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元勇者の迷宮探索者《ダンジョンシーカー》   作者: クロウィン
第二章:潮風の街、蒼海の銀翼
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第二章:潮風の街、蒼海の銀翼(4)

――負けた。


折れた木剣を手にしたまま、俺はしばらくその場から動けずにいた。



周囲ではまだざわめきが渦巻いている。


「くうぅ! 惜しかったぁ! アベルなら師匠に一発入れられると思ったんだだけどな! でも、やっぱアベルはすごいな!」


イチの興奮気味な大きな声。


「なんか動きがよく見えなかったけど、あれ何だったんだ」


「本当にイチ坊と同じ学生なのか?少なくともベルドガルさんとあんな風にやりあえる奴はギルド内でも少数だぞ」


「ああ。本当大したものだ。イチ坊もなかなか見どころはあったけど、あいつはそんなレベルじゃないな。末恐ろしいぜ」


探索者たちの興奮したような話し声が耳に入る。


だが、不思議とそれらは遠かった。


意識はまるで別の場所へ沈み込み、さっきまでの打ち合いだけを何度も頭の中でなぞっている。


――どうすれば、勝てたか。


何が、足りなかったか。


あの場面で別の選択をしていたら。


踏み込みや足運びを変えていたら。


間合いの取り方を見誤らなければ。


あるいは、最後の瞬間に選ぶべき式が違っていたなら。


……


……


……


頭の中で何度も何度も組み立て直す。


思考が続く。


ああでもない、こうでもない、と繰り返し続ける。


違う形の攻防を想像し、勝ち筋を探し、潰れた選択肢を拾い直してみる。


――それでも。


最後に行き着く答えは一つしかなかった。


俺は折れた木剣の柄を握る手へ、ゆっくりと力を込めた。


まだ掌には、ベルドガルさんの拳が叩き込まれた時の衝撃が残っている。


あの重さ。


あの硬さ。


あの一撃が木剣を砕いた瞬間の感触。


……たぶん。


いや。


――今の俺では、どう足掻いてもベルドガルさんには勝てなかった。


相手は本気ですらなかった。


それでも、こちらは終始押し込まれていた。


仮に魔素で身体を強化していたとしても、結果そのものは大きく変わらなかっただろう。


多少長く持ちこたえたかもしれない。


一太刀くらいは届いたかもしれない。


だが、勝てたかと問われれば――答えは変わらない。


そこでようやく気づく。


この敗北が、思っていた以上に自分へ深く突き刺さっていたことに。


技量が足りなかった。


肉体の鍛錬も足りなかった。


ただそれだけの話だ。


……それだけの、はずなのに。


胸の奥に引っかかるものがある。


――俺は、どこかでまだ自分を“勇者”だと思っていたのではないか。


そんな考えが、ふとよぎった。


千年前の戦場で魔王と刃を交えた男。


女神の加護を受け、世界を背負っていた存在。


そんな過去の残像が、自分でも気づかないうちに胸の奥へ居座っていたのではないか。


だが現実は違う。


今の俺は、かつての俺ではない。


女神の加護に慣れ切った身体も、あの時代を駆け抜けた完成された肉体も、もうここにはない。


あるのは若い身体と、記憶と、技の形だけだ。


認めたくはなかったが、今の俺はまだ、師から受け継いだ剣を完全に自分のものにしたとは言えない、未熟者だったということだ。


……基礎から、やり直すか。


そんな言葉が、胸の内で静かに落ちた。


どれくらいそうして立ち尽くしていたのか、自分でも分からなかった。


不意に、肩を軽く叩かれる。


「なかなか良い刺激になったようじゃの」


振り返ると、ハウゼンさんが穏やかな笑みを浮かべていた。


「イベク殿のところへ少し顔を出そうと思っておってな。アベルマス君もどうかね」


その言葉へ、横からすぐにイチが食いついた。


「お、いいじゃん! アベルならいつでも歓迎だって。俺が案内する!」


ベルドガルさんに負けたのはイチも同じなはずだ。


いや、むしろ俺より負け方が相当だったはずなのに、こいつの顔には曇りがない。


悔しがっていないわけではないのだろう。


だが、それ以上に、次の楽しそうなことへ意識が切り替わっている。


初めてイチと模擬戦を行っていた時を思い出す。


その時も悔しがってはいたけど、それを引っ張ったりはしていなかった。


イチ・ベルガという男は、こういうやつだった。


……まったく。


思わず、肩の力が抜けた。


「……本当に、お前は」


小さく苦笑が漏れる。


「……分かりました。ご一緒します」


「うむ。ではベルドガル君、少し行ってくる」


「はい」


ハウゼンさんは満足げに頷き、ベルドガルへ軽く声をかけると、そのままギルドを後にした。


ベルドガルさんが応じるのを聞きながら、俺とイチも後を追った。


外へ出る直前、ふと後ろを振り返る。


さっきまで模擬戦をしていた訓練場は、まだ熱を帯びたままだった。


探索者たちの視線も、ざわめきも、完全には冷めていない。


だが、それを背にして扉をくぐる。


そのままギルドの外に続く道を歩いて外へ出ると、潮の匂いを含んだ風が頬を撫でた。


張り詰めていた熱が、少しだけ解ける。


その横で、イチは歩き出すや否や、待ってましたとばかりに喋り始めた。


「まずさ、この辺は港に近いから朝は魚がすげえんだよ。で、もうちょい向こう行くと串焼きが上手い店があって、あそこの親父がさあ――あ、そういや夏祭りの時はあっちの通りが――いやでもその前に、やっぱ海がいいんだよ海が!」


「……そうか」


相槌は打った。


だが正直に言えば、半分も頭へ入っていない。


話に脈絡がない。


一つの話題が三句と持たず、次の瞬間には別の話へ飛んでいる。


店の話をしていたと思えば魚の話に変わり、魚の話から夏祭りへ飛び、夏祭りから海へ戻ったかと思えば、今度は子供の頃に木箱へ頭を突っ込んで怒られた話になっていた。


しかも本人は、それで十分説明できているつもりらしい。


「……つまり?」


「えーっと……まあ、いい街ってことだ!」


なるほど。やはりイチの説明では全く分からない。


……いや、ある意味では分かりやすいのかもしれない。


つまりこいつは、この街が好きなのだ。


それだけは、確かに伝わってきた。


「お、おやっさん! また昼間っから飲んでんのかよ! 今度こそおばさんにぶん殴られるぞ!」


イチが大きな声を上げる。


その先では、木箱を椅子代わりにして酒瓶を傾けていた中年男が、うるさそうに顔をしかめた。


「なんだイチ坊か。帰ってきてたのか、この騒がしいのは」


「騒がしいとは何だよ!」


「ふん。嫁が怖いからって酒を控えるようじゃ、海の男の名折れだろうが。お前もどうだ、一杯」


「いらないって! あんなの飲んだら頭ぐるぐるするだけじゃん!」


「そこがいいんだよ。ったく。相変わらず酒の良さも知らないガキだな」


「俺はマーヴ林檎ジュースで十分だよ!」


イチはそう言ってけらけら笑い、次の瞬間にはもう別の相手へ声をかけている。


「あ、ばあちゃん! 腰もう平気?」


「あら、イチちゃん。相変わらず元気ね。ええ、だいぶ楽になったよ。そうだ、ちょうどよかったわ。これ、持っておいき。家族で一緒にどうぞ」


「おおっ、ばあちゃんのクッキーか! ありがと! ルニたちも絶対喜ぶ!」


気づけば、道行く人間の何人もがイチへ気安く声をかけ、イチもまた当然のようにそれへ応じていた。


騒がしい。


落ち着きがない。


だが、その様子を見ていると自然と分かる。


こいつが街を好きな分、この街の方もまた、こいつを受け入れている。


「でさ――」


イチの説明は続く。


だが、相変わらず要領を得ない説明だったせいで、半分は聞き流していた。


代わりに、俺は改めて自分の目で街の様子を見回した。


通りのあちこちでは、職人たちが忙しそうに手を動かしている。


木材を削る者。


金属を叩く者。


魔獣素材らしきものを刻んでいる者。


細工台へ向かったまま、黙々と小さな部品を仕上げている者。


通りを行き交う人々の空気も、どこか自由だった。


いかにも街の住民らしい者たちだけでなく、外から来たらしい旅人や商人も目につく。


港から運ばれてきた荷を積み替える者もいれば、薬草らしき束や、魔光石の入った箱、あるいは氷の中へ沈められた魚を運ぶ者もいる。


中には、さっき砂浜で見かけたような薄着のまま平然と歩いている者までいた。


……やはり、この風景にはまだ慣れない。


そんなことを考えながら歩いているうちに、イチがぴたりと足を止めた。


「着いた!」


見上げると、三階建ての建物がそこにあった。


看板には、こう書かれていた。


――ベルガ工房。


イチの実家だとは聞いていたが、想像していたより――


「かなり大きいな」


「だろう?」


イチがどこか得意げに、胸を張る。


ハウゼンさんはその姿を微笑ましく見守りながら、付け加える。


「イチ君の父親であるイベク殿は王国でも指折りの職人でね。 その名声もあって、イベク殿の工房と作業室はマルヴェルでも最大級というわけじゃ」


「一階が、あのクソ親父の工房兼店。 まあ、親父の弟子さん達とか、店の手伝いさん達とかもあるからそこまで広くない感じだけどな。 で、二階と三階が家になってるんだよ。俺の部屋は三階だぜ!」


そうしてイチは正面の門ではなく、裏方用の小さな扉に向かう。


扉の向こうからは、鉄を打つような乾いた音と、熱を含んだ匂いが微かに漏れていた。


勢いよく扉を開けた。


「ただいまっす!!」


次の瞬間、視界の端で何かが跳ねた。


「――この、バカ兄貴――!」


――小さな影が、一直線に飛び込んできた。

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