第二章:潮風の街、蒼海の銀翼(3)
先に動いたのは俺だった。
木剣をわずかに後ろへ引き、深く踏み込む。
真正面。
ベルドガルさんは依然として腕を組んだまま、こちらの出方を見ていた。
ならば――その余裕ごと崩す。
俺はあえて、木剣の間合いを捨てた。
潜り込むのは、拳の届く距離。
その瞬間を狙って、剣を走らせる。
「踏み込みが甘いようだな」
――予想通りだった。
ベルドガルさんは木剣を受けるでも、逸らすでもなく、先に俺自身を打ち抜くように拳を突き出してくる。
来る――
そう思った時には、もう準備は終わっていた。
無影一刀流――
【第一式・陽炎】
拳が俺の身体へ届いた――そう見えた瞬間。
輪郭が揺らぐ。
視界の外へ滑るように身をずらし、気づけば俺はすでにベルドガルさんの背後へ回っていた。
――この一撃は通る。
そう判断して、振り抜く。
だが。
ゴンッ――
「……っ!」
鈍い音とともに、俺の木剣は途中で弾かれていた。
……見えていなかった。
一瞬だけ理解が遅れる。
それでも身体の方が先に動き、俺は反射的に後ろへ飛び退いていた。
手に残った感触は、人の肉を打ったものではない。
まるで木で鋼を叩いたような、嫌に硬い衝撃だった。
距離を取って、改めて相手を見る。
そこでようやく気づく。
……そうか。足を動かしていたのか。
山のように根を張っていたはずの巨体が、ほんのわずかに位置を変えている。
それだけで、俺の死角へ回った一撃を潰したのだ。
「なるほど」
ベルドガルさんが、低く呟いた。
「イチの小僧とは違うか。君には、少し真面目に応じねば失礼だな」
そう言って、訓練場の隅に置かれていた古びたガントレットを両手に嵌める。
ぎし、と革の擦れる音。
次いで腰を深く落とし、両拳を顔の近くへ持ち上げた。
その瞬間だった。
空気が変わる。
いや、空気そのものが変わったわけではない。
そう錯覚するほど、目の前の圧が一段跳ね上がったのだ。
さっきまでと同じ人間のはずなのに、今は別の獣でも前に立ったように見える。
だが、それでも。
魔素による身体強化の気配はなかった。
……使わないのか。
ならば、俺も使うまい。
どこまで通じるのか、純粋な技量だけで量ってみる。
周囲から、小さなどよめきが起きた気がした。
だがもう、そちらへ意識は向かなかった。
視界は目の前の相手だけを捉え、耳の奥で他の音が遠ざかっていく。
先に動いたのは、今度はベルドガルさんだった。
低く沈んだ姿勢のまま、驚くほど軽い足取りで一気に間合いを詰めてくる。
――速い!
大柄な男の動きとは思えない。
そのまま放たれた拳に合わせ、俺は再び呼吸を落とした。
無影一刀流――
【第一式・陽炎】
紙一重で拳を外し、死角へ滑り込む。
だが、今度は余裕がなかった。
反応していたはずなのに、頬のすぐ横を風が裂く。あと半歩遅れていたら、まともに貰っていた。
……危なかった。
それでも体勢を立て直し、再び斬り込もうとした、その瞬間。
「――それは、もう見た」
ぞくり――と、背筋に嫌な電流が走った。
声のした次の瞬間には、身体が勝手に動いている。
無影一刀流――
【第二式・無踏】
息を落とし、足音も気配も殺して後方へ抜ける。
ほんの一拍遅れて、俺がいたはずの場所へベルドガルさんの拳が突き込まれた。
もし無踏が遅れていたら、今ので確実に入っていた。
「面白い足運びだな」
ベルドガルさんが感心したように呟く。
その声に感心の色はあったが、優位に立つ者の落ち着きは崩れていない。
こちらは、それどころではない。
額に、じわりと汗が滲む。
……理解した。
この人に、同じやり方は通じないと。
それでも、息を継ぐ暇は与えてくれなかった。
ベルドガルさんは再び踏み込んでくる。
逃がさないというような圧が、壁が押し付けてくるように迫ってくる。
今度は、俺も避けない。
木剣を構え直し、正面から迎える。
無影一刀流――
【第三式・朧返し】
受けると同時に返す。
真正面から来る拳を木剣で受け流し、その衝撃へこちらの回転を重ねて逆に返す。
――はずだった。
「くっ……!?」
重い――!
予想していたよりも、拳そのものが重かった。巨大な魔獣が踏み潰すような、圧倒的な重量感。
――鬼腕の覇鯨。
そんな二つ名があることの意味を、ようやく理解した。
流したはずの衝撃が殺し切れず、木剣の向こうから腕へ突き上げてくる。
返すべき一撃は甘く鈍り、反撃としては不完全なまま終わった。
その隙を見逃す相手ではない。
次の拳、その次の踏み込み。
連続して迫ってくる圧に、俺は避け、払い、時に木剣の先で応じながら必死に食らいつく。
一合、二合、三合。
短いはずの攻防がやけに長く感じられた。
だが、はっきり分かる。
押されている。
ベルドガルさんはまだ本気ではない。
それくらいは分かる。
分かっていてなお、押されていた。
完全な接近戦では、剣より拳の方が速い。
本来ならこちらは距離を調整し、剣の間合いへ引き戻すべきだ。
だがベルドガルさんは、それを許さない。
距離を……取れない!
「……っ!」
距離を空けようとすれば、すぐに前へ出て圧をかけてくる。
逆に内へ潜れば、今度は木剣を十分に振るうだけの幅がなくなる。
結果として、俺に残されるのは相手の攻撃を捌き続けることだけだった。
このままでは――確実に、負ける。
そう悟った瞬間、もう選ぶしかなかった。
歯を食いしばり、突き込まれた拳を紙一重で外す。
その勢いを利用して後ろへ跳び、無踏でさらに一歩距離を取った。
だが当然のように、ベルドガルさんは逃がすまいと追ってくる。
その姿を正面に見据えながら、俺は一つ、深く息を整えた。
……魔素による身体強化に頼らず、いまの身体でどこまで断影を再現できるかは分からない。
それでも――やるしかない。
無影一刀流――
【第五式・断影】
踏み込む。
振らない。
だが、斬る。
斬撃の動作そのものを極限まで圧縮し、斬るまでの過程を消し去って、結果だけを残す。
――本来なら、そうなるはずの一太刀。
だが今の俺では、まだ足りていなかった。
気づくのが、遅かった。
剣技を放った後になって、ようやく気づく。
――刃先が、ぶれている。
本来なら消えていなければならない斬撃の過程が、わずかに残る。
斬った、という結果だけを置き去りにするには、身体も技量も届いていなかった。
そして、そのわずかな濁りは――ベルドガルさんほどの相手には致命的だった。
「甘い」
短い声。
次の瞬間、ガントレットが木剣を正面から受け止めていた。
そのまま拳が滑るように動き、木剣の刃ではなく、面を正確に打ち抜く。
その感触が手へ伝わった瞬間、頭より先に身体が理解した。
――これは、まずい。
メキッ――と、嫌な音が鳴る。
次いで、ぱきりと乾いた亀裂音。
敗北の音だった。
木剣が割れる瞬間がやけに長く感じられた。
――ああ、負けたな、と理解した。
理解、してしまった。
鬼腕の覇鯨。
その二つ名の通り、強大な肉体から放たれる一撃は、訓練用の木剣程度なら容易く叩き折ってしまった。
断影が完全に決まっていればまだ違ったのかもしれない。
あるいは、あの打撃をもっと正確に受け流せていれば、まだ続きはあったかもしれない。
だが、現実にはどちらも出来なかった。
断影を不完全に終わらせた一瞬の隙。
そこへ踏み込んだベルドガルさんの一撃に、俺は対応し切れなかった。
言い訳のしようもなく、技量で届いていない。
折れた木剣をゆっくりと下ろす。
胸の奥には、目の前の強者へ向ける純粋な敬意と、火を押し込めたような悔しさが同時に渦巻いていた。
それでも俺はそれを表へ出さず、静かに頭を下げる。
「……負けました」
途端に、遠ざかっていた音が戻ってくる。
「うわ、惜しかったって今の!」
イチの騒がしい声。
周囲の探索者たちのざわめき。
「おい、あの坊主……」
「ベルドガルさん相手に、あそこまでやるのか」
「まだ生徒、だよな?」
そんなざわめきの中で、ベルドガルさんは折れた木剣と俺の顔を見比べるようにして、低く言った。
「その歳で、その剣技。大したものだ」
それから一拍置き、静かに続ける。
「なるほど。ハウゼンさんが見込むだけはある」
認められた。
きっと、それ自体は喜ぶべきことなのだろう。
だが、素直に喜ぶ気にはなれなかった。
身体が若返り、まだ鍛え切れていないことも確かに理由の一つだ。
だが、それだけではない。
それ以上に、もっと根本的なところで――俺はまだ、この人より下だ。
技の冴え。
間合いの支配。
崩されない重心。
見切りの速さ。
どれを取っても、届いていない。
……もっと強くならなければならない。
失われた時代の手がかりを迷宮へ求めるのなら、なおさらだ。
忘れないために。
――今はただ、この悔しさを胸に刻み込んでおく。
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