第四章:螢火の向こう側(5)
祭り見物に集まった人々の身体そのものが、壁になっていた。
「あ、あのすみません、通してください!」
「は? なんだよ急に」
「ちょっと通ります! すんません!」
「ちょ、押したの誰!?」
無理に隙間へ身体をねじ込むたび、悲鳴と不満と苛立ちの声が、あちこちから飛んできた。
だが、おかしい。
この人混みを、俺たちは確かに掻き分けながら進んでいる。
それなのに、その少し前を歩いていたはずのルネルに対しては、こんな反応がまるでなかった。
誰にもぶつからず、誰にも止められず、するりと抜けていったかのような、不自然さ。
……本当に、俺たちはルネルの後を追えているのか。
胸の奥にざらついた不安が広がる。
とはいえ、この道は海辺に沿って続くほとんど一本きりの通路だ。
途中で脇へ逸れようにも、そこにも屋台や見物人が密集していて、事実上の逃げ道はない。
だったら、迷っている暇はない。
後ろから追ってくるイチたちのことも気にはなったが、今はまずルネルを見失わないことが先だ。
「ふう……」
――息を整える。
身体の内を巡る根源魔素の流れを、静かに揃える。
脈打つ心臓。
それに合わせて押し出される血の流れが、手に取るように分かる。
人と人との間に生まれる、ほんのわずかな空隙。
その“縫い目”を見定める。
無影一刀流――
【第四式・間縫】
本来は、敵と敵の間を縫い抜け、その流れのまま斬り捨てる剣技。
だが、今必要なのは斬撃ではない。
通り抜けること。
ただ、それだけだ。
俺は剣へ向けるはずだった意識をすべて足運びへ注ぎ込み、人の壁へと身を滑り込ませた。
肩が触れる寸前の隙間。
腕と腕の間。
踏み込めばぶつかるはずの狭さを、流れるように抜ける。
ざわめきの中心を、縫うように。
祭りの明るい喧騒と光が、少しずつ遠ざかっていく。
そして――ふっと、視界が開けた。
人の壁が途切れた先には、海辺の終わりを告げるように荒れた岩場が広がっていた。
海瑠螢の光もここまではほとんど届かず、人の姿もまばらだ。
だが、そこに……ルネルはいなかった。
「……どこへ行った」
胸の奥が、妙にざわつく。
さっきのルネルの様子は、明らかに普通ではなかった。
そのことが、今さらじわじわと不吉さを増していく。
近くに治安維持部隊の男が立っているのが見えた。
……あの人ならルネルを見たのかもしれない。
俺は彼のところへ駆け寄った。
「すみません。この辺りで、銀髪の少女を見ませんでしたか」
声をかけられた男は、びくりと肩を跳ねさせた。
それから、こちらを見て曖昧に頷く。
「あ、ああ……銀髪の子、なら……いた、と思う」
いた。
その一言に一瞬だけ安堵しかけたが、すぐに引っかかった。
「……いた、“と思う”?」
問い返すと、男は困ったように眉をひそめた。
「いや、それがね……見たのは間違いないんだ。 歩き方も妙で、こんなところを一人でうろつくには危なっかしかったから、声をかけようとしたんだよ」
男はそう言って、ついさっきまで見ていたらしい方向へもう一度目をやる。
「そしたら、目を離したわけでもないのに、急にいなくなってな。 いや、いなくなったように見えた、って言うべきか……正直、君に話しかけられるまで、自分の見間違いじゃないかと思ってた」
「……消えた?」
男の視線の先を見る。
海辺の終端。
乱雑に並ぶ岩の向こうに切り立った崖があり、その先では波が荒々しく砕けていた。
背筋が冷たくなる。
――まさか、落ちたのか。
「あ、ちょっと! 君!」
そう思った瞬間、考えるより先に身体が動いていた。
「おい、アベル! ルネルは!?」
後ろから追いついてきたイチの声が飛ぶ。
「……分からない。でも、さっきまであそこにいたらしい!」
それだけ言い残して、俺は崖際へ向かって走り出した。
「おい、待てって! まさか――!」
イチの声も背中で遠ざかる。
だが、今はそんなことに構っていられない。
魔素で身体を強化し、一気に岩場を跳ぶ。
足場は悪かったが、立てないほどではない。
崖際の岩へ飛び乗り、眼下を見渡す。
ルネルらしき姿は、見えない。
あるのは、引き潮で露わになった無数の岩と、泡立つ黒い水だけだった。
やはり海へ落ちたのではないか――そう思った、その時。
視界の端に、絶壁と地面が接するあたりでぽっかりと口を開けた暗がりが映った。
「……洞窟?」
不安定な岩を蹴って、そちらへ近づく。
確かに、小さな洞窟があった。
そしてその入口の前に、見覚えのあるものが落ちている。
――色付きの眼鏡。
見間違えるはずがない。
ルネルのものだった。
「こんなところに洞窟なんて聞いたこともないぜ」
遅れて追いついたイチが訝しげに言う。
そのすぐ後ろでは、アンナ先輩とアネタ先輩も息を切らしていた。
「はぁ、はぁ……やっと追いついた……え、アベルマス君、その手にあるのって……ルネルさんの眼鏡?」
俺は無言で頷いた。
自然と全員の視線が洞窟へ向く。
だが――
「……暗くて何も見えねぇな」
イチのぼやきに、アンナ先輩が「あっ」と小さく声を上げた。
腰の小袋を探り、細長い円筒形の器具を取り出す。
先端だけが少し太くなっている、不思議な形の道具だった。
「携帯用の魔素灯、持ってたの忘れてたわ」
上部の小さな突起を押すと、太くなった先端から柔らかな光が走り、洞窟の内部を照らし出した。
「……でも、本当にこの中にいるのかしら。思ったよりずっと浅そうだけど」
アンナ先輩の言う通りだった。
光が届く範囲を見る限り、内部はかなり狭い。
奥へ続く道らしいものも見えず、とても人が隠れられるようには見えない。
ルネルの姿もなかった。
――その時。
ズキリ――、と左目に痛みが走った。
「っ……」
思わず左目を押さえる。
迷宮の中でもないのに、この目が痛んだのは初めてだった。
「アベルマス君?」
「……いや、大丈夫です」
そう答えながらも、視線は洞窟の奥から外れない。
――何かがおかしい。
けれど、その違和感の正体が分からない。
「……とにかく、中を確かめてみよう」
痛みに引かれるように、俺は洞窟の中へ踏み込んだ。
中は、外から見た印象とほとんど変わらない。
湿った岩肌。
人が数人入るだけで窮屈に感じるほどの狭さ。
これでは、ルネルが中にいたらすぐ見つかるはずだ。
……やはり、ルネルは別の場所にいるのか?
そう思いかけた、その時。
「アネタ? なんか光ってない?」
アンナ先輩の声が響く。
「ふぇ……? あ、これ……」
アネタ先輩が戸惑いながら胸元へ手を入れ、取り出したのは、どこか雑な印象の金属片だった。
粗雑な円形の金属片が、淡く脈打つように光っている。
――次の瞬間。
「え……?」
アネタ先輩が息を呑んだ。
俺たちの目の前で、さっきまでそこにあった岩壁が、陽炎のように揺らぎ始めたのだ。
輪郭が曖昧になり、溶けるように崩れていく。
そして、その奥から現れたものを見て、俺たちは言葉を失った。
「……これって……迷宮入り口……なのか?」
イチが、かすれた声で呟く。
それは確かに、俺たちがこれまで何度も見てきた迷宮の入口とよく似ていた。
だが、まったく同じではない。
左目にだけ見える黒い塊が、その周囲を異様なほど濃く覆い尽くしていた。
ズキリ――
再び、左目が痛む。
さっきよりも強い。
まるで、この先へ進むことを警告するみたいに。
「……っ」
それでも、俺の中ではもう答えが出ていた。
――ルネルはこの先にいる。
理屈ではない、ある確信のようなものがあった。
俺はゆっくりと、その入口へ足を向ける。
「ちょ、ちょっと待てよアベル! あーもう……! 先輩たち、ここから先は危ないかもしれない。 確認は俺たちだけで――」
「何言ってるのよ!」
イチの言葉を遮ったのはアンナ先輩だった。
「ここまで来て、はいさようならなんてできるわけないでしょ! ねえ、アネタ!」
「う、うん……わたしも……ルネルさんが心配……」
「いやいや、心配なのは分かりますけど……あー、クッソ! 絶対無理はしないでくださいよ!?」
背後でそんなやり取りが続く。
だが、今の俺にはもうそれに構っている余裕がなかった。
この中には、何かがいる。
そして、ルネルも。
その予感に引き寄せられるように、俺は闇の中へと足を踏み入れた。
――背後では、まだ祭りを楽しむ人々の歓声が聞こえていた。
だが、その祭りの喧騒は遠い。
海瑠螢の光も、もうここまでは届かない。
この夏で一番穏やかな夜の、その裏側へ。
――俺たちは、足を踏み入れた。
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