第三章:砂の迷宮と銀の影(1)
翌朝。
まだ空が白み切る前に目を覚まし、裏手の訓練場へ向かった。
いつものように剣を抜き、呼吸を整える。
素振りを百回。型の稽古は、輪郭を確かめる程度。
毎朝繰り返すほど、慣れ親しんだ動作ではあるが、今日はこれから予定があるので軽く体を起こす程度に留める。
昨日と同じく、黒い剣身は静かに手へ馴染んだ。
最後に一度だけ刃を振り下ろし、呼吸を抜く。
3階にあるシャワー場で汗を流し、一階へ降りた。
一階の酒場兼食事処には、まだそんなに人はいなかった。
夜には酒の匂いと喧騒で満たされる場所も、今は簡素な朝食の湯気と、木椅子を引く音だけがゆるやかに漂っている。
軽く炙ったパンに似たものと、塩気のあるスープ。それから、身の締まった白身魚をほぐして香草と和えた小鉢を頂く。
昨日の夕食ほどの華やかさはないが、十分にうまい。
静かな時間に一人で食事を進めていると――
バアン――と景気のいい音を立てて正面の扉が開いた。
「おはようございます!!! ――お、アベル! おはよう!」
思わず視線を向ければ、そこにはいつものように勢いよく片手を上げるイチの姿があった。
背中にはイチの背の高さくらいはありそうな大剣が背負われていた。
「……朝から元気だな」
「そうか? いつもと同じだぞ」
普段から元気だからな、お前の場合。
心の中で突っ込み、残り少ない朝食を早く平らげて席を立った。
イチと一緒に2階へ向かう。
「今日はついに初仕事だからな! くうぅ! 学園に入る前まではお前にはまだ早いとかでなかなかやらしてくれなかったんだよ! 毎日鍛錬してるのに!」
「……多分、実力ではなく性格のせいだろうな……」
「ん? なんか言ったか?」
「いや、何でも」
そんな雑談を交えて、ギルド長の執務室に着いた。
扉にノックした。
「入れ」
中へ入る。
室内には、すでに三人の姿があった。
机の向こうには、圧倒的な体格を椅子へ押し込むようにして座るベルドガルさん。相変わらず威圧感の塊だった。
……気のせいだろうか。 何故か少し機嫌が悪そうに見える。
その脇には、片眼鏡をかけた痩身のハノイルさん。
そしてもう一人。
窓から差し込む朝の光を背に、静かに立っている銀髪の少女。
色付きの独特な眼鏡を付けて、感情らしい感情をほとんど表へ出さない、ルネル・オルカ。
「おはようございます!」
イチが勢いよく挨拶をした。
それを受けたベルドガルさんは、いかにも面倒そうに深々と息を吐いた。
対照的に、ハノイルさんは柔らかな笑みを浮かべる。
「おはようございます。お二人とも、ずいぶん早いですね」
「実習初日ですからね! 寝坊なんてしてられません!」
「お前は寝坊以前に、その無駄に有り余る元気をどうにかしろ」
ベルドガルさんが眉間を押さえる。
イチは悪びれた様子もなく笑った。
「あれ? ルネルもいたんだ。 久しぶり!」
その言葉に、ルネルはほんのわずかに視線を向け、無表情のまま小さく頷いた。
「……久しぶり」
それだけだ。
だが、その短さに慣れているのか、イチは気にした様子もない。
「お前、相変わらず面白いくらい表情に変化がないな」
軽口を叩いたその瞬間――気のせいだろうか。
ベルドガルさんがイチを見る目が、ほんの一瞬だけ妙に険しくなったように見えた。
ハノイルさんは何事もなかったように机上の書類へ目を落とし、そのまま口を開いた。
「では、現地実習について話をしましょうか」
部屋の空気が少しだけ引き締まる。
「今日、お二人にお願いしたいのは、第二等級迷宮――黄砂の遺廊に関する複数依頼の処理です」
「待ってました!」
イチが拳を握る。
俺はハノイルさんの言葉の中で引っかかった部分をそのまま口にした。
「……"複数"依頼、処理ですか」
「ええ」
ハノイルさんは頷いてから、どこか自嘲するように淡く笑った。
「情けない話ですが、現在の蒼海の銀翼は慢性的な人手不足でしてね。 特に夏場は観光客の増加に伴って依頼数も跳ね上がりますが、人員はそう都合よく増えてはくれません」
だから、とハノイルさんは続けた。
「故に、できるだけ同じ迷宮内で、同時に処理可能な依頼をまとめて対応するようにしています」
なるほど。
確かに、同じ迷宮へ入るなら分けて行うよりまとめて済ませたほうが効率はいいか。
「詳細な依頼内容についてはルネルさんが把握しています。浅層の道案内と確認も兼ねて、彼女に同行してもらいます。気になることがあれば現地で聞いてください」
「彼女も一緒に――」
行くんですか? と聞こうとした瞬間だった。
「――もう我慢ならん!」
爆発した。ベルドガルさんが。
ベルドガルさんの顔が、見る間に険しくなっていた。
……何が起こった?
理解が追い付かない事態に、反射的に肩が跳ねる。
だが、イチは「始まった」とでも言いたげな顔をし、ハノイルさんは慣れたように片眼鏡の位置を直した。ルネルに至っては、ほとんど表情を動かさない。
……動揺しているのは、どうやら俺だけらしい。
ベルドガルさんはさっきまでの威圧感はどこへやら、どこか図体に合わない情けない姿で何かを訴え始めた。
「ルネル! やはりこの父は反対だ! 年頃の男どもと迷宮へなど、正気の沙汰ではない! ただでさえルネルは可憐で、慎ましく、気高く、世界に二つとない宝だというのに!」
無表情に、だがどこか鬱陶しいそうな雰囲気でルネルが言い放った。
「……お父様、朝からうるさい」
「うるさいではない! お前は自分がどれほど危うい立場にあるのか分かっていない!」
……俺は、何を見ているんだ?
これが、あのベルドガルさん……なのか?
人は驚くとあんぐりと口を開けたまま固まるというが、今の俺はまさにその通りだった。
イチは興味なさそうにあくびをして、ハノイルさんはまた始まったか――みたいな軽い感じの、どこか涼しい顔だった。
しばらくベルドガルさんとルネルの意味が分からないやり取りが続いた後、ベルドガルさんが俺とイチを順番に睨みつけた。
「そこの二人! もしルネルに何かあれば、いや、何もなくとも、指先ひとつでも触れたら――」
そこでベルドガルさんは、低く唸るような声で言った。
「――女神の御許に送ってやる」
……冗談なのだろうかと、一瞬思ったが、ベルドガルさんの目は本気だった。
昨日見た、あの訓練場での圧力が頭をよぎる。
この人は、やろうと思えば本当にやるのではないか。
そんな危機感が一瞬、本気で背筋を冷やした。
「ベルドガルさん、その辺りで」
さらりと割って入ったのはハノイルさんだった。
「いくら優秀とはいえ、彼らはあくまでこちらに現地実習という形で手伝ってもらうだけの身。 そんな彼らにもしものことがあれば、ハウゼンさんに向ける顔がありません。 黄砂の遺廊は罠の判別が必要ですし、その点ルネルさんがいれば問題ないでしょう。 ルネルさんにもいい勉強になると思いますし」
「いや、だが!」
「それに」
ハノイルさんは柔らかく微笑んだまま、追撃するように言う。
「いい加減子離れできない父親は、娘に嫌われるものですよ?」
ちらりとルネルを見ながら言うと彼女は静かに頷いた。
「うん。今日行かせてくれなかったら、お父様を恨んで家出する」
「…………ぐぅ! そ、それだけは……」
ベルドガルさんは絶望したような表情で、しばらく唸り始める。
だが、結局は諦めたのかベルドガルさんは心底いやそうな顔でこちらを見ながら言った。
「……分かった。 ルネルがそこまで言うなら仕方ない。 いいか、ルネルに何かあれば承知せん」
「はいはい、分かりましたって」
「お前は軽い!」
そんな感じで、話がまとまった所でルネルが先に執務室を後にした。
「行こ」
恐ろしい形状でこちらを睨むベルドガルさんの視線から逃げるように俺たちも後を続いた。
ギルドを出ると、朝のマルヴェルはすでに活気を帯び始めていた。
港へ向かう荷車。開店準備を始める露店。潮の匂いを乗せた風。
だが、ルネルはそうした喧騒へほとんど注意を向けることなく、一定の歩調で先を行く。
「こっち」
短く言われ、俺たちはその背中を追った。
しばらく歩くと、通りの一角に見慣れない看板を掲げた建物が現れる。
木板へ大きく刻まれていたのは、
――魔素補助輪車 貸出所
という文字だった。
魔素補助輪車。
また知らない単語だ。
この時代に目を覚ましてからというもの、聞き慣れぬ言葉に出会うたび、世界そのものが少しずつ遠くなるような感覚がある。
当然、それを知らないのは俺だけだ。
「お、今日マリンシャで行くのか?」
イチは目を輝かせている。
ルネルは小さく頷いた。
「黄砂の遺廊までは距離がある。歩くのは非効率」
「確かに!」
そして何の疑いもなく扉をくぐっていく。
俺も後に続いて中へ入った。
中には、これまた見たことのない物がずらりと並んでいた。
まず目を引いたのは、前後に並んだ二つの輪だ。
それを細い金属骨組みが繋ぎ、その中央には跨って座るためらしい細長い台座がある。
左右には踏み込むための機構らしいものが取り付けられていた。
前輪へ繋がる棒状の部位の先には握るための横棒があり、その付け根には小さな筒状の装置と、淡く光る石が埋め込まれている。
形だけなら奇妙に簡素だ。
だが、その簡素さの中に、道具として洗練された気配があった。
先ほどのイチとルネルの会話から察するに、これはおそらく……
「……乗り物、なのか」
「ん? ああ、そうだよ」
イチは不思議そうに振り返る。
「もしかして見たことないのか?」
「ない」
正直に答えると、イチは一瞬きょとんとしたあと、すぐに納得したように頷いた。
「アベルはたまに常識とか疎いよな。 あ、それじゃ乗るもの初めてということになるのか? まあ、アベルなら問題ないと思うけど」
そんな話をしている間に、ルネルと店の人の間で何か話がまとまったらしく、店の男が手慣れた様子で三台を引いて来た。
ルネルは何も言わず、自分の分らしい一台を受け取った。フレームの細い、軽そうな機体だ。
イチが受け取ったのは少し丈夫そうな型で、荷掛け用の小さな金具まで付いている。
残る一台が俺の前へ置かれた。
「ほれ、これアベルの分」
俺の分、とか言われても困る。
改めて見ても構造そのものはそこまで複雑ではない。
前後の輪、座る場所、握る場所、足で何かを回す仕組み。理屈だけなら理解できる。
だが、理解できることと、即座に乗れることは別だ。
俺が無言で機体を見つめていると、自分の車体へ軽やかに跨ってみせた。
「見てろよ。 まずこうやって跨って、片足で支えて――こっちを軽く踏み込む」
円を描く板が回り、後輪が少し動く。
「ある程度進んだら、もう片方も乗せて、あとはバランス取るだけ。 で、慣れたらここ」
イチが握りの付け根にある小さな押釦を指で示した。
「補助を入れる」
かち、と押す。
すると埋め込まれていた石が淡く光り、輪車が滑るように前へ進んだ。
完全に人力だけで動いているわけではないらしい。
「……なるほど」
慎重に跨り、片足で地面を蹴る。
ぐらりと傾き、危うく横へ倒れそうになるのを、咄嗟に踏ん張って耐えた。
「おっと」
「はは、最初はそんなもんだって」
「笑うな」
とはいえ、一度理屈が分かれば早い。
重心を車輪の上へ落とし、前へ進む方向へ身体を預ける。
左右へ揺れる癖だけ掴めば、あとは脚と腰でどうにでもなる。
何度か繰り返すうちに、輪車は次第に素直に動くようになった。
「……こういう感覚か」
思ったより難しくない。
むしろ、均衡を取りながら動くというだけなら、剣よりずっと単純だ。
「本当に初めてかよ……さすがアベルだぜ」
イチが呆れたように目を丸くする。
「……」
ルネルも言葉にはしないが、どこか興味ありげにこちらを見つめている。
安定して前へ進めるようになったところで、イチが先ほどの押釦を指差した。
「で、ある程度慣れたらそれ押してみ。補助が入る」
言われた通りに押す。
次の瞬間、踏み込みの重さがふっと抜けた。
輪が勝手に回る。
いや、正確には、こちらの動きを追うように後ろから押し出される感覚だ。
「……おお……」
思わず目を見開いた。
速すぎるわけではない。だが、脚を止めても進む。人力で漕いだ惰性とは違う、滑らかな加速。
「それが魔素補助。上り坂とか、長距離だとかなり楽なんだよ」
イチが得意げに言う。
なるほど。これは確かに便利だ。
千年前の乗り物と言えばアックル馬車しかいなかった。
だがこの時代では、乗り物一つでも魔素工学が日常へ溶け込んでいる。
ルネルはそのやり取りを待っていたのか、こちらが一応乗れるようになったのを確認すると、何も言わず先へ滑り出した。
銀髪が朝の光を受けて、淡く揺れる。
「おっと、置いてかれる。行こうぜ、アベル!」
イチも続く。
俺は二人の背を追い、改めてマリンシャを前へ進めた。
潮の匂いを含んだ朝の風が頬を打つ。
車輪の回転が安定したところで補助を入れると、機体はすっと滑るように加速した。
なるほど。
これは確かに、歩くよりずっと速い。
しかも、人の身体に無理を強いる速さではない。
街の景色が、ゆるやかに流れていく。
前を行くイチは慣れた様子で片手を振り、ルネルは必要最低限の動きだけで静かに進む。
それを追いながら、俺もまた、この時代の当たり前へ少しずつ触れているのだと。
そんなことを、風の中で思った。
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