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第五章:深き海の呼び声(1)

ルネルには、幼い頃の記憶がほとんどない。


父や母、周囲の大人たちの話を繋ぎ合わせれば、断片的な事実だけは分かる。


幼い頃、自分は女神を否定する異教徒たちに攫われたこと。


そこで何かをされ、その結果、両の眼の色が変わり、淡く光を帯びるようになったこと。


今のルネルの銀灰色の瞳は、その名残だった。


だから、普段は色付きの眼鏡をかけている。


あの眼鏡は、ハノイルが作ってくれたものだ。


眼の光を隠すため。


そして、過敏になりすぎたこの眼を少しでも楽にするため。


自分の眼が変わったのは、色が変わったとか、光るようになったとか、それだけではない。


根源魔素(マナ)の流れ。


そう呼ぶのが正しいのかどうかは分からない。


けれど、ルネルの眼には、そういうものが見える。


壁の奥を走る薄い流れ。


地を満たす大きなうねり。


人の身体の内を巡る、細く脈打つ光。


眼鏡を外した時などは、世界そのものが流動する光の束に変わってしまったかのように見える。


人が踏み出す時の筋肉の動きに合わせて流れるもの。


鼓動に呼応して脈打つもの。


呼吸に合わせて揺らぐもの。


何もかもが見えすぎる。


あまりに情報が多すぎて、頭が痛くなる。


だから、あの眼鏡には感謝していた。


ハノイルがあれを作ってくれなければ、自分は今よりずっと生きづらかっただろう。


もしくは、狂っていたのかもしれない。


どうすれば、人の眼はこんなふうに変わるのか。


残念ながら、それを自分で確かめられるだけの記憶は残っていない。


今でも、攫われていた時の記憶はひどく曖昧だ。


自分を囲んでいた人々。


湿った空気。


頭の奥へ、何かが這い込んでくるような不快感。


いや――違う。


あれは、何かが直接、脳の内側へ呼びかけてくるような感覚だった。


記憶は曖昧なのに、ひとつだけ、異様なほど鮮烈に焼きついているものがある。


冷たく自分を見下ろしていた、“女”の眼だ。


何の感情もないように見えて、けれどどこか歪んでいた。


その女は、怯える幼いルネルを見下ろしながら、静かな声でこう言った。


「あなたの眼は、真実へ至る鍵になるでしょう」


その言葉の意味を、ルネルは今も知らない。


真実とは何か。


鍵とは何か。


分からないままだ。


だが、ひとつだけ確かなことがある。


――あの時に感じた“呼ばれる感覚”は、今もなお消えてはいない。


夢の中で。


ふとした静寂の中で。


誰もいないはずの夜道で。


そして時折、それは不意に濃くなる。


何かがこちらを見つけたように。


忘れたはずの場所が、自分を思い出したように。


今夜のそれは、これまででいちばん強かった。


祭りの音も、人々の歓声も、海瑠螢の光も。


そんなものは最初から存在しないかのように、ルネルの意識は一点へ引きずられていた。


海ではない。


光の方でもない。


もっと暗い方へ。


もっと奥へ。


もっと下へ。


「――呼んで、いる……」


何かが、呼んでいる。


懐かしいような、吐き気がするような、どうしようもなく抗いがたい何かが。


だから歩いた。


誰かに止められた気がした。


名を呼ばれた気もした。


けれど、それすら遠かった。


見えているのは流れだけだ。


世界の表面を覆う薄い膜の下で、ひときわ濃く、ひときわ黒く、脈打つものだけが見えていた。


それを追う。


岩場を越え、湿った風を受け、絶壁の下へ。


誰も気づかないはずの歪みへ。


――キテ


ああ……


やっぱり。


ここに、いる。


ルネルは、まるで夢遊病者のような足取りのまま、闇の奥へと沈んだ。




・ ・ ・




湿気をたっぷりと含んだ空気が、肌へまとわりつくように淀んでいた。


壁の各所には青白く発光する結晶が埋め込まれている。


本来であれば、もっと神秘的に見えたであろう空間だ。


だが今は違う。


床には染みついた汚れがあり、粗雑に運び込まれた机や器具が並び、空間全体に不快な生臭さが漂っている。


無理やり“部屋”として使われている、そんな印象だった。


その中央には、逆向きの三角形を基調とした幾何学模様が描かれている。


文様の中心。


そこに、一人の男が椅子へ縛りつけられていた。


手首も足首も、胸も、喉元にさえ拘束具が巻かれている。


逃げようのない格好だ。


その周囲を、全身をローブで隠した十数名の者たちが取り囲んでいた。


次の瞬間、男の絶叫が部屋へ響き渡る。


「やめろっ……! いやだ、いやだ、いやだあああああっ!!」


男は喉を引き裂くように叫ぶ。


仰け反るように身をよじらせ、縛られた腕と脚が激しく暴れる。


見開かれた眼からは涙が溢れ、限界以上に開いた口の中では、何かがうごめいていた。


ぬめる質感。


滑らかな表面。


見ようによっては、海産の生き物の脚にも見える。


だが、明らかに異様だった。


成人男性の口腔を埋め尽くしてなお余るほどの太さと長さを持つ、触手めいたものが、喉の奥へ奥へと潜り込もうとしていたのだ。


「ぐあああああっ!――がっ、ぁ、あああああっ!!」


口を塞がれ、それでもなお悲鳴を上げようとするが、それはもはや音無き悲鳴と化していた。


だが、それも長くは続かなかった。


やがて、口内を満たしていたそれは不意に青い光へ変わり、細かな粒子となって空気の中へ散っていく。


同時に、男の身体ががくりと項垂れた。


動かない。


だが、死んではいない。


浅く、かすかに肩が上下していた。


それを見下ろしていたローブの一人が、堪えきれない苛立ちのまま壁を殴りつけた。


「ッ……クソが! また失敗か!」


低く押し殺していた怒声が、ついに剥き出しになる。


その傍らで、別の一人が冷えた声で言った。


「……何度も確認してきたことです。 認めがたいのは分かりますが、適合しない素体では“鍵”としての覚醒は望めません。 種も無限にあるわけでは――」


「だから諦めろと言うのか!?」


怒声が被さる。


男は荒く息を吐きながら、今にも噛みつきそうな勢いで相手を睨んだ。


「今日こそが最適なのだ! 今日を逃せば、また何年この腐った穴蔵で待たねばならんか分からん! 忌々しい……! 鍵として覚醒した供物が誰だったのか、それさえ掴めていれば……!」


男は、ギリ、と奥歯を噛み締めた。


――七年前。


彼らの悲願を託した実験は、確かに成功した。


そうである、はずだった。


だが、それは最悪の形で悲願から遠ざけられてしまったのだ。


異変を察して実験の場へ駆けつけた頃には、既にすべてが終わっていた。


そこで目撃されたのは――


皆殺しにされた、実験に立ち会っていた仲間たちと。


短い書き置きだけだった。


『鍵の覚醒は成功しました。 おかげで手間が省けました。 鍵は、私が有難く頂戴します』


鍵として覚醒したはずの供物と共に、その“女”は姿を消したのだ。


それを見た時の絶望は、今も男の胸の底に腐りついている。


「……あの女……! あの女さえ裏切らなければ……!」


吐き捨てるような呪詛だった。


爪が食い込むほど拳を握りしめ、男はなおも荒く息を吐く。


「どうにかしてでも鍵を作らねばならん……! こうなれば、この身に種を植えつけてでも――!」


その時だった。


部屋の扉が、激しい音を立てて開いた。


ローブ姿の一人が、明らかに取り乱した様子で飛び込んでくる。


「た、大変です!」


「今度はなんだ!」


怒鳴りつける声に、その者はびくりと震えた。


「この場所の位置が露見した可能性が……! つい今しがた、四人がこの迷宮の内部へ侵入したとの報告が!」


部屋の空気が、一瞬で凍りついた。


怒鳴っていた男の顔から血の気が引く。


だが次の瞬間には、その表情は怒りでどす黒く染まっていた。


「……露見、だと?」


喉の奥から絞り出すような声。


「なぜだ……どうして今だ……なぜ、よりにもよって――」


頭を掻きむしるようにして、男は吠えた。


「――なぜ、この最も重要な時に限って!!」


苛立ちと焦燥と恐怖が入り混じった叫びだった。


その傍らで、先ほどまで冷静に言葉を返していた男が、報告に来た者へ問いかける。


「侵入者は四人だけですか」


「は、はい。十代ほどの、少年少女たちでしたが……」


「……ならば、まだ本格的に場所が割れたわけではないかもしれませんね。 祝祭に紛れて偶然ここへ辿り着いた可能性もある」


男はわずかに考え込むように目を伏せ、それから周囲を見渡した。


「排除してください」


短い一言だった。


だが、その声音には躊躇がなかった。


「まだギルドにも、都市の治安維持部隊にも伝わっていないなら、なおさらここから生かして帰すわけにはいきません。手段は問いません。必ず、仕留めるように」


その命令に、ローブの者たちは一斉に動き出した。


命令を出した彼自身も部屋を後にした。


去り際にチラリと部屋の中を覗く。


未だに怒りが収まっていないような様子の仲間の姿が見えていたが、彼は何も言わずその場を後にした。


慌ただしい足音が、次々と部屋の外へ消えていく。


やがて、冷たい静寂が戻った。


薄暗い部屋に取り残されたのは、椅子に拘束されて微かに痙攣する実験の失敗作と――


「……ここまで来て……ふざけるな……!」


血走った眼でそう呟きながら、男は彼らが“種”と呼ぶ異形の塊が蠢く硝子瓶へ、ゆっくりと手を伸ばした。


瓶の中で粘り気のある音を立てるそれは、青白い光を帯び、主の狂気に呼応するように激しく脈打っていた。

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