第四章:螢火の向こう側(3)
アンナ・ファルメンは、動揺していた。
柄の悪い男たちに絡まれた、その瞬間。
自分たちを助けた相手が、まさか同じ学園の後輩たちだったのだから、無理もない。
――正確には、赤と黒が入り混じった髪の少年。
あの日、迷宮の中で誰よりも大きな声を上げ、真っ先にアネタを助けに飛び出していった少年だ。
たしか、あとから名前は――イチ、といったはずだった。
『なんでこの子たちがここにいるの……?』
そう思ったところで、アンナはようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。
視線を下げれば、二人の腕には同じ腕章が巻かれている。
海辺警備。
事情までは分からないが、どうやら二人はこの海水浴場の警備を担当しているらしい。
なるほど、と納得しかけたその時だった。
「ああ!」
イチがぱっと顔を輝かせ、アネタを指さした。
「アネタ先輩じゃないですか! 元気そうですね!」
アンナは、内心で素直に感心した。
今日のアネタは、髪型も雰囲気も普段とはかなり違うはず。
アネタを変身……もとい、おしゃれを主導したアンナ自身でさえ、少し離れた場所から見れば一瞬では分からないかもしれない――そう思っていたのに。
このイチという後輩は、まるで迷うことなくアネタだと見抜いた。
「ア、アウゥ……」
当のアネタはといえば、分かりやすいくらい狼狽えていた。
もちろん、アネタは極度の人見知りだ。
知らない人や、勢いのある相手を前にすれば、怯えたり縮こまったりすること自体は別に不思議ではない。
――けれど、今のこれは少し違う。
頬は明らかに赤く染まり、イチの視線から逃げるようにしながらも、ちらちらと気にしてしまっている。
怖がっているだけにしては、反応が妙だった。
『……え?……まさか……?』
アンナの中で、ぼんやりとしていた何かが形を持ち始める。
そして次の瞬間には、彼女はごく自然な動作で一歩横へ動いていた。
アネタを庇うように立っていた位置から、ふわりと外れ、もう一人の少年――アベルマスの方へ歩み寄る。
当然、それまで隠れるようにしていたアネタの姿が、遮るものなくイチの視界に晒されることになる。
「ぁ、アンナちゃん……」
助けを求めるような、少し潤んだ目。
けれどアンナは、にっこりと笑ってその訴えを受け流した。
『大丈夫、大丈夫。』
ここは友達として、温かく見守るのが最善だろう。
「……えっと、あの……」
「ん? アネタ先輩、どうかしたんですか?」
イチ後輩は特に気にする様子はなかった。
だからこそ、かえってアネタの方が調子を狂わされているように見えた。
しどろもどろになりながらも必死に言葉を探す友人へ、アンナは内心でそっと声援を送った。
『頑張って、アネタ……!』
その間に、アンナはアベルマスの前へ立つ。
「ちゃんと挨拶するのは、これが初めてよね。アンナ・ファルメンよ」
黒髪の少年は、物静かな佇まいをしていた。
どこか同年代たちよりずっと落ち着いた雰囲気をしていた。
……妙にこちらに視線を合わせないような気がしているけど、気のせいだろうか。
「……アベルマス・ウィドバーグです」
短く、けれど礼儀正しい返答だった。
アンナは深く頭を下げた。
「この前の白の地下聖堂では、ちょっと……ううん、かなり格好悪いところを見せちゃったわね。あの時はごめんなさい。それと――アネタを助けてくれて、本当にありがとう」
それは偽りのない本心だった。
あの時、自分は逃げた。
どれだけ言い訳を重ねても、その事実は変わらない。
だからこそ、あの場でアネタを助けてくれたことには、きちんと礼を言っておきたかった。
アベルマスは少し困ったように視線を逸らしたが、やがて静かに口を開いた。
「とりあえず、頭を上げてください。……皆が無事だったなら、それで十分です」
妙に大人びた言い方だった。
アンナは少し心が軽くなったことを感じながら、頭を上げた。
『ウィドバーグ、か……』
その名字には覚えがある。
何せ、自分達の学園の学園長の名字だから。
そして、その名字を名乗る編入生の噂なら、学園でもそれなりに耳にしていた。
入学初日から妙な騒ぎを起こしただとか、年下とは思えないほど強いだとか、女子を泣かせただとか。
どこまで本当なのか分からないような尾ひれのついた話ばかりだったけれど、少なくとも今目の前にいる少年は、そんな荒っぽい印象とは違って見えた。
「うーん……でも、やっぱり何かちゃんとお礼したいのよね」
そう呟きながら、アンナはちらりとアネタの方を見る。
相変わらずぎこちない。
けれど、さっきまでの怯えた様子とは少し違う。
緊張しながらも、会話そのものは嫌ではなさそうだった。
そこで、アンナの中にひとつの考えが閃いた。
「そうだ! お礼っていうにはちょっと大げさかもしれないけど、せっかくだし四人で一緒に夕食でもどう?」
「おっ、いいですね!」
真っ先に食いついたのはイチだった。
「あ、アンナちゃん!?」
アベルマスも静かに頷く。
「それで先輩の気が済むなら、別に構いません」
やっぱり妙に落ち着いている。
同年代の少年というより、少し年上の相手と話しているような気分になる。
「よし、決まり! じゃあ六時くらいに海水浴場の入口で待ち合わせね。絶対来てよ?」
アンナがそう言うと、イチは元気よく手を振った。
「了解です!」
その隣でアベルマスも小さく会釈する。
「では、その時間に」
二人は再び警備の持ち場へ戻っていく。
「アンナちゃん……急にあんな約束……困るよぉ……」
恨めしそうな目で見上げてくるアネタに、アンナはさらりと笑ってみせた。
「はいはい、細かいことは気にしないの。せっかく海に来たんだから、まずはちゃんと遊ばないと損でしょ?」
「でも……」
「でもじゃない! ほら、変な人たちのせいで時間無駄にした分、これから挽回するの!」
そう言ってアネタの手を引く。
友達の手は少し冷たくて、けれど力を入れればちゃんと握り返してきた。
――そのあとは、ようやく少しだけ普通の海水浴らしい時間を過ごすことができた。
波打ち際を歩いてみたり、屋台で冷たい飲み物を買ったり、日陰の休憩所で一息ついたり。
アネタは最初こそぎこちなかったが、時間が経つにつれて少しずつ表情が柔らかくなっていった。
そのたびにアンナは、内心で小さく安堵する。
やっぱり連れてきてよかった。
そう思えた。
・ ・ ・
そして、夕方。
着替えを終えて約束した場所に向かった。
水着の姿から解放されたからか、アネタは落ち着いている。……いや、落ち着いていた。
しかし約束した場所に移動するにつれて、また落ち着かないようにしている。
『これ、絶対イチ後輩くんを意識しているのよね?』
アンナはそんな友達を微笑ましく見守った。
約束の時間通り、海水浴場の入口にはもうイチとアベルマスの姿があった。
どうやら警備の持ち場はもう引き上げてきたらしい。服装も普通なものになっていた。
「お待たせー!」
「おう、先輩方、時間ぴったりですね」
イチが笑う。そしてアンナはチラリとアネタを見る。
やはり、アネタの視線はイチに釘付けだった。
そのあと四人は、海辺の通りにある食事処へ向かった。
アンナが事前に目をつけていた、海の見えるテラス席のある店だ。
席に着く時、アンナはさりげなく配置を決めた。
アネタとイチが向かい合うように。
自分はアベルマスの方へ。
アネタは一瞬だけ「えっ」という顔をしたが、アンナは見なかったことにした。
「今日はお礼も兼ねてるんだから、遠慮しないで好きなもの頼んでね。ここは私が出すわ!」
「おお、ほんとですか!? 先輩、太っ腹ですね!」
「ちょ、ちょっとアンナちゃん、大丈夫なの……? 無理してない?」
遠慮がないイチ。しかし、アンナには変に遠慮されるよりずっと好印象だった。
アネタも心配そうにこちらを見ているけど、アンナは笑って見せた。
「大丈夫大丈夫。普段お小遣い使わなかったから結構貯まっているし、これくらいなら余裕よ」
実際、アンナの実家であるファルメン家はかなり裕福な商家だ。
普段はあまり贅沢に興味がないぶん、使っていないお小遣いはそれなりにある。
料理を待つ間にも、会話は自然と続いた。
どうしてマルヴェルに来ているのか。
現地実習では何をしているのか。
昼間の海辺警備はどういう経緯で回ってきたのか。
いつまでマルヴェルに滞在する予定なのか。
などなど。
料理が運ばれてくると、会話はいったん途切れた。
海の幸を使った料理に、焼きたてのパン、冷たい飲み物。
夕暮れの海を眺めながら囲む食卓は、思っていた以上に楽しかった。
そして、イチが出されたマルヴェルエビ焼きパスタを齧りながら、いつもの調子で笑ってアネタを見た。
「いやあ、でも俺、最初ほんとにアネタ先輩だって分からなかったですよ」
「う、うぅ……」
「いや、途中で分かったんですけど! 前よりなんか、すごい雰囲気変わったっていうか!」
それを聞いたアネタが、またしても顔を赤くする。
「そ、そうかな……」
「そうですよ! でも、前の感じも別に嫌いじゃなかったですけど!」
「い、嫌いじゃ……」
言葉の一つ一つにいちいち反応している。
その様子が分かりやすすぎて、アンナは危うく悶えそうになった。
『か、かわいすぎる……!』
我が友達ながら恐れるべし。
イチは食べながらもよく喋り、アベルマスは必要以上には喋らないが、話を振ればきちんと答える。
アネタも最初こそ緊張していたものの、時間が経つにつれて少しずつ自然に笑えるようになっていた。
その横顔を見ながら、アンナは楽しげに目を細めた。
『――ほほう』
アンナの中で、とある予感が確信に変わりつつあった。
・ ・ ・
店を出る頃には、辺りはもうかなり暗くなり始めていた。
「宿まで送りますか?」
イチが気軽にそう言ったが、アンナは首を横に振る。
「大丈夫。宿はすぐそこだし、すぐに着くわ」
「そうですか? まあ、すぐ大通りですし」
「うん、ありがと」
軽く手を振って別れる。
そのあと、宿へ向かって歩きながら、アンナは隣のアネタを見た。
彼女の表情には、まだどこか夕食の余韻が残っている。
普段より明るくて、心ここにあらずというか、少し夢見心地というか。
そんな横顔を見て、アンナはますます確信を深めた。
――うん。間違いない。
アネタは、イチに惹かれている。
あんなふうに目で追って、言葉一つで赤くなって、でも嬉しそうにしているのを見れば十分だった。
まあ、今の様子を見る限り本人にその自覚はないみたいだけど。
『なら、友達として全力で応援するしかないわよね!』
アンナはこっそり、心の中でそう決めた。
そうして二人で宿への道を歩いていた、その時だった。
――脇道の暗がりから、突然ひとつの影が飛び出してきた。
「きゃっ――!?」
避けきれず、アネタの肩がぶつかる。
勢いに押されるように、彼女はその場へ尻もちをついた。
「アネタ!」
アンナは慌てて駆け寄り、しゃがみ込む。
ぶつかった相手は、全身をローブで覆っていた。
男か女かも分からないが、体格からすれば男だろうか。
「ちょっと、あなた! 危ないじゃない!」
アンナが声を荒げるが、ローブの人物は倒れたアネタに目も向けなかった。
謝罪のひとつもなく、何かに追われているかのような慌ただしさで、そのまま走り去っていく。
「なによ、あいつ……!」
アンナは怒りながら、その後ろ姿が見えなくなった路地裏を睨み着けた。
その時だった。
「……アンナちゃん、これ……」
アネタが座り込んだまま、足元を見つめていた。
視線の先には、何かが落ちている。
掌に収まるほどの、粗雑な円形の金属片。
縁はざらつき、表面には雑に削り込んだような傷がいくつも走っている。
アネタはそれを拾い上げた。
「何これ……?」
薄暗い中でも分かるほど、その刻印は乱雑だった。
丁寧に彫ったというより、無理やり抉るように刻みつけたような文字。
そこには、こう記されていた。
『祈りは天へ届かない』
どこか胡散臭い文字だった。
「さっきの人が落としたのかな……」
追いかけるには遅い。
だからといって、そのまま放置するのも気が引ける――そんな様子で、アネタは金属片をそっと懐へしまい込んだ。
『……まあ、次会ったときに返すつもりだろうけど』
その時はちゃんと返せばいい。もちろん、文句付きで。
アンナはそう思いながらアネタを起こし、帰路を辿った。
真夏とは似つかわしくない、妙に冷たい風がその場をなぞるように流れていた。
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