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第四章:螢火の向こう側(4)

港町マルヴェルには、ずっと以前から囁かれている噂がある。


親族もなく、居場所も定かでない貧民が消える。


素行の悪い観光客が、いつの間にか姿を見せなくなる。


夜の路地へ入ったきり戻らない者がいる。


そんな話だ。


「どうせ流れ者だろ」


「厄介なのが減るなら、むしろ助かる」


「祭りに水を差さなきゃ何でもいいさ」


「正式な届け出もないんだろ?」


噂に対する反応は様々だった。


だが、ひとつだけ共通していることがある。


誰も、本気では信じていない。


誰も、本気では気にしていない。


都市の治安維持部隊も、行方不明の正式な届け出は受けていないという。


ならば調査のしようもない。


そうして噂は、噂のまま流れ続ける。


人々の暮らしに影を落とすこともなく。


――少なくとも、表向きは。




・ ・ ・




蒼月第六巡七日、日曜日。


蒼月潮星灯祭そうげつちょうせいさいの開催当日ということもあってか、マルヴェルは朝から異様なほどの人で溢れていた。


海辺警備の任務中も、とにかく人が多かった。


そのせいもあって、今日はとりわけ忙しい一日だったのだ。


昼から酒を飲んで騒ぐ酔っぱらい。


女へしつこく絡む男たち。


親とはぐれて泣き出す子ども。


屋台の順番で揉める観光客。


迷宮の依頼とはまた違う意味で、妙な疲労が溜まる仕事だった。


目まぐるしく警備仕事にあたっていると、あっという間に時間が過ぎていた。


昼間の持ち場を終えた俺とイチは、一度ギルドへ戻った。


着替えを済ませて、報告のためにギルド長室へ向かう。


コンコン――


……扉を叩いても返事がない。


不思議に思って開けてみると、部屋の中にはベルドガルさんとハノイルさん、それにルネルがいた。


……いや、いたというか……


どう見ても、何か揉めていた。


「だから言っておるだろう! 祭りへ行くなと言っているのではない! せめてこの父の仕事が片付くまで待てという意味で――!」


「お父様と一緒に行くと息苦しい。あと、始まる前に着けないのは嫌」


「ル、ルネル……っ。息苦しいとはなんだ、息苦しいとは……!」


そんなやり取りにも、そろそろ慣れてきた自分が少し嫌だった。


俺とイチは、のんびりとその様子を眺めていたハノイルさんのところへ向かう。


「ハノイルさん。海辺の警備、終わりました」


「おや、アベルマス君、イチ君。お疲れさまでした。すみません、入ってきたことにも気づきませんで」


軽く任務の報告を済ませる。


すると次の瞬間、ベルドガルさんがギロリとこちらを振り向いた。


「アベルマス、イチの小僧。貴様らに任務を与える」


その目は血走っていた。


とてもではないが、嫌だと答えられる雰囲気ではない。


ベルドガルさんは、まるで大陸で最も苦いと称されるペトゥチの木の実でも食べたような顔で告げた。


「今夜の祭りの間、ルネルの護衛を命ずる。 どうせなら胡乱な輩が寄ってこぬよう、完全武装で行け。 万が一にもルネルに何かあれば――」


その先は言葉にならなかった。


だが、言いたいことは十分に伝わってくる。


俺とイチは無言で頷くしかなかった。


ここまでくると、もはや病気と呼んで差し支えない気もする。


……そういえば、実習初日にも似たようなことがあったな、と半ば現実逃避で思い出す。


まだ二週間も経っていないはずなのに、妙に遠い出来事のように感じられた。


……それはそれとして、完全武装で祭りに行って本当にいいのか。


俺がそんな顔をしていたのを察したのか、ハノイルさんが苦笑混じりに頷いた。


「問題はありませんよ。 都市の治安維持部隊も、探索者が騒ぎを起こさない限り、街中で武器を持ち歩くこと自体には比較的寛容ですから。 ……それに、何が起きるか分からない夜です。 備えがあるに越したことはないでしょう」


何か引っかかるような言い方だった。


だが、その意味を深く考えるよりも先に、ハノイルさんは俺たちにだけ聞こえるよう声を落として言った。


「……ベルドガルさんがああも過保護になったのには、少々事情がありましてね。 詳しいことは言えませんが、ルネルさんは子どもの頃に一度、行方不明になったことがあるんです。 それ以来、あの方はずっとああなんですよ」


……なるほど。 そういう事情があったのか。


チラリとイチに視線を向ける。


いや、俺も知らなかったぜ、という視線が帰ってきた。


「アベルマス、イチ。よろしく」


ルネルはいつもの無表情でそう言った。


それでも、どこかほんの少しだけ期待しているように見えたのは、気のせいではないと思う。


「お、おう! 任せておけ!」


イチが少し動揺した様子で返したけど、ルネルは特に気にする様子はなかった。


――こうして俺たちは、ルネルの護衛を兼ねて蒼月潮星灯祭へ参加することになった。




・ ・ ・




蒼月潮星灯祭。


この時期の夜、急激な引き潮で普段は海に沈んでいる地形が姿を現し、そこで海瑠螢(かいりゅうほたる)という虫が結婚飛行で一斉に飛び立つ――そんな光景を祝うのが、この街の祭りらしい。


数え切れないほどの海瑠螢が夜空へ舞い上がる光景は、夜の海へ宝石の灯を撒いたように見えるという。


恋人たちに人気なのも、そのせいだとか。


現地の人間であるイチは、歩きながら得意げに語っていた。


「すっげーぞ? 俺、毎年家族と見てるけど、何度見ても飽きないぜ」


「そんなにすごいのか」


「そりゃそうだって。実際見たら分かるって!」


祭りが始まる前から、海辺はすでに人で埋まっていた。


道の両側には屋台が並び、焼かれた魚介の匂いや甘い菓子の香りが混ざって漂う。


酒を片手に上機嫌で歌っている連中もいれば、子どもの手を引く親、肩を寄せ合う恋人同士、観光に浮かれた若者たちの姿もあった。


そんな中を、俺たちは妙に物騒な姿で歩いている。


俺は剣を佩き、イチは大剣を背負っている。ルネルはいつも通り共鳴式導糸機(リニア・ペンデュラム)を携えていた。


祭りを楽しむ格好にはとても見えないだろう。


実際に、装備だけ見れば迷宮にでも乗り込む勢いのものだった。


そのせいか、すれ違う何人かがこちらを二度見していることが分かった。


「……やっぱり、少し目立つな」


「そりゃこの格好で祭り歩いてりゃなあ」


イチはケロリとしていたが、俺は少し居心地が悪かった。


その時だった。


「あっ! 後輩くんたち!」


聞き覚えのある声に振り向く。


人波をかき分けるようにしてこちらへやって来たのは、アンナ先輩とアネタ先輩だった。


アンナ先輩は今日も明るい笑顔を浮かべている。


その隣でアネタ先輩は少し控えめに立っていたが、以前会った時よりも雰囲気がずいぶん柔らかくなって見えた。


「やっぱりあなたたちも来てたのね。……って、あら?」


アンナ先輩の視線が、俺たちの横で屋台の鉄板をじっと見つめているルネルへ向く。


「その子は?」


「あ……話せば長くなるので軽く説明しますと――」


当たり障りのない範囲で事情を説明し、ついでに彼女たちとルネルが簡単に紹介を済ませる。


「そ、そっか……なんだか大変そうね」


説明を聞き終えたアンナ先輩は、どこか引いたような顔をした。


けれどそのあと、少し同情するような目でルネルを見た。


「……本当そう」


気のせいか、無表情なルネルがげんなりしているかのように見えた。


「あ! そうだ! せっかくだしみんなで回らない?」


アンナ先輩のその提案に反対する人はいなかった。


俺たちは五人で一緒に祭りを見て回ることになった。


「そういえば先輩たち、その後は変な連中に絡まれたりしてませんか?」


イチの問いに、アンナ先輩はどこか得意げに胸を張った。


「ふふん。ちゃんと対策はしたわよ」


そう言って取り出したのは、小型のクロスボウに似た護身具だった。


だが、矢を番える構造は見当たらない。


「小型の携行式魔導兵装よ。 簡単な護身用だけど、不埒な相手を追い払うくらいなら十分だって、お父さんの知り合いに見繕ってもらったの」


アンナ先輩がそう言うと、アネタ先輩もおずおずと短い杖のようなものを見せた。


細い棒にしか見えないが、先端に小さな宝石がはまっている。


「で、アネタは簡易式の杖」


「う、うん……これがあると、少しだけ魔法が使いやすくなるの……」


「へえー、ちゃんと備えてるんですね」


感心したようにイチが頷く。


そんなやり取りを交ぜながら、五人で屋台を回った。


イチは焼き串や揚げ物に真っ先に反応し、アンナ先輩はきらきらした細工の入った小物や祭り限定の飾りを面白がって見ていた。


アネタ先輩は最初こそ少し遠慮がちだったが、アンナ先輩に手を引かれたり、イチに何かと話しかけられたりしているうちに、少しずつ表情が緩んでいった。


ルネルは相変わらず口数が少ない。


それでも、焼いた貝や魚介を並べた屋台の前では、ほんの少しだけ足を止めていた。


鉄板の上で弾ける油の音を聞きながら、じっと見つめている。


「食べるか?」


そう聞くと、ルネルはわずかにこちらを見た。


「……食べる」


短い返答だったが、その声に期待の色が滲んでいるような気がした。


……祭り、か。


焼きイカを受け取るルネルや、騒ぐイチや先輩達を見ていると、実感が湧いてきた。


こうして見ると、やはりこの時代は平和なのだと、そう思えた。




・ ・ ・




やがて、遠くから順番に魔素灯が落とされ始めた。


ひとつ。


またひとつ。


海辺に連なる灯りが、夜に溶けるように消えていく。


ざわついていた人々の声も、いつの間にか期待に満ちた静けさへ変わっていた。


「始まるぞ」


イチが小声で言う。


俺たちは海がよく見える位置へどうにか潜り込み、その場に立った。


そして――それは始まった。


月光を受けた海のすぐ側、引き潮で露わになった砂と岩場のあちこちから、ひとつ、またひとつと淡い光が浮かび上がる。


青とも緑ともつかない、透き通った燐光。


最初はまばらだったそれは、瞬く間に数を増し、やがて海岸線そのものを染め上げるほどの光の群れへ変わった。


海瑠螢だ。


無数の光がゆっくりと空へ舞い上がり、やがて二つずつ寄り添うように並び始める。


まるで夜の海から宝石が飛び立っていくようだった。


「綺麗……」


誰かが小さく息を呑む。


それが合図だったかのように、あちこちで感嘆の声が漏れた。


寄り添った二つの光が海上の闇を舞う。

 

また一組、また一組と、それが増えていくたびに、人々は笑い、囁き、見惚れていた。


……たしかにこれは、ただ綺麗という言葉だけでは足りない。


こんな光景があるとは思わなかった。


しばらくの間、俺もただ見入っていた。


――その時、不意に隣の気配が遠のいた気がした。


ふと視線を向ける。


隣にいたはずのルネルが、少し離れた所で、海瑠螢の飛ぶ海ではなく、まったく別の――暗い陸側の一点を見つめていた。


「ルネル?」


呼びかけても返事はない。


ルネルは微動だにせず、その暗がりだけをじっと見ている。


その横顔には、いつもの無表情とも違う、妙な空虚さがあった。


「おい、ルネル」


今度は少し強めに呼ぶ。


それでも反応はなかった。


やがてルネルの唇が、かすかに動く。


声にならないほど小さな、けれど確かに何かを呟くような動き。


次の瞬間、ルネルはすっと歩き出した。


海ではない。


祭りの灯でもない。


人の流れを逆らうように、暗い方へ。


「ちょ、ちょっと!?」


アンナ先輩が戸惑った声を上げる。


俺は慌ててルネルの後を追った。


「待って、ルネル! どこへ行くんだ!」


だが、ルネルは振り向かない。


まるでこちらの声が耳に入っていないように、一定の歩幅で人混みの中を進んでいく。


その動きは速いわけではない。


なのに、人の波に紛れると妙に見失いそうになる。


「おい、ルネル!」


イチも声を張り上げる。


その時、ルネルの口元がわずかに震えた。


「……呼ん……でる……」


聞こえた、ような気がした。


確信は持てない。


祭りのざわめきも、海の音も、まだ周囲には残っている。


けれど、たしかにルネルはそう言った気がした。


「呼んでるって、何が――」


問いかけた時には、もうルネルの姿は人の隙間へ呑まれかけていた。


まずい。


このままでは完全に見失う。


「追うぞ!」


イチが叫ぶ。


アンナ先輩も、アネタ先輩の手を掴んだまま頷いた。


俺たちは、海瑠螢の光に満ちた祭りの夜から外れるように、ルネルの消えた暗がりへと駆け出した。

面白いと感じていただけましたら、反応をいただけますと励みになります。

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