よりも濃かった。
もはや扉そのものが、黒い澱みから形を取っているように見えるほどに。
「……俺が先に確認する。三人は少し下がっていてくれ」
この迷宮は、いろいろとおかしい。
空気も。
痕跡も。
魔獣も。
そこかしこから、人工的で、悪意に満ちた何かが滲んでいる。
特に、目の前の扉は駄目だ。
嫌なものが濃すぎる。
俺はゆっくりと扉へ手をかけ、押し開いた。
最初に襲ってきたのは臭いだった。
肺の奥にまでまとわりつき、呼吸そのものを汚すような、濃厚な腐敗臭。
「……っ」
思わず息が止まる。
次に、視界へ飛び込んできた光景。
「――――!」
理解より先に、身体が硬直した。
頭の中が一瞬空白になる。
……なんだ、これは。
どうしてこんなものが、ここにある……?
「おい、アベル? 中に何があ――」
「入るな!!」
気づけば、叫んでいた。
自分でも驚くほど強い声だった。
その隙に、俺は反射的に扉を引き戻し、叩きつけるように閉める。
「お、おい……アベル……」
イチがさすがに戸惑った声を出す。
アンナ先輩もアネタ先輩も、何も言えずに固まっていた。
俺はすぐには答えられなかった。
喉の奥が詰まる。
胸の内を、重たい鉛でも流し込まれたような不快感が満たしていく。
「……ここにルネルはいない」
ようやく絞り出した声は、自分でも分かるほど硬かった。
「……先へ行こう」
イチは納得しきれない顔をした。
先輩たちも、まだ凍りついたような表情のままだ。
それでも、俺は半ば無理やりその場から三人を遠ざけた。
歩きながらも、さっき見たものが頭から離れない。
平和なこの時代に慣れすぎていたのかもしれない。
……いや、少なくとも、今まで見てきたこの時代には想像できなかった光景だったのは確かだ。
あの部屋にあったのは、意志を持つ生き物ではなかった。
正確には、意思を持っていたもの。その抜け殻。
ただ、腐りかけた肉の塊。
尊厳も形も奪われ、無機物のように積み上げられたもの。
――人の死体だった。
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