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元勇者の迷宮探索者《ダンジョンシーカー》   作者: クロウィン
第二章:潮風の街、蒼海の銀翼
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第二章:潮風の街、蒼海の銀翼(1)

魔素列車と呼ばれるこの乗り物が走り始めてから、どれほどの時間が経ったのだろうか。


最初は、ただ驚くばかりだった。


あれほど巨大な鉄の塊が、本当に動くという事実に。


そして、それが常識では考えられない速度で地を駆けているという現実に。


窓の外を流れていく景色は、俺がこれまで知っていたどんな移動とも違っていた。


街道も、草原も、遠くの森も、ただ一筋の色の帯のように後ろへ流れていく。


「……すごいな」


最初は、ひたすらに新鮮だった。


この時代の技術とは、ここまで進んでいるのか。


千年前には存在しなかったものが、いまや人々の足になっている。


そんな事実に、驚きと、少しの敬意すら覚えていた。


――だが。


しばらくそうして窓の外を見つめているうちに、胸の奥へ妙な感覚が忍び込んできた。


最初はほんの僅かな違和感だった。


自分の身体は椅子に座ったまま、ほとんど動いていない。


なのに、目に映る景色だけがあまりにも速く流れていく。


視覚が告げる移動と、身体が感じている静止が、どうにも噛み合わない。


――おかしい。


この感覚は、明らかにおかしい。


そのズレが、言いようのない不快感となってじわじわと広がっていった。


やがてそれは、小さな違和感の範囲を越えた。


頭の芯が、うっすらと揺さぶられているような感覚。


胃のあたりが落ち着かず、内側からねじられているような妙な気持ち悪さ。


「……っ」


俺はそっと窓の外から視線を外し、軽く目を閉じた。


だが、それで楽になるわけでもなかった。


魔素列車が風を裂いて進む重い響きは、閉じた瞼の向こうからも容赦なく伝わってくる。


低く重い唸り。


床の下から伝わる微かな振動。


それなのに、身体はほとんど揺れていない。


耳も、皮膚も、身体の奥も、それぞれ別のことを訴えているようだった。


頭が揺れる。


視界が歪む。


胃の奥がひっくり返るような感覚。


この不快感を例えるなら、――そうだ。


昔、自分より遥かに巨大な魔獣に身体ごと掴まれ、無理やり振り回された時の眩暈に少し似ているかもしれない。


あの時ほど酷くはない。あれはもっと露骨だった。


だが、種類としては近い。


感覚が追いつかず、身体の内側だけが置き去りにされるような不快さだった。


「おや、アベルマス君。ずいぶんと顔色が優れんようだね。」


向かいからかけられた声に、薄く目を開く。


ハウゼンさんがこちらを見ていた。


その口元には、ほんのわずかに面白がるような笑みが浮かんでいる。


「……少し、妙な感じがするだけです」


「ほう」


それだけ言って、ハウゼンさんは短く笑った。


助ける気は、あまりないらしい。


ハウゼンさんはすぐに広げていた本に視線を戻した。


俺は再び目を閉じて、指先でこめかみを押さえた。


頭が痛い。


見えはしないが、自分でも分かる。


いまの俺の顔色はきっと相当悪いに違いない。


こんな種類の疲労は、これまで経験したことがなかった。


戦闘後の疲れでもない。


魔素切れの倦怠でもない。


もっと不快で、もっと説明しづらい、どうにも落ち着かない疲労感だった。


どれだけ時間が経ったのかも、よく分からない。


ただ、ずっとこの不快感に耐えていたような気がする。


そんな折だった。


不意に、車内へよく通る声が響いた。


『まもなく、本列車は目的地マルヴェル。マルヴェルに到着いたします。お降りの際には、お忘れ物のないようご注意ください。 繰り返します――』


魔素拡声器(スピーカー)とやらから流れてきた案内だった。


それを聞いた他の人たちは、列車がまだ完全に止まりきっていないうちから、どこか慣れた様子で立ち上がり始める。


その流れを横目に見ながら、俺はしばらく動けなかった。


俺とハウゼンさんは、結局最後まで席を立たなかった。


やがて列車はゆっくりと減速し、低い唸りを残しながら、ようやく止まる。


「行けるかね」


「……たぶん」


立ち上がると、案の定、足元が少しふらつく。


それでもどうにか転ばずに列車を降りて、ホームへ足をつけた。


その瞬間。


「ああ……」


思わず、息が漏れた。


靴の底から伝わる、硬い地面の感触。


さっきまで身体の芯をふわふわと持ち上げていたような妙な感覚が、足裏から少しずつ押し返されていく。


まだ頭の奥には鈍い重さが残っていたが、それでも、自分の足で大地を踏んでいるというだけで随分と楽になった。


こんなにも地面が恋しくなるとは思わなかった。


……大地とは、かくも素晴らしいものだったのか。


そんな馬鹿みたいなことを、本気で思ったほどだ。


「少しはマシになったかね」


「はい……地面が、ありがたいです」


「ほっほっほ。それは結構」


心底愉快そうに笑いながら、ハウゼンさんは先へ歩き出した。


俺も遅れまいとその後を追う。


駅舎を抜け、外へ出た瞬間、まず頬を打ったのは風だった。


潮の香りを含んだ、少し湿った風。


次いで視界へ飛び込んできたのは、どこまでも開けた青だった。


空と海が一緒に目へ入る。


その間を、白い腹を見せた海鳥たちが旋回し、甲高い鳴き声を響かせている。


「……これが、マルヴェル」


思わずそう呟くと、ハウゼンさんは振り返らずに答えた。


「そうだ。ヴェルディアでも有数の港町だよ」


ハウゼンさんの後ろを歩きながら、街の中へ入る。


街の空気はグラロスとはまるで違っていた。


グラロスが整然と積み上げられた大都市だとすれば、こちらはもっと開いている。


風も、人も、物も、絶えず出入りしているような街だった。


港の方へ目を向ければ、これまで見たこともないほど大きな船が、太い綱で岸へ繋がれている。


その船腹からは木箱や樽が次々と運び出され、日に焼けた褐色の肌をした男たちが威勢よく声を張り上げながら荷を担いでいた。


通りの端には露店が並び、氷を敷いた台の上へ大きな魚がいくつも並べられている。


見慣れない形の貝や、干物らしきものまで見えた。


音が多い。


動きが多い。


そして――どこか、自由だった。


ふと、少し離れた先に砂色が見えた。


視線を向けると、そこには広い砂浜が広がっていた。


その光景に、俺は思わず足を止めそうになった。


砂浜のあちこちには大きな傘のようなものが立ち、その下では人々が思い思いに身体を休めている。


長い寝台のようなものへ横たわる者もいれば、海の浅いところで水を掛け合い、笑っている者たちもいる。


そこまではよかった。


問題は、その格好だった。


「……なんだ、あれは」


つい、そんな言葉が漏れた。


あまりにも、布が少ない。


子供たちはまだましな方だが、大人たちは、どう見ても重要なところだけを辛うじて隠したような格好で平然と歩き回っていた。


……あれは本当に衣服なのか?


本人たちはまるで気にしていないようだったが、こちらとしては落ち着かないことこの上ない。


視線の置き場に困った末、俺は早々にそちらから目を逸らした。


……この時代の常識には幾度も驚かされてきたが……これは、どうにも落ち着かない。


少し、居心地の悪さすら感じていた。


だけど――


その異様にさえ見える光景も含めて、ひどく平和だった。


笑い声がある。


気の抜けた会話がある。


波打ち際ではしゃぐ子供がいて、それを大人が眺めている。


そこにあるのは、何かに追い立てられる緊張ではなく、ただ今日という日を楽しんでいる人々の空気だった。


――俺が知っている海は、こんなものではなかった。


あの時代、海は生きるための場所の延長でしかない。


食料を得るため、交易のため、あるいは逃れるために、人は海へ出た。


だがその海にも危険は満ちていた。


船を襲う海の魔獣。


海上から来襲する魔族。


下手をすれば、海岸線そのものが戦場になる。


俺の記憶にある海には、いま目の前にあるような呑気さも、笑い声も、休息もなかった。


あるのは生き延びるための必死さだけだった。


だからこそ、何度目かも分からない思いがまた胸へ浮かぶ。


――この時代は、平和なのだ。


何度そう感じても、そのたびに胸のどこかが少しだけ温かくなる。


「どうやら、気に入ったようだね」


ハウゼンさんの声に、俺は小さく肩を揺らした。


「……驚いてばかりですが」


「それもまた旅の醍醐味だろう」


そう言って笑うハウゼンさんの後を、再びついていく。


しばらく進んだ先で、ハウゼンさんがある建物の前で足を止めた。


見上げると、四階建てらしい大きな建物がそこにあった。


周囲の建物より頭一つ大きいが、外壁の風合いも造りも街並みから浮いてはいない。


むしろこの港町に、最初からそこにあったように自然に溶け込んでいる。


正面に掲げられた大きな看板には、こう記されていた。


蒼海の銀翼アズール・シルフィード


「ここが、これからアベルマス君が世話になるギルドだ」


ハウゼンさんはそう言うと、迷いなく扉を押し開けた。


俺もその後に続いて中へ入る。


中へ入った瞬間、最初に感じたのは、どこか探究館に似た空気だった。


広い空間の壁際には掲示板が並び、そこには依頼らしき紙が何枚も貼られている。


受付らしき場所では女性職員が座っており、何人かの人間がそこで話をしていた。


近くの長椅子には順番待ちらしい者たちもいる。


掲示板を眺めている探索者らしい者たちが依頼を確認する姿は、年齢こそ違えど、探究館で見ていた光景そのものだった。


だからと言って、完全に探究館と同じではない。


奥の方には二階へ続く階段があり、その脇には小さな酒場のような一角まで見えた。


まだ昼だというのに、そこで杯を傾けている者までいる。


酒と、鉄と、海の匂いが混ざった空間。


それが、この場所に対する印象だった。


最初のうち、誰も俺たちに注意を向けていないように見えた。


だが、一人の男がふとハウゼンさんの顔を見て目を見開いたのをきっかけに、空気が変わる。


「……おい、あれって……」


「……本物か?確かに、外見は似ているが……」


そんな気配が、視線の流れだけで伝わってくる。


気づけば、ギルドの中にいた探索者らしき面々の多くがこちらを見ていた。


そこでようやく思い出す。


そういえばハウゼンさんは、現役時代には伝説的とまで呼ばれていた探索者だったか。


いま目の前で温和に笑っているこの老人が、かつてはそう呼ばれていたのだと思うと、改めて不思議な気分になる。


その時だった。


二階へ続く階段の方から、どすどすと重い足音が響いた。


かなりの重量だ。


しかも速い。


思わずそちらへ目を向ける。


そこへ現れたのは、圧倒的な体格の中年男だった。


筋骨の盛り上がりは、ゲオルト教官と比べても見劣りしない。


いや、体格だけならそれ以上かもしれない。


見上げるほどの巨躯。


陽に焼けた褐色の肌は艶さえ帯びて見え、頭には髪がない。


むしろその剃り上げられた頭が、男の威圧感を一層際立たせていた。


さらに目を引いたのは、両腕と、顔の左側から首、そして胸元へかけて刻まれた黒い文様だった。


刺青とも違う。


雷光のように鋭く走るその線は、ただそこにあるだけで剣呑な印象を放っている。


――でかい。


それが第一印象だった。


だが、その男はハウゼンさんの姿を認めた瞬間、表情を変えた。


威圧感のある顔立ちへ、緊張と敬意が一度に浮かぶ。


そして大股でこちらへ歩み寄ると、ぴたりと足を止め、腰を直角に折った。


「お久しぶりです、ハウゼンさん。父より連絡はいただいておりました。変わらずご壮健そうで、安心しました」


外見の迫力とは裏腹に、その声も言葉遣いも驚くほど丁寧だった。


ハウゼンさんは相好を崩し、男としっかり握手を交わす。


「久しいな、ベルドガル君。前に会った時より、さらに鍛え上げたようだね」


「いえ、私など。過分なお言葉です」


この人が、ハウゼンさんの言っていたギルド長、ベルドガル・オルカ。


確か、第六等級の探索者として、鬼腕の覇鯨(オーガ・オルカ)の二つ名を持つ傑物だったか。


その二つ名と外見からは想像しにくい、静かな敬意のある態度だった。


ハウゼンさんという人物が、どれほどの存在なのかを改めて思い知らされる気がした。


そう思った矢先だった。


「おお! やっぱアベルじゃん! あれ、学園長も? こんなところで何やってんだ?」


聞き慣れた、底抜けに明るい声が背後から飛んできた。

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